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ハイキング・ウォーキング!!後藤又兵衛の末裔(自称)が激戦地の大坂夏の陣「道明寺・誉田合戦」を歩く

後藤又兵衛が華々しく散った午前の「道明寺の戦い」と後続部隊が戦った午後の「誉田の戦い」を1日で回れます。「誉田の戦い」付近は世界遺産となった古市古墳群となりますので、一緒に回れるお得なウォーキングコース!体力に自信がない方は、午前と午後を分けて回るのも十分楽しめます。

大坂夏の陣「道明寺・誉田合戦」について

大坂軍記之内 後藤又兵衛

道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)は、江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ
豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。

幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。大和方面軍は水野勝成を先鋒大将とし、松平忠輝、伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていた。

先手が山半分下るとこを一度に突けば、十のうち七、八は追い崩れる。と後藤又兵衛の山間の道を利用した「各個撃破作戦」である。さすがは「摩利支天」と言われ、戦に精通した、予想的中の作戦だったが・・・

「道明寺の戦い」

道明寺の戦い・午前

5月6日午前0時、後藤又兵衛指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着した。しかし、他に誰もまだ(後隊はおろか前隊さえも)到着していない。そして、後藤は幕府軍が既に国分村に展開していることを知る。
作戦が既に破綻していることを認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の玉手山公園一帯)に登り陣を構えた。幕府軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。
午前4時、後藤は松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けた。奥田は戦死、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成、堀直寄が来援し、かろうじて助かった。
小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが銃撃を加え、小松山にとりつこうとした。後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により後藤が被弾した。
正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤又兵衛は戦死、後藤隊も壊滅した
※Wikipediaより抜粋

「誉田の戦い」

道明寺の戦い・午後

このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃った。薄田は自ら太刀を振るったが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)村方面に後退した。
そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せた。
片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃った。片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流した。幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、膠着状態になった。
午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始した。水野勝成は追撃を主張したが、諸将は兵の疲労を理由に応じなかった。
※Wikipediaより抜粋

ウォーキングコースMAP

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コースタイム

「道明寺の戦い」コース
河内国分駅~徒歩10分~小松山古戦場跡碑~徒歩1分~小松山~徒歩3分~奥田忠次の碑~徒歩15分~後藤又兵衛基次の碑~徒歩25分~玉手橋・石川~徒歩5分~道明寺合戦記念碑(道明寺駅)~徒歩3分~道明寺天満宮~徒歩7分~土師ノ里駅※道明寺の戦いコースのみの方は道明寺駅から帰宅が便利です。
「誉田の戦い」コース(古墳巡りあり)
土師ノ里駅~徒歩9分~沖姫命陵古墳~徒歩3分~古室山古墳~徒歩3分~大鳥塚古墳~徒歩2分~応神天皇陵古墳~徒歩15分~薄田兼相(隼人)の墓~徒歩10分~誉田八幡宮~徒歩35分~仲哀天皇陵古墳~徒歩15分~葛井寺~徒歩3分~藤井寺駅

河内国分駅スタート

河内国分駅

大阪府柏原市にある、近畿日本鉄道(近鉄)大阪線の駅。
西口からスタートです。

小松山古戦場跡碑

小松山古戦場跡碑

大阪夏の陣における最激戦「道明寺合戦」の跡地。要衝である小松山の争奪を巡り、豊臣方の後藤又兵衛と徳川方の水野勝成、本多忠政、松平忠明、伊達政宗などが熾烈な戦いを繰り広げました。
大坂夏の陣では、旗本や家康とゆかりが深い武将で先発隊が構成されている。これには理由が・・・

小松山

大坂軍記之内 後藤又兵衛

小松山とはどこなのか?大坂の陣に関する文献としてよく引用される参謀本部発行の『日本戦史 大阪役』には、「小山(玉手山丘陵のこと)の片山村に接するを小松山と称す」とあり、その「小松山」をめぐって戦いがくり広げられたと記されていることから「小松山の戦い」と呼ばれるようになったそうです。

大阪府柏原市での調査では地元に残る絵図では「小松山」は見当たらない。ただ玉手山3号墳が「松山」「勝松山」などと呼ばれていたことが確認できますので、その北にあるやや低い玉手山1号墳が小松山と考えて間違いないそうです。

奥田忠次の碑

奥田忠次の墓

父・忠高が慶長6年(1601年)に死去した後に奥田家(2,800石)の家督を継ぐ。慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣・道明寺の戦いで水野勝成が率いる幕府軍の一部隊として後藤又兵衛が率いる大坂方の部隊と交戦したが、又兵衛に討ち取られた。享年42 
なお、戦後に忠次の功績を加味して奥田家は500石の加増を受けた
この時代は、名誉ある「死」が、家や子を繁栄させることになるので、戦国武将は、生き恥をさらすより、「死に様」にこだわることが多い。

後藤又兵衛基次の碑

後藤又兵衛の石碑

大阪夏の陣における道明寺合戦で、10倍以上もの徳川方の大軍を相手に果敢に戦い、討ち死にした後藤又兵衛の碑。この地から北方の片山で自害したともいわれています。
桜のシーズンはお花見で賑わい、地元では愛される憩いの場となっているそうです。

玉手橋・石川

玉手橋

歩行者・自転車専用の橋。上路部はアスファルト舗装ですが、典型的な吊り橋なので、渡るときに少し揺れを感じることがあります。
柏原市内にある玉手山遊園地への通行路として設置されたが、現在は柏原市内から通勤・通学で道明寺駅を利用する人も多い。

道明寺合戦記念碑

道明寺合戦記念碑

2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために建立された記念碑。激戦に挑んだ戦国武将の名前が読み取れるので、休憩がてら歴史研究家の気分を味わってみてください。
地元では、合戦の歴史を後世に伝えるため、「道明寺合戦まつり」などを開催しています。
驚くことに後藤又兵衛の末裔(自称)である僕が知らない「まつり」でした。調べたら真田幸村推し・・・これこそ「後藤又兵衛まつり」にするべきでしょう!!!
どうですか道明寺さん!!!柏原さん!!!

道明寺天満宮

道明寺天満宮

平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この寺を訪れている。この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。昌泰4年(901年)、道真は大宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しんだ。道真遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
菅原道真にゆかりの深い「梅」、日本の美である「桜」と観賞できるので季節を合わせるのもお勧めです。

土師ノ里駅

土師ノ里駅

大阪府藤井寺市にある。近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線の駅
古墳時代の豪族土師氏にその名の由来を持つが、土師ノ里という名は駅と交差点のみで、地名は存在しない。
2008年新駅舎になり、休憩スペースが設けられています。

仲姫命陵古墳

仲姫天皇陵

5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群では応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。
藤井寺市内で1番大きな古墳

古室山古墳

古室山古墳

四世紀後半に築造された墳丘長150mの前方後円墳で、墳頂まで登って散策することできます。ここからは、円筒埴輪列や、家、盾、甲(かぶと)などの形象埴輪が確認されています。台地の高所に位置するため眺望がよく、季節により梅、桜、紅葉などを楽しむこともできます。

大鳥塚古墳

大鳥塚古墳

大鳥塚古墳は誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のお隣りで、こちらも自由に墳頂を目指して上れる。踏み跡もしっかり付いていて、藤井寺市には天皇陵を除けば開放的な古墳が多いです。
全長110mの前方後円墳は、後円部が3段築成なのに前方部は2段で、高さは順に12m、6mになる。

応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)

応神天皇陵古墳

古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425メートル、後円部直径250メートル、高さ35メートル、前方部幅300メートル、高さ36メートルを測ります。百舌鳥古墳群の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで2番目の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立法メートルにものぼり、大仙古墳を上回っています。墳丘は三段に積み重ねられ、斜面は一面に石が 葺(ふ)かれています。テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒埴輪が立て並べられていたと考えられます。5世紀前半頃の築造と考えられています。

薄田兼相(隼人)の墓

薄田隼人の墓

夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の発生により先陣の後藤又兵衛の到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に後藤又兵衛を討死させてしまう。そこで陣頭指揮を取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、討死を遂げたといわれている。討ち取ったのは水野勝成の家臣・河村重長、本多忠政勢、伊達政宗家臣の片倉重長勢などそれぞれの家臣の説があり、はっきりしない。
後藤又兵衛の盟友と言ってもいい武将。

誉田八幡宮

誉田八幡宮

後藤又兵衛が予定時刻に道明寺に到着した時、後続の部隊だけでなく既に配置についているはずの部隊すら未到着であった。
到着した後続部隊が午後に布陣したのがここ誉田となります。

後藤隊以外の部隊は練度不足や濃霧により迅速な進軍ができず目的地への到着が遅れており、その情報の各部隊間の共有も十分に行われなかった。
部隊の教育一つを見ても、後藤又兵衛の偉大さがわかるのではないでしょうか?と勝手に言っております。

後藤又兵衛が討死した頃に薄田隼人正兼相、明石全登、山川賢信らも道明寺に到着して各自奮闘したが、薄田隼人正兼相は討死、残余の部隊は誉田村(誉田八幡宮付近)まで後退した。

更に遅れて到着した真田幸村、毛利勝永らの部隊は後退してきた残余部隊を収容、毛利隊は葛井寺(藤井寺)に布陣、真田隊は誉田村付近に着陣して伊達軍の先鋒の片倉重長の部隊と交戦した。

仲哀天皇陵古墳

仲哀天皇

墳丘長242mの大型前方後円墳で、幅の広い濠と幅の狭い堤を持ちます。堤などから出土した埴輪から五世紀末から六世紀初頭の築造と考えられています。後円部側に陪塚と考えられる鉢塚古墳があります。水が満ちる濠には、冬にマガモがやってきます。
古市古墳群では3番目の大きさを誇る

葛井寺

西国第五番札所 葛井寺
大阪藤井寺市にある奈良時代の古刹です。
本尊は国宝十一面千手観世音菩薩
孔雀の如く拡がる1041本の手と眼で
1人でも多くの人を救済します

国宝
拝観料:500円 9:00~16:30

十一面千手千眼観音菩薩
葛井寺の千手観音坐像は、文字通り゛千の手”と”千の目”を持つ千手観音様です。
頭上に十一面をいただき、錫杖や宝輪、数珠などをもつ「大手」に、孔雀のように拡がる1001本の「小手」、そして正面の合掌手を合わせ「1041本」の手を持ちます。 さらに、掌にはそれぞれ眼が描かれております。
日本では、千手観音は四十二手とされるのが一般的で、実際に千手をあらわすのは我国では唯一と言える遺例のひとつです。 端正な顔つきに、のびやかな肢体、そして千手という超人的な姿を自然な調和をもってあらわした像容は天平彫刻の粋を集めた観音像です。

遅れてきた後続部隊の毛利勝永隊は、この葛井寺に布陣、誉田村付近に布陣した真田幸村隊は伊達軍の先鋒の片倉重長の部隊と交戦し、道明寺辺りまで押し返した後に葛井寺まで後退し毛利勢と合流

豊臣軍は葛井寺から誉田の西にかけて布陣し、対する徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、両軍にらみ合いの状態になった。
ここで退却の知らせが・・・

殿軍を引き受けた真田幸村が
「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」との捨て台詞を残し、引き揚げていったのはここからです。

僕らもここで退却・・・

藤井寺駅

藤井寺駅

大阪府藤井寺市にある。近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線の駅。
藤井寺市の代表駅で、かつてはプロ野球球団・近鉄バッファローズの本拠地・藤井寺球場の最寄り駅であった。

最後に

後藤又兵衛

熱く戦い、名を遺し、散っていった我が先祖後藤又兵衛(自称)、僕もご先祖様に恥じない生き様をしようと誓うウォーキングとなりました。
徳川方に最後まで恐れられ、勧誘されたのは二人!!!それは真田幸村と後藤又兵衛。
真田幸村「信州において三万石」、後藤又兵衛「播磨一国、五十万国」
言わなくても伝わることはある・・・
今後も古戦場に出没し、後藤又兵衛の認知度アップに努めてまいりますので、後藤純をよろしくお願いいたします。

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