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「フンコロガシのエサ代に給料が消えた貧乏教師」昆虫記ファーブルの年収を公開!

「ファーブル昆虫記」で有名なフランスの博物教育者アンリ・ファーブル。

ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(フランス語: Jean-Henri Casimir Fabre、1823年12月21日 - 1915年10月11日)は、フランス国籍を持つ博物学者であり、教科書作家、学校教師、詩人としても顕著な業績を残した人物です。

彼は昆虫の行動研究の先駆者であり、幼少期から昆虫に魅了されていました。また、彼は昆虫学研究の成果をまとめた『昆虫記』で広く知られています。さらに、作曲活動も行い、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても高名です。

フランスを代表する文学者・博物学者であるジャン・アンリ・ファーブル。彼の代表作である「昆虫記」は数々の賞を受賞し、現在でも多くの人々に愛され続けています。そんな彼ですが、果たして彼の年収はどのくらいだったのでしょうか?

本記事では、ファーブルの生涯や業績について簡単に紹介したうえで、彼の年収について調査した結果をお伝えします。彼のことをよく知っている方はもちろん、初めて彼について知る方にも、興味深い情報が盛りだくさんの本記事を是非お楽しみください。

親ガチャ大失敗!!不幸な人生をスタートしたファーブル


彼の教員生活は10代からスタートしました。

しかし、それは彼の本意ではありませんでした。
彼が15歳の時に父親が事業で大失敗して一家は離散してしまいます。
ファーブルは困窮してしまい、自活するために、19歳で教師として仕事をせざるを得なかったからなのです。

21歳で結婚、妻子を連れてコルシカ島に引っ越します。
その教師時代の彼の年収が記録されています。

現在の貨幣価値に換算して。

19世紀の1フラン=現代日本の1000円としてみると。

教員生活25年を迎えてなお、

年収は、たったの160万円。


単純計算で133フラン=月収は13万程度という、かなり厳しい数字がはじき出されます。

勉強をしながら、一所懸命に働いても、このまま低収入で、自分は「貧乏教師」だと自嘲していたことが記録されています。

フンコロガシのエサ代に苦しむ。

1853年からいよいよ「昆虫記」の研究に取り組みますが、彼の頭を悩ませたのが、フンコロガシのエサ代で、一日の日給の1/10ほどかかりました。

「くそむしの家計の予算がこんな金額を上回ったことは一度もなかったろう」と憎々しげに書いています。(完訳・ファーブル昆虫記)

妻子あるファーブルにとって、この出費は大いなる痛手で、ついには、フンコロガシも環境に適応できずに全部死んでしまいました。

子供のバイトを雇って研究

のちにファーブルは長年の研究から、フンコロガシの「育児室」を比較的自由に掘り当てられるようになります。

それは、キャラメル一個で、糞を集めてくれる子供を見つけたからだとか。

しかし、それは彼が、フンコロガシの研究を始めてから、なんと40年も経ってからのことでした。

ファーブルの知名度は?

アヴィニョンには、Rue Henri Fabre(アンリ・ファーブル通り)と名付けられた道があり、これはファーブルの功績を称えて命名されたものです。同様に、パリでも蚤の市で有名なクリニャンクール(Clignancourt)に Rue Jean-Henri Fabre 通りがありますが、皮肉にもこれらの道を通行するほとんどの人々がファーブルが誰であるかを知らないとされています。加えて、フランス人の大半が彼の業績や人物像についても知らないという声もあります。

ファーブルの生家はサン・レオンにあり、功績を記念して銅像が建てられています。しかしながら、第二次世界大戦中はナチスドイツ軍によって接収され、武器の材料として使用されたことがありました。

しかし、その後レジスタンスによって奪還され、地中に埋められたのち、今では彼の生家の庭に立てられています。

なお、ファーブルの書籍である『昆虫記』を題材にした子供向けのマンガや絵本が、日本・韓国・中国・ロシアなどで多く発行され、一般的に読まれています。そのため、これらの国々ではファーブルの名がよく知られていますが、フランス・ドイツ・英米などでは彼の名前についての関心は低いとされています。

ファーブルのダーウィン「進化論」への批判


最後に、カソリック教徒であるファーブルが進化論に強く反対していたことについて触れまておきましょう。

彼の『昆虫記』の中で、彼はダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンの観念的な進化論に対して強い批判を記していました。

しかし、彼は進化論に対する批判を通じて、進化や自然淘汰のプロセスが語られるようになった現代の科学知識にも貢献したことは忘れてはいけません。

ファーブルは科学者として、自然界に対する高い畏敬の念を持っていました。彼は、進化論が科学的な真実とはいえないと信じていましたが、彼自身の観察や研究に基づき、科学的な知識を蓄積することに貢献しました。

ファーブルが進化論に対して持っていた批判は、科学者同士の議論や反論がさらに発展するきっかけとなりました。

私たちは、ファーブルの批判を学ぶことで、科学的な意見の相違が発生しても、お互いの立場を尊重し、議論を深めることができることを学びます。

進化論が普及してから150年以上が経ちますが、これからも科学的な議論が続いていくことは確実です。

そうした中で、私たちは、ファーブルのように、互いに譲り合いの精神を持ちながら進化論を含む科学的な理論に向き合っていく必要があるでしょう。

まとめ

この記事では、ファーブルの年収についてご紹介しました。彼は、卓越した学者でありながら、貧しい生活を送り続けました。

しかし、それでも彼は死ぬまで研究と探求を止めることはありませんでした。彼の不屈の精神は、我々にとって学びの機会であり、励みにもなります。

私たちは、高い給与を得ることに時間を費やしすぎているかもしれませんが、学問や探求に自分自身を費やすことが本当に大切なことだと、ファーブルは教えてくれました。

ファーブルのように、少しの収入でもあきらめず、努力し続けることが、我々がより豊かな人生を送るための鍵です。 このように、ファーブルの年収は、長期的観点での研究・探求を続ける大切さを改めて示しています。

私たちは、収入の拡大だけに注目せず、自己啓発に力を注ぐことで、より意義のある人生を歩むことができるでしょう。

参考資料
「ファーブル昆虫記」
完訳 ファーブル昆虫記 第1巻 上 | ジャン=アンリ・ファーブル, 奥本 大三郎 |本 | 通販 | Amazon
「偉人の年収」堀江宏樹 イースト新書
「進化論」ダーウィン
ウィキペディア 主に人物の経歴を参考とした。

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