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全文公開 『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』第9回

友達なんていらない。彼氏も彼女もいらない。ぼくたちは居場所がほしい。
ゾンビがいたってかまわない。
どこか居場所を求めてゾンビのように彷徨う若者たちの、ポップでせつない青春小説。

第4回ジャンプホラー小説大賞、初の金賞受賞作『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』全文公開第9回。

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それではお楽しみください。

マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に 第9回

 僕が失踪するまでの出来事は、概ねこの通りかな。
 今、これを書いている真意も、これまで書いてきたことの中に入っている。
 そうだよ、先輩。僕は先輩たち四人が再び集まるように、これを書いているんだ。なにもなかった時間が、なにげなかった日々が──皆で一緒に過ごした思い出が、やっぱり愛おしかったと思えるように。
 本当はメールか電話で先輩たち四人を病室に呼びつけるつもりだった。集まった皆に囲まれて死んでいく間際に、「これからも、四人、ずっと仲良くね」って僕は言うつもりだった。弱々しく、囁く感じでね。こんな風に言われたら断れねーじゃん、って先輩たちの涙を誘うつもりだった。
 僕の遺言を聞いた先輩たちは、これから別々の人生を歩んでいきながらも、あの部室棟の空き部屋に集まっていたように、僕の命日には僕の墓石の前に集まるんだ。そして先輩が「可哀そうなやつだったな」と花を手向けながら言い、近況報告会へと居酒屋へ去っていく。そんな先輩たちの後ろ姿を、幽霊となった僕が墓石に身体を預けながら見送る。
 そんな未来を、僕は頭の中で思い描いていた。
 そうなんだよ、先輩──。
 僕は攫われたんだ。

 あの後──東京スカイツリーを後にした僕は、エナさんと一緒に隅田川の遊歩道を散歩した。いろんな話をしたけど、内容は覚えてない。エナさんは相変わらず自分のことしか話さなかったし、内容はどうでもいいことばかりだったからね。
 ただ、僕も結構テンション上がってて、どうせ死ぬんだからって隅田川に車椅子を放り投げた。ちょうど潮が下がり始めた頃だったから、シーバス釣りのお兄さんがすっごい形相で睨みつけてきてさ、僕らは笑いながら逃げ出した。
 たぶん、ここまでは先輩も知っていると思う。僕とエナさんが別れたのはこの時だったし、それはエナさんも証言しているはずだから。
 ほら、僕ってゾンビ患者じゃん? もう、かなりのところまで腐っているからさ、走っていくエナさんについていくことは体力的に無理だったんだ。ID細胞に神経系を支配されちゃえば可能だったけど、ゾンビはスーパーパワーじゃない。僕は待ってって言ったんだけどね。エナさんって、他人の言うこと聞かない人だから。
 見失ったエナさんを探して、僕は路地裏へ入っていった。スマホで連絡を入れようと思ったけど、車椅子を投げる時にバッグをエナさんに渡していたから無理だった。これはもうどうしようもねーな。さすがの僕も、エナさんの人間性を諦めたよね。
 その時だ。背後からハンカチを口元に押しつけられたのは。
 その剛腕から逃れる術を持たない僕は、そのまま気を失った。

 目を覚ました僕は、真っ暗な闇の中にいた。
 身体をもぞもぞと動かそうとしたけど、薬が効いているせいか筋肉は言うことを聞かなかった。それでもわかったのは遺体袋に入れられていたこと。入院生活で、何度かIRZの特殊衛生処理班が出動するところを見ていたからね。
 そんな僕が入った遺体袋を、誰かがお姫様抱っこするように運んでいた。
 そいつはしばらく進んだ後、階段を下り、僕を冷たい床の上に置いた。
 ああ、自分の運命ってやつに憤ったね。
 ここに来て〈ゾンビ狩り〉に捕まるなんて、これ以上に不幸なことってないじゃん。ジョークにしても度が過ぎている。
 ジー、とジッパーが下ろされる。
 急に射し込んできた真っ白な光に、僕は目が眩んだ。
 袋から引きずり出された僕は、そのまま壁に背中を預ける形で座らせられた。
 何者かが僕の手を片方ずつ取り、手首になにかをカチャリとはめた。軽く万歳するような格好にされた僕はさ、ひんやりとした感覚から手錠をはめられたのだとわかった。寝る時にはいつも自分ではめていたからね。
 そいつはしゃがみこみ、僕と視線を合わせて覗き込んできた。
 最初にわかったのは、嗅覚を抹殺するミント臭。クールルノワールの香水を煮詰めたような、凍てつくほどの強烈なミント臭。
 徐々に明順応が進んでいき、ぼんやりしていたそいつの顔が鮮明になっていく。
「…………Aさん?」
「もう心配することはないからね、藤堂(とうどう)くん。大丈夫だから」
「なにが……?」
 茫漠とした意識の中、僕は辺りを見回した。
 床や壁、天井に貼りつけられているのは白いタイル。蛍光灯の灯りに照らされた白い世界の端っこには、猫足のついたバスタブ。
 Aさんちの地下室だ。
 一瞬で絶望の淵に落とされた僕に、Aさんは優しい笑顔を浮かべてみせた。
「ゾンビ患者に会っているとね、大体、わかるの。あ、この人、残念な人生送ってきたんだなとか、まだやり残したこと、やりたいことがたくさんあるんだな、とか。……でも、一番深くわかってしまうのはね、その人が生きたいと思っているのか、死にたいと思っているのかってこと……。藤堂くんを見ていて、私はずっと思ってた。どうやったら、この子を救うことができるのかなって。安楽死が行われる明日までに、どうしたらこの子を助けられるかなって──だって、藤堂くん、死にたくないでしょ?」
「……知ったふうな口、きかないでください」
「大丈夫。わかってるから」
 Aさんは僕の頭を愛おしそうに撫でてきた。
「……明日、安楽死するんです。皆に囲まれて、最期を迎える。それが僕の願いです。友達を呼んでいいか母さんに聞かないと」
「友達なんていないじゃん」
 僕はすぐには答えられなかった。
 Aさんは僕を慰めるように、僕の頬を軽くつねった。
「私はずっと、藤堂くんを見てきた。だから、わかるの。せっかく誘った友達が、実は友達じゃなかったなんて知りたくないでしょ。藤堂くんのスマホに映っていたお友達、彼らは一度も見舞いに来なかったもんね。そんな寂しい思いを抱えたまま、死にたくはないでしょ? そんな不幸を、藤堂くんには感じてほしくない」
 Aさんは僕をそっと抱きしめた。頬に軽く触れた彼女の髪先から、ミント臭ではない、熱気を持った生々しい女性の香りが、僕の鼻腔にまとわりついた。
 僕はぞっとした。人肌というものが、こんなに気持ち悪いものだとは思わなかった。
「ステージ5への移行は、たぶんとっても辛いと思う。時々自我を取り戻して、殺してと発作的に懇願するわ。一乃(いちの)もそうだったからね。でも、安心して。藤堂くんが生きている限り、私は藤堂くんを生かし続けてあげるから」
 Aさんは身体をスッと離すと、ポケットから注射器を取り出した。
「一緒に、最後まで戦おうね」
 彼女は注射針を僕の首元に突き刺し、中身を注入していった。
 意識がすぅっと僕の身体から離れていった。

 これが、僕が無事に安楽死を遂げられなかった真相だ。
 後からAさん本人に聞いた話なんだけどさ、僕を攫ったのは二人組の男で、IRZの特殊衛生処理班の人たちらしい。求人サイトを見て応募してきた人たちじゃなくて、彼らを統括するIRZの正規社員。
 実はこのIRZ、検体となるゾンビ患者を秘密裏に集めているそうなんだ。ゾンビという病気の全てを解明するためにね。ただ人権擁護や補助金制度の厳密化のせいで、正規ルートで検体を手に入れることはほぼ不可能になってしまった。不幸なことに、TLCウイルスが犬に注入された新型ファージの突然変異によって生まれたように、ゾンビの研究に動物実験というものはあまり期待できない。
 そこで、IRZはなかなか安楽死を決めないゾンビ患者を見つけては、失踪という形をとって回収し始めた。〈ヒト〉として死んだゾンビ患者の遺骨は遺族へ返さなければいけないけど、〈ヒト〉ではない完全なるゾンビの遺骨はその必要がないからね。そのゾンビは殺処分致しました、と事務的に対応すれば、回収したゾンビの存在は闇に葬れる。
 ああ。ゾンビ患者の心理サポートをIRZの職員が行っているのも、検体候補を探し出すのが目的みたい。
 それを利用して、Aさんは一之瀬(いちのせ)さんと僕を回収したってわけ。
 もうわかったよね、先輩。僕がどうしてAさんを匿名にしているのかという理由を。
 もし、Aさんの悪事が明らかになってしまえば、IRZは完全にゾンビ患者の検体を回収できなくなる。まさか職員が身を張ってゾンビになるわけにもいかないし、医学の発展のために完全なるゾンビになりますと言う英雄もいるはずがない。もしかしたら、一生、人類はゾンビと付き合うことになるかもしれない。ID細胞に正式な名前も付けられないまま。
 そんな未来を、僕は望んでいない。
 だから先輩、Aさんのことはそっとしといてあげて。くれぐれも、誰であったか調べないように。……いや、美人だったけどさ、そこは我慢して、皆にも内緒にしといてね。

 ともかく……。
 Aさんはべつに嫌がらせをしているわけではなくて、本気で僕のためを思って拉致監禁しているらしかった。腐敗を抑制する薬も毎日投与されたし、簡易的ではあったけど、検診も毎朝行ってくれた。点滴もしてくれたし、身体を洗ってくれたり、着替えを取り換えてくれたり、僕が死なないよう献身的に世話してくれた。
 ああ、一之瀬さんはこんな気持ちだったのかと、僕が初めて他人の気持ちを理解することができたのは、ほんの数分だけ。
 僕は何度もAさんに向かって「帰りたい」と叫んだ。時には泣きながら「殺してください」と懇願した。IRZのことも、Aさんのことも、絶対に誰にも言いませんのでここから出してくださいってね。
 その都度、Aさんは僕を抱きしめて「大丈夫だよ」と慰めながら薬を投与してきた。
 だから、僕はこの期間のことをあまりよく覚えていない。常に薬で意識が朦朧としていたからね。
 一つだけハッキリしていることは──Aさんには話が通じないということだけだった。

 ふっ、と意識が深い闇の中から浮上した。
「うぅ……」
 目を覚ました僕は、風船みたいに軽い頭を壁に打ちつけ、明瞭な視界を取り戻した。
 Aさんちの地下室をぐるりと見回す。
 白いタイルの貼られた空間には、隅っこに設けられた排水溝、一之瀬さんのID細胞が入ったバスタブ、そして鍵のかかった頑丈そうなドア。
 何時何分かはわからない。窓がないし、夜なのか昼なのかも判別できない。蛍光灯は常に点けっぱなしで、時間という概念がこの空間からは取り除かれていた。
 僕は〈F〉のつく言葉を虚空に呟いた。洋画の影響だ。
 脱出しなければいけない。いつまでもここに囚われていれば、僕の自我もいずれ消え、猫足のついたバスタブが一つ増えてしまう。そして先輩たち四人が、このまま空虚な過去を抱えて生きていくことになる。それだけは避けなければならない。
 両手首にはめられた手錠をぐっと引っ張ってみる。腐敗した身体は筋肉の衰退が著しく、合金の鎖がかちゃりとなっただけだった。僕の右手を壁と繋ぐ鎖も、僕の左手を壁と繋ぐ鎖も、それぞれの手を肩から下に下げることすら許してくれない。手錠から手を抜き取ろうとしてみたけど、無駄だった。万歳の格好だと思ってたけど、降参の間違いだったみたい。
 Aさんが点滴を打とうとする隙に襲いかかるのも不可能だ。Aさんはゾンビ患者の扱いに慣れているし、僕を眠らせる薬を常備している。それに、今の僕はもはや骨と皮だけの重篤患者。手錠を繋がれていなくとも、Aさんをフィジカル面で上回ることはあり得ない。
 僕は〈F〉のつく言葉を繰り返した。何度も、何度も、呟いた。それ以外になにも考えられなかったし、そうしていなければやっていられなかった。
 ──ゴボッ。
 その音に、僕はバスタブへ顔を向けた。
 もしかしたら、幻聴かもしれない。あるいは、ID細胞がガスを発生させ、それが浮き上がっただけの化学反応だったのかもしれない。
 でも、僕は信じている。この時、一之瀬さんは僕に語りかけようとしたんだって。
 僕は壁に背を預けながら立ち上がり、自分の親指を食いちぎった。こぼれ出る緑色の液体をこぼさないよう、口をつけて全てすすった。親指もそのまま嚥下した。もはやどこからが臓器なのか判別できないほど、僕の腹部はぐちゅぐちゅに腐っていたけれど、その中に親指はゆっくりと混ざり合っていった。
 右手を手錠から抜き取った僕は、続けて左手の親指を食いちぎり、同じように手錠から抜き取った。
 痛くなかった、と言えば嘘になる。腐っても、僕の身体だ。まだ生きている神経の悲鳴を、僕は壁に額を打ちつけながら抑えつけた。
 僕は深呼吸をして、まず一之瀬さんに謝った。
 そして、僕は作戦を決行することにした。
 ……。
 …………がちゃり。
 地下室のドアが開く音。
 Aさんの足音が、ひたひたと近づいてくる。
 やがて足音は止まり、しばらくの静寂が地下室に満ちた。
 足音は慌ただしく地下室を出ていった。
 僕は待った。ずっと、耳を澄ませながら。
 ドアが閉まる音は聞こえなかった。地下室にも人の気配はない。
 たぶん、もう、大丈夫だ。
 僕はゆっくりとバスタブから顔を出した。
 地下室には誰もいなかった。ドアは開けっ放しで、地上へと続く階段が覗いていた。
 僕は口内を指で掻き回した。少しでも味覚と嗅覚を取り戻したくてね。
 バスタブの中に隠れる作戦は、決して楽なものじゃなかった。
 そのままバスタブの中に入ってしまえば、僕の体積で一之瀬さんのID細胞がこぼれてしまう。白いタイルが一之瀬さんのID細胞で汚れていたら、怒ったAさんに僕はバスタブから引きずり出され、今度はテーザー銃で神経系をバーストさせられるかもしれない。いかに白いタイルを汚さず、バスタブ中の一之瀬さんのID細胞を減らすか……。バスタブの栓を抜いて水で洗い流すってことも考えたけど、いかんせん、薬で朦朧としている僕に時間という概念はなかった。もしタイルが乾かなかったら、テーザー銃。
 だから僕は、一之瀬さんのID細胞を口に含み、排水溝へ吐き出すということを繰り返したんだ。これはグリーンカレー、これはグリーンカレー、って自分に言い聞かせてね。排水溝に出ていったものは一之瀬さんのID細胞だけじゃなかったけどさ、汚い話だからやめておくよ。
 そんなわけで、Aさんは僕がバスタブに隠れていたことに気付けなかった。
 Aさんもかなり焦っただろうね。僕が逃げ出せば、この地下室の存在が白日の下に晒されてしまうんだからさ。ドアを閉め忘れてしまうのも無理はない。
 僕は一之瀬さんのID細胞まみれになりながら、階段を上がって廊下を走っていった。
 外はすでに陽が暮れていた。街灯も少なく、周りの畑から虫の鳴き声が聞こえている。これが埼玉県本庄市の姿か……なんて頷いている暇はなかったよね。
 遠くに橙色のランプが連なる大通りが見えた。トラックや乗用車が行き交っている。
 僕は大通りを目指して走りだした。びしゃ、びしゃ、と一之瀬さんのID細胞が泥みたいに身体から飛び散っていった。靴を履く余裕はなかったからさ、緑色の足跡が夜道に続いていったよね。
 とにかく、助けが必要だ。それも、ゾンビ化に詳しい人の助けが。一般家庭に飛び込まなかったのは、それが理由。誤って殺される可能性があったからさ。
 信号機が見えてくる。赤いランプが点滅してる。この危機的状況を的確に演出してくれている赤ランプに、僕は応援されていると思い込み、そのまま十字路を駆け抜け大通りへ急ごうとした。
 右から交差点に突っ込んできた車に跳ね飛ばされたのは、その時だ。
 車は急ブレーキをかけてくれたけど、もう遅い。僕は地面をごろごろと転がった。受け身なんて取れなかったから、身体のあちこちを地面に叩きつけ、全身の感覚を失ったまましばらくうつ伏せになっていた。
 車から一人の男が慌てたように下りてくる。
 僕はヘッドライトの光の中で、辺りに散らばった緑色の物体をぼんやりと眺めていた。一之瀬さんのID細胞にしては量が多すぎる。僕の腐った肉片たちだ。腐敗部分は脆いからさ、衝撃でバラバラとこぼれてしまったみたい。
 やがて緑色の腐った肉片たちに、二つの目が浮かび上がる。ぐでっと自重で潰れるようにしながら、いやらしげな視線を向けてくる僕の一部だったものたち──ずんちゃんだ。
 大量のずんちゃんは、くるりと背を向けると、ぴょんぴょん跳びはねながら僕から離れていった。
「脳みそ……僕の脳みそ……」
「大丈夫だ。脳みそじゃない」駆け寄ってきた男が、僕の腐った肉片をかき集めていく。「もっと他のどこかだ」
 ほっと胸をなで下ろした僕は頬をコンクリートに押しつけたまま、「くそ、小石が混ざってやがる」と悪態をつく男を見上げていた。
 誰、この人?
 男の言う通り、脳みそはこぼれていないみたい。ゾンビ化が進んでいる僕を怖がることのない男の行動に、僕は不信感を抱けていたからね。人身事故を起こして気が動転しているのかなとも考えたけど、男には僕の腐敗臭に戸惑う素振りもなかった。まるで、僕がゾンビで、藤堂翔(かける)だってことを知っているかのよう……。
 Aさんの仲間?
 僕は男の隙を窺った。倒れたまま体力回復を計り、絶好のタイミングを見つけて逃げ出すつもりだった。でも、エナさんに走力で下回る僕に、逃げ切れる自信はゼロだ。
 僕はヘッドライトに目を細めながら、車との距離を測った。長く見積もって七メートル。運転席のドアは開いている。
 これを読んでいる先輩は、きっと、ハラハラドキドキしているはずだ。大丈夫か? おまえ免許持ってなかっただろ? ここで車運転しちゃったら、今までの話全部嘘になるぞ? 頼むから俺の時間を無駄にしないでくれよ? なんてさ。……あ、違ったらごめんね。
 僕は──地面に倒れたまま、ふと、気付いた。
 僕を跳ね飛ばした車のナンバープレートに、見覚えのあるナンバーが刻まれていることに。
 そうだよ、先輩。この車──僕をつけ回していた、あの白いセダンだったんだ。
「……名前は?」
 脱いだ片方の靴の中に腐った僕の肉片を入れていた男は、僕の問いかけに手を止めた。
「河合(かわい)だよ。河合進(すすむ)」
「おまえもAさんの仲間なのか?」
「今はそれどころじゃないだろ」河合進と名乗った男は、両腕を広げてみせ、「さっさとここから逃げないと、Aに見つかる」
 僕は見覚えのないその男を見つめてから、男の手にある靴を指さした。
「集めたところで意味ないですよ」
「……君が、さっき…………」
 脳みそだと思ってパニクってしまっただけだ。僕がそんな顔をすると、男は天を仰ぎながら悪態をついた。

 河合愛(あい)さんの話をしなければいけないと思う。ほら、あの埼玉の廃病院にいたゾンビだよ。
 彼女は二十二歳で結婚して、月島辺りで暮らしながら、その翌年に伊織(いおり)ちゃんっていう女の子を出産した。専業主婦として家庭を支えていたんだけど、夫のDVが酷くて大塚にある実家に伊織ちゃんを連れて逃げ帰り、すぐに離婚届を提出した。でも、いつまでも実家に迷惑をかけるわけにはいかないと思い、大宮で娘との二人暮らしを始めたんだ。学習塾の事務をしながら、女手一つで頑張るシングルマザーの鑑っていう感じかな。
 五年後、友人が結婚するってことで、愛さんは女だけのベトナム婚前旅行に出かけることになった。伊織ちゃんを実家に預けてね。毎日、伊織ちゃんの様子を聞きながら、彼女は楽しい一週間を過ごしていたそうだ。
 そのベトナムで愛さんを刺した蚊が、TLCウイルスを持っていた。
 TLCウイルスって、体内に侵入してもすぐには症状が出ないんだ。それにより変異した白血球──ID細胞によって、身体が腐っていくわけだからね。
 帰国した愛さんは自分の身体の異変に気付きはしたものの、病院で診査を受けることはなかった。進さん曰く、伊織ちゃんの中の母親像を壊したくなかったんだと思う、とのことだ。
 ゾンビ患者となった愛さんは、自分の身体が徐々に腐っていくこと、そしていつかステージ5に移行し自我を失くして完全なるゾンビになることを、身を持って実感した。
 自分がいつまで伊織ちゃんを娘だと認識できるかわからない。それだけじゃない。感染を隠すため病院にも行っていないから、愛さんの身体にはTLCウイルスがうようよしている。伊織ちゃんと一緒にいる時間が増えれば増えるほど、伊織ちゃんが感染する確率も増えていく。
 そして、愛さんは伊織ちゃんを実家に置いて、失踪した。

〈探さないでください。伊織をよろしくお願いします〉

 愛さんが残した遺書に書かれていたのは、たったこれだけだった。
 でも、彼女にはそれ以外に残していた言葉があった。
 そうだよ、先輩。あのネットの掲示板にあった書き込みはさ、失踪する前の愛さんが書いたものだったんだ。失踪した彼女を探すため、進さんは愛さんの部屋のあらゆるものを調べ、ノートパソコンの履歴からその書き込みを発見したんだって。
 あの廃病院の地下室を思い出してほしい。鍵がかかっていたでしょ? その鍵は、地下室の内側からなら手動で開閉できるようになっていた。
 愛さんは自分をあの地下室に閉じ込めていたんだ。
 そして、自分がそこにいることを、ネットの掲示板を覗く不特定の誰かに伝えていた。完全なるゾンビになった自分を殺してもらうように。
 先輩の言いたいことはわかってる。ステージ5に移行するまで、そしてステージ5に移行した後も、僅かに残った大脳皮質のせいで自我を取り戻すんだよね。それでも、愛さんは地下室に閉じこもっていた。内側から鍵を開けられるにもかかわらず。光のない地下室で。愛さんしかいない暗闇で。彼女は自分を殺してくれる誰かを待ち続けていた。
 それ以外に、伊織ちゃんからゾンビとなった自分を隠す術がなかった。
 愛さんはそういう最期を選択した。

 進さんは愛さんの兄だった。
 妹がDVに遭っていたことや、離婚してからも必死に生きていた姿を見ていて、金銭面や精神面でずっと支えていたみたい。四年前に父親を亡くし、アルツハイマーを患った母親を介護しながら、進さんは妻と子供と共に一家を支えていた。そんな状況で、進さんは文句の一つも言わず、むしろ歓迎するように伊織ちゃんを迎え入れた。
 あの愛さんの遺言を見つける前に、進さんはすでに彼女の身体が腐敗していく症状に気付いていた。だけど、妹の意思を尊重して彼女の病状はひた隠しにしていた。病院に行けない愛さんに代わって、伊織ちゃんや自分の家族にワクチンを接種させたことも、進さんは愛さんに隠していた。
「でも、俺には殺せなかった。俺の役目だとは思ったよ。愛のパソコンを調べ、あいつの苦痛をこの手で終わらせてやろうとね、俺はあの埼玉の廃病院に行った。ゾンビは脳みそを破壊しないと動き続けるだろ? 選んだのは一番高価な金属バットだ。ピッキングなんて初めてだったけど、地下室へのドアは簡単に開いた。閉じるのもね。だって、あいつは妹だ。たとえゾンビになろうと、俺の大切な妹なんだ。……お腹が減っているだろうから、チワワを一匹、地下室へ放してやったよ。知ってるか? イギリスのノーフォークにある家で、その地下室から四肢を切り取られたゾンビが見つかったんだ。首輪をはめられ監禁されたゾンビがさ。……いや、やめよう。君には難しい話だろうから」
 力なく首を振って鼻をすする進さんにさ、僕は同情して頷いたよ。
 進さんは話し相手を求めていたようで、訊かないこともぺらぺらと話してくれた。
「愛に噛まれた人がいると聞き、俺は謝らなければいけないと思った。俺のせいで苦しんでいるやつがいる。でも、誰に訊いても教えてくれなかった。守秘義務があるんだよ。……ああ、あのAってやつは最初から怪しいと思ってたよ。悲しみに暮れてる時にすり寄ってくるやつに、ろくなやつはいない。俺が社会に出て学んだことだ。覚えておいたほうがいい。……もっと早く言うべきだったな。……今のは君に謝るっていう意味で──」
「つきまとわず会いに行けばよかったってことですよね? わかってます」
 僕は簡単に受け流してから、おそらく、これを読んでいる先輩も気になっているだろう疑問を訊いてみた。
「あのチワワは……愛さんの愛犬?」
「そんな残酷なことができるわけないだろ。廃病院から帰る途中、やっぱり殺すべきなんじゃないかって、公園で悩んでいたんだ。悲痛に胸を引っ掻かれていた俺に、あのチワワは近寄ってきた」
「……え、盗んだんですか?」
「死にそうな老犬だったし、葬式代が浮いたと思えば悪くない。届け出も出されてないからさ、あの犬はそこまで愛されてなかったんだよ」
 悲しみに暮れている時にすり寄ってくるやつに、ろくなやつはいないみたい。

 聡明な先輩なら、もうきっとわかっているはずだ。
 河合家にやって来た僕は、乾いた一之瀬さんのID細胞を庭で洗い流してから、風呂に入り、進さんのパジャマを借りて休養した。奥さんは美人だったし、進さんの一人息子も面白がって僕の話を聞いてくれたよ。伊織ちゃんだけは近寄らなかったけどね。廃病院にいた愛さんと、河合家にやってきた僕との関係に、なんとなく察しがついていたんだと思う。
 進さんは警察に連絡しようとしていた。そして僕を病院に送ろうとしていた。〈藤堂翔〉という名前をネットの検索エンジンにかけたらさ、例の失踪事件についてのものが出てきたんだ。
 僕は断った。
 警察に連絡すれば、IRZの不正なゾンビ回収の実態が白日の下に晒され、ゾンビに関する研究が大幅に遅れることになる。あんなに公共放送が流れているのに、国民の予防接種率は三十パーセント。美也(みや)ちゃんが言ってたけど、世界の予防接種率は十二パーセントにも満たないんだって。危機感に欠けている人類が、あるいはゾンビに滅ぼされる未来も考えられなくはない。だったら、IRZやその他ID細胞を専門とする研究者たちに、さっさと治療法を見つけてもらうほうがいい。
 病院に行けば、母さんや僕の担当医が罪に問われる可能性がある。安楽死書類を法務大臣が決裁したら、五日以内に執行しなければいけないからね。執行前の失踪なら、それは僕の問題であって、他の誰かに責任があるわけじゃない。
 でも、このまま河合家で最期を迎えるわけにもいかない。進さんたちに迷惑はかけられないし、伊織ちゃんの視線が痛いし、そしてなにより、先輩たち四人が離れ離れになってしまうから。
 僕はさ、あの東京スカイツリーから見た夜景が、永遠に色褪せることなく、いつまでも煌びやかで華やかなものであってほしいんだ。
 だから僕は、この小説を書くことに決めた。僕のこれまでの出来事と、そして僕のこれからの行く末を──僕が見つけた僕の真実を、先輩たちに知ってもらうようにね。
 おい、ちょっと待て、という先輩の声が聞こえる。おまえ、もう、両手の親指ないじゃねーかってね。大脳皮質もほとんど腐っているだろって。
 実は、これ、進さんに書いてもらってる。
 ソファに座った僕の言葉を、進さんがタイピングしてくれているんだ。
 以上。
 僕のこれまでは、これで終わり。

 ここからは、僕が体験していない未来のことについて書こうと思う。僕が計画しているこれからのことだ。

 この後、進さんはこの原稿を先輩の家へ郵送してくれる。そこには将来に困っている先輩への仕事のあても添付してある。もし気が向いたら連絡を入れてみてね。採用されるかどうかはわからないけど、進さんも話を通してくれるって言うから、気負わずに受けに行ってほしい。ラッパーを目指していることも応援してくれるってさ。
 水口(みずくち)やエナさんにはこれといったお願いはないけど、とりあえず、ありがとうって伝えておいて。今度は僕のために花束を用意しておけって、そう付け足してくれると助かる。二人で一つじゃなくて、一人一つずつね。僕にはそれを望む権利があるはずだ。
 問題は白石(しらいし)だ。影響されやすいあいつは、僕が苦しんだフィッツジェラルドの法則を患っている。彼の小説はそういうものじゃないのにさ、僕みたいに彼の小説をそういうふうに読んで、世界を斜に見る自分に浸っている。そのせいで春奈(はるな)ちゃんとも別れた。
 でも、白石と春奈ちゃんってお似合いじゃん? 春奈ちゃんは白石が好きだし、人間不信の白石も春奈ちゃんのことを好きだったからさ。お互いを必要としている二人に、僕は運命って言葉を使わざるを得ない。
 だから、先輩。白石と一緒にさ、僕の部屋のクローゼットを片づけてほしいんだ。床が抜けるほどの小説たちを、二人で片づけてほしい。その中の一冊に、春奈ちゃんのハンカチが挟まっているから。白石がそれを見つけるよう、どう工夫するかは先輩に任せるよ。……どの小説に挟まっているんだって? いや、先輩はそんなこと訊かないよね。ああ。その小説を読めば、影響されやすい白石の胸に、青草の香りを孕んだ恋の風が吹き抜けるはずだ。ハンカチを握りしめて走りだす白石を、温かく見守ってやってよ。
 母さんには、なにも伝えないでほしい。そうすれば、母さんは僕がどんな人生を歩んできたか知ろうとするでしょ? そして、僕がどれだけ幸せだったのかを知ることができる。言葉なんかでは表せない、形もなければ質量もない、僕の得た幸福を──僕が見つけた真実を、母さんには知ってほしいんだ。……あ、クローゼットを片づける時になにか言われたら、あいつも男ですので、くらいは伝えておいて。

 さて、僕はこれから除草剤を購入し、あの埼玉にある廃病院の地下室へと閉じこもる予定だ。もちろん、手錠と首輪も用意してる。足首と首にはめて行動範囲を限定させるためにね。そして除草剤を飲み干すんだ。最後の晩餐って感じかな。ID細胞は殺せないし、完全なるゾンビへの腐敗を防ぐことはできないけど、僕は自分自身の手で、僕の中の僕を完結させたいんだ。
 先輩がこれを読んでいる時、僕はもう死んでいる。
 もし生きていたら、恥ずかしいから殺してほしい。
 そうだよ、先輩。あの埼玉の廃病院を僕ら四人で訪れた時のように、今度は、先輩、白石、水口、エナさんの四人で来てほしいんだ。僕が死んでいるかどうかを確かめるために、もし生きていたら殺してしまうために。こんな理由があれば、また皆で集まれるでしょ?
 もう僕の身体にTLCウイルスはないし、ID細胞が誰かにうつることはないからさ、そこは安心して。
 仮に僕が一瞬だけ自我を取り戻したとしても、それはもう僕じゃない。ID細胞に乗っ取られた、僕だったものだ。なにか言っても、それはID細胞に侵略された脳が勝手に反応しただけ。僕の言葉じゃない。この小説の中だけにしか、もう僕はいないんだ。
 だから、今のうちに、〈僕〉が決めていた最期の言葉を伝えておくよ。

 これからも、四人、ずっと仲良くね。




<了>
読んでいただきありがとうございました。

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