チカムリオ(その⑦)
そうだ。僕たちはこの公園で何かを待っていたんだ。
そして、そこに現れたのは1台の黒いタクシーだった。
そう、運転手のおじさんには悪いことをしたけれど、皆でメモしておいてよかったと思う。
本当に不思議なことだが、僕たちはあの体験に関してほとんど何も覚えていなかった。
キヨシは催眠術にかけられたのだと言ったが、そうかもしれない。
紙切れは、キヨシが着ていたジャンパーのポケットから落ちたもので、それには几帳面な字で、3人が体験した様子が事細かく書き込まれていた。
「すごい!よくそんなに書けたなあ」
そう言いながら、僕は何気なくズボンのポケットに手を入れた。すると、
「あれ?あ、あった!僕もメモしたんだ。・・・うわ、なんだこりゃ。僕なんかこれだけだよ」
僕はそう言って2人に紙切れを見せた。そこには蛇がのたくっているような文字が数行並んでいた。
下手くそな字で走り書きしたものだから、解読に手こずりそうだと、我ながら情けなく思った。
「あたしもあった、ほらここに!」
ユミがバスケットの底から紙切れを取り出した。
それには、ご丁寧に可愛らしい挿し絵まで描かれていた。
3人は、しばらくの間お互いのメモを読み比べ、どんな経験をしたのか話し合った。
さて、3人の話を総合してみると、皆、未来の自分たちの姿を見たというのは本当らしい。そして「無」のことも思い出した。
ただ、キヨシにだけは、僕とユミが見たあの幻が見えなかったようで、そのことについてひどく残念そうだったが、それはキヨシが賢すぎるせいだと思う。
でも、僕たちが覚えているのはそこまでだった。
その後はまるで夢のようで、思い出そうとしても頭の中がぼやけているようで、どうしてもその後の記憶が今ひとつはっきりしないのだ。メモもそれ以上は書いていなかった。3人とも、その時はよほど夢中になっていたのだろう。だから、チカムリオについては謎のままだった。
僕はあの時、光が周囲に満ち溢れていたような気がする。
ユミは、今までに聞いたことのないような美しい音楽が流れ、見たこともない綺麗な花が咲き乱れていたようだと言い、キヨシは人の話し声が聞こえていたようだと言った。
3人とも、最も印象に残った部分が違っていたのかもしれないし、或いは、それぞれが違ったふうに見えたり感じたりしたのかもしれない。
いずれにしても、チカムリオがどんな所だったのかは、いくら考えてもわからずじまいだった。
僕たちは公園のベンチに座って、それからしばらくの間興奮して話し込んだ。やがて日がすっかり昇り、あたりに人の姿がちらほらし始めると家に帰ることにしたが、その時までに2つのことを決めていた。
ひとつは、家に帰っても、この不思議な体験を家族に話さずにおくこと。
そしてもうひとつは、これからも時々この公園に来て、あのタクシーがもう一度現れるのを待つということだった。
家に帰ると心配していたお母さんにひどく叱られたが、僕は決してあの体験のことを話したりはしなかった。
それはキヨシもユミも同様だったと思う。
いつでも、何処にいるときでも、ふと3人が顔を見合わせるとき、僕たちの心の中には、あの不思議な”旅”のことが浮かぶのだった。
ただ、あれ以来、二度と再びあの黒いタクシーを見かけることはなかったのだが。
五
「・・・かね」
「・・・え?」
「切符は持っているかね」
運転手が独り言のように尋ねた。私は長い回想から呼び戻され、ふと正気に戻った。
後部座席の窓にぼんやりと映った姿は、小学生の私ではなく、くたびれ果てた中年男のものだった。
「切符?・・・ああ、そうか」
私はうろうろと視線を揺らし、無駄と知りつつ背広のポケットをさぐった。
「確か、紫色の切符でしたっけ。・・・あの、済みませんが、今持ち合わせがなくて」
私は飲み屋でツケを頼むときのような、間の抜けた言い方をした。運転手は少し笑ったようだ。
「紫色か。プレミアム・クラスの往復切符だな。それを知っているということは、君は以前これに乗った経験があるのかな?」
「あ、はい。もうずいぶん前に。小学生のときです。友達と3人で」
私は話しながら、車内を注意深く観察していた。
一見普通のタクシーと変わりがないようだが、助手席の前に必ず貼られている、例の運転手の写真付きの証明書が見当たらない。
そして、運転席の背もたれによく見られる広告やチラシの類も一切ない。
ただし、煙草の吸い殻入れは目の前にあったので少し安心した。
車内は青みがかった灰色で統一されている。運転席の計器板は黒色であり、緑色にぽおっと光る、得体の知れない計器類が並んでいるのは、ほぼ、あのときの記憶どおりだ。
車の外はミルク色の深い霧が渦を巻いているようで、何も見えない。
「ふむ、思い出したよ。あのときの3人組のひとりだね。それで、今回はどうするかね」
ミラーには運転している紳士の顔が写っているが、口元から上はぼんやりとしてはっきり見えない。しかし、白い髭をたくわえたその口元は、とても穏やかそうに見える。
「それでって、あの、チカムリオまで行ってもらえるんですか?切符もないのに」
「君の場合は非常に希なケースなのだよ。前にも言ったと思うが、この車を認識することすら、普通の人間には不可能なのだ。特に、君のような年齢になってからはね」
ここで紳士は少しの間押し黙り、何か考え事をしている風だったが、やがて軽く頷くと、再び口を開いた。
「ああ、そういえば君だったかな、途中で窓の外の光景が見えなくなったと不満そうな顔をしていたのは」
私は思わず身を乗り出しながら大きく頷いた。
「はい。それであのとき貴方は、いずれまた見る機会がやってくるだろうって・・・」
「ふむ、そうだったな。ではチカムリオまで行く資格は充分あるというものだ。しかし、予め断っておくが、君のように切符無しの場合は片道止まりだが、それでもよいかな?」
「はい。あそこへもう一度行けるなら、なんだって構いません」
言ってしまった後で、私は紳士の言葉の意味に気がついた。片道というのはつまり、行ったきり帰れないということだ。それはやはり、死を意味するのだろうか?
しかし、私は意を決して運転手の背中を見つめた。
現実の世界にはもう何も魅力を感じないのだ。
それに、片道ということは、とりあえずあのチカムリオまでは確実に行けるということじゃないか。
「それで、過去回りかね、それとも・・・」
「未来の方でと言いたいところだけど、とりあえず過去回りでお願いします。僕に残された未来があんまり短くても困るから」
「うむ、とりあえず、ね」
紳士は軽く頷き、何かのスイッチを押してギアーを入れた。
「ウィーン・・・」
聞き覚えのある低い音が、まるで地の底から湧き出るように聞こえ、やがて車が静かに動き始めた。
(続く)
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