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書くという行為を通じて自分をより深く知るために〜さみしい夜にはペンを持て/古賀史健

日記を書き始めたのはいつだったか。
はっきりとした記憶はありませんが、高校の時には毎日とはいわずとも、時々メモらしきものを残してたりしました。
その習慣は大学に入ってからも続き、毎日の習慣といってよいかは不明ですが、ほぼ日手帳にその日考えたこと、出来事、雑感などをメモしていました。

で、昨年からは5年日記なるものを購入しました。
現在まで365日と約1ヶ月は毎日欠かすことなく日記を書いています。

この5年日記をはじめ、N年日記の良さは「強制的に1〜4年前の日記も目に入る」ということ。
振り返ってみると、
・こんな起こらないこと心配してるな〜、過去の自分
・何をこんな些細なことでイラついてるんだ、過去の自分
と多数のツッコミを入れたくなります。
よく言えば、それだけ自分を客観視できるようになったとも言えますし、今後も余計な感情の波風を立てずに生きていきたいなという思いは募るばかりです。

本書は「嫌われる勇気」を大ベストセラーにした編集者、古賀史健さんが書くことの大切さを小説のストーリー仕立てで解いたもの。
自分はすでに日記を書くことを習慣化しているので、それに関しては本書を読んで変わることはないのですが、「書く」という行為の奥深さを改めて認識する読書体験となりました。
日記の習慣がない人は、きっと読後、日記帳を買うことになるでしょうw

便利な言葉で片付けない

感想文を書こうとすると、「感動しました」とか「びっくりしました」とか「おもしろかったです」とかのよくあることばですませてしまう。パッと思いついただけの、何にでも使える便利な言葉で片付けている。

人間、考えるためには間違いなく「書く」ことが必要です。
その書くときの第一のポイントとしては、手っ取り早く便利な言葉で片付けてしまわないこと
・感動した
・びっくりした
・勉強になった
・ためになった
感想を求められると、多くの人はこういった陳腐化したフレーズを使ってしまいがち。確かに、感動はなかった、勉強にならなかった、とは言いませんし、それも本当のことでしょう。
でも、これらのフレーズで自分の経験を丁寧に言葉にすることを簡略化すると、やがて、自分の気持ちがわからなくなってしまいます。
むしろ、こういったフレーズ自体、経験をする前から準備できますね。

確かに、個別の体験やその時の考えや感情を言葉にするのには手間がかかります。でも、まずはその手間を惜しまないということが大事。
その積み重ねで、本当の自分が少しずつ理解できていくのです。

個人的には自分が体験する全てを「常套句で片付けない」ことは、成長の観点からも非常に大切だと考えてます。
自分は会社で教育担当をしています。
アンケートを取ると必ず書かれている言葉が「勉強になりました」「ためになりました」というもの。
勉強してもらうことも、ためになることも嬉しい限りですが、厳しい言い方をすると、勉強してもらう・ためになってもらうように教育をデザインしているので、それは当然なのです。
こちらの希望としては、もう少し解像度高く
具体的にどういうところが勉強になったのか
実務でどうやって生かしていくのか
といったところを聞きたい。
むしろ、他人に見せるかは別として、個人のなかでそれくらい解像度を高めておかないと「なんとなく知ってる」という頭でっかちで終わってしまうのが目に見えています。

自分の感情をより掘り下げて言葉にしていくプロセスは自分を知ることに繋がり、学習内容をより細かく言語化することは成長につながる、とでも言いましょうか。

出来事ではなく考えたことを書く

・・・日記ってね、毎日の出来事を記録するものじゃないんだ。つまり「その日なにがあったのか」を書いていくんじゃなくて、「その日なにを思ったのか」や「その日何を考えたのか」を書いてくものなんだ。その目で振り返っていけば、昨日と同じ日なんて一つもないはずだよ。

日記をつけ始めたばかりのころは「書くことない」というネタ切れを起こすことが多々・・笑 でも、書くことって出来事に限定する必要ないですし、イベントごとだけ書くのであれば、むしろ日誌に近くなってしまいます。
たとえ朝起きて一日中ベットの中にいたとしても、何も考えない、思わないということはないはずです。一日を無駄にしてしまった、と思えばそのことを書けばいいし、明日は頑張って布団から出てみようと少しでも思ったのならそれを書けばいい。
出来事を羅列するのはそれはそれで振り返る際に有益な材料とはなりますが、大なり小なり、思ったこと・考えたことは未来の自分に残してあげましょう。

みなさんも、自分をより良く知るために日記を始められてはいかがでしょうか?

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