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僕が出会った風景そして人々(番外編⑥)

滑稽と悲惨は紙一重である

さて、この現場、構成メンバーが豪傑(?)揃いだったのと、図らずもリーダーとなってしまった僕の力量不足もあって、かなりグダグダのスタートとなってしまった。

僕が所属していた遺跡調査会は、当時の東京都においてよく見られた、いわゆる自治体の外郭団体で、会長は○○市の教育長であり、事務局は市役所の社会教育課というお堅いところであったが、現場で働く人間は正反対。あろうことか自称天才が何人もいて、統制がとれないこと甚だしかった。

さて、この物語の趣旨とは少し離れるが、当時の東京都における遺跡発掘調査についてもう少しだけ述べてみよう。

1965年頃から東京都の人口増加を見込んで、稲城市、多摩市、町田市、八王子市にまたがる範囲を都のベッドタウンとする計画が動き出した。これが「多摩ニュータウン」だ。新宿駅から1時間以内で帰ることができる所に住宅地を造成しようとしたのだ。

しかし、大規模な開発行為に際し、昭和25年に制定された「文化財保護法」が立ちはだかった。すなわち、開発をするには、そこに埋蔵文化財があるかないかを先行調査(試掘調査)によって判断し、もしあるとわかったならば、本格調査を実施しなければ開発そのものが許可されないという現実があったのだ。

先の多摩ニュータウンの場合、あまりに範囲が広いので、一括して発掘調査をまかなうために「多摩ニュータウン遺跡調査会」が発足した(1965年)。開発が進むにつれて調査会の規模も拡大し、1980年には「財団法人東京都埋蔵文化財センター」となった。やがて多摩ニュータウンの開発が進むと、肥大化した組織を維持する目的もあって、調査の範囲も東京都全域に広がっていった・・・。

ああ、疲れた。こんな堅苦しい話はもうやめよう。
 まあ、当時の僕はこんなこと、一瞬たりとも考えなかった。ただひたすら素晴らしい小説を書こうと苦悶し、夢と現実のギャップに打ちひしがれる日々を送っていたんだ。

話を元に戻そう。とりあえず、調査は僕と○塚君を含め、10名ほどのメンバーで始められた。まあ、調査の状況がどうだったかは、この際省略させていただこう。それよりも、この現場で繰り広げられた人間模様について語ってみたい。

なにぶん、経験不足の人間がリーダーを務めるわけで、肝心の発掘調査が思うように進まないのは当然だった。後に正規の調査員、ジャングルK内が合流するまでは、僕にとっては受難の日々と言っても過言ではなかったと思う。ホントに。まあ、後には楽しい現場になったのだが。

初日から遅刻したのはM村。前夜、さんざん酒を飲んだそうで、二日酔いの状態で登場し、時折、調査区の片隅でえずいて・・・・いた。

S西氏はヨガの行者が着るようなオレンジ色の上下を身にまとい、痩せた体をユラユラさせながら歩いている。軍手とエンピ(剣スコ=先が尖ったスコップ)が似合わないことおびただしいのである。

ヒゲ面のG藤氏はつまらなそうな表情でため息をつき、「現場でタバコを吸ったらだめかい?」などとのたまっている(ダメです。発掘調査では化学分析なども行うので、タバコは厳禁です)。

Y田君(福山雅治のそっくりさん)は、ちょっと気取った感じで「なんつうかAさん、この現場はよお、やっぱ変なやつが多いよなァ」と多摩弁でまくしたてた。
 「お前もそうだ」と言いたかったが、彼が一番若くて腰が軽そうだったので、ぐっと我慢した。まずはこいつを手なずけて現場を回していこう・・・僕はそんなふうに考えたのだ。

そしてもう一人の問題児、天才画家(?)のTムラは、現場の片隅で軍手を脱ぎ、鼻毛を抜きながら空を眺めている。
 僕が近づくと、「Aさん、いい天気だから早く休憩にしようよ」と無邪気に笑った。

ドロップアウトしているくせに以外と小心者の僕は、現場が始まってから1週間ほどの間、酒も喉を通らないほど悩んだ。冗談ではなく、本当に胃がキリキリ痛んだ。頼みの綱のI塚クンも、「この現場、やばいっすよねー」と心配そうに囁いた・・・。

少々早いが、ここらで少し休憩としよう(明日の仕事もあるし・・・)。
 はてさて、この先いったいどんな事が待ち受けているのであろうか。
 賢明なる読者諸氏よ、しばし期待して待たれよ。(期待してね)

(続く)

※次回以降、また僕の恋愛物語も織り交ぜていきたいと思います。舎人で培った純情も、年齢と共に少しずつほぐれていくのでした。
 読んでみたい人もそうでない人も、少しだけお付き合いいただけたら嬉しいです。ではまた。


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