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新名智の短編小説『わたしはヒロインにはなれない』

横溝正史ミステリ&ホラー大賞を受賞した期待の新鋭・新名智さんから短編を頂きました。6月のブライダルをテーマに依頼した原稿です。
とある令嬢の、失恋にまつわる驚くべき秘密……予測不能のラストまで是非たどり着いてほしいです。


作者プロフィール
新名智(にいなさとし)
長野県出身。2021年、虚魚で第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞、大賞を受賞してデビュー。


『わたしはヒロインにはなれない』



 豪徳寺詩子、という名前がまた聞こえてきて、うんざりしてしまった。この会場に来てから、他人の噂話の中で自分の名前を耳にするのは、もう何度目かわからない。
「ねえ、さっきクロークのところでさ」
「見た見た。わたしもびっくりしちゃった」
 ふたりとも、すぐ後ろにあるトイレの個室に本人がいるとは思っていないようだ。
「まさか、あの人まで招待してるなんてねえ。天堂先輩も意地が悪いよね」
「呼んだのは夢乃のほうじゃないの、あの子、そういうところあるし」
「そういうところって?」
「なんていうか、空気が読めないっていうかさ。人の神経を逆なでするみたいなところ」
 招待状は連名だったから、どちらが呼びたがった結果なのかは、わたしも知らない。できることなら、来たくはなかった。勇太のことも、あの家のことも、忘れていたかったのに。
「呼ぶほうも呼ぶほうだけど、来るほうも来るほうだよ」
「たしかに。自分を捨てた男の結婚披露宴なんてね」
「それだけじゃないよ。豪徳寺さんって、夢乃にすっごい嫌がらせしてたんだから」
「ほんと?」
「ほんとほんと。バチバチだったんだって、あのふたりは。でも天堂先輩は夢乃を選んで、結局……」
 もう限界だ。わたしは立ち上がると、わざと大きな音で水を流し、個室から出た。その瞬間、会話がぴたりと止まる。見れば鏡の前で、見知らぬ二人組が真っ青な顔をしたまま、こちらを向いて固まっていた。
「ごきげんよう」
 横に並び、これみよがしに手を洗う。すると彼女たちは、何か小声でぶつぶつ言いながら、逃げるように立ち去ってしまった。
 他愛のない。わたしは鏡の中の自分を見て笑う。今さら、あんな連中に何を言われたって気にすることはない。だいたい、自分を捨てた男の、というのは間違いだ。勇太と別れたのは、わたしの意思。それに、夢乃さんの悪口もいただけない。あの子は、わたしよりずっと、彼にふさわしい。
 わたしは、あんなふうにはなれない。
 ロビーに戻ると、もうみんな会場に移動してしまったようで、ホテルの人が残ったグラスを片付けていた。わたしも向かおうとしたところで、ふと、受付のそばに置かれたウェルカムボードが目に入った。やわらかなタッチで、ふたりの似顔絵が描かれている。にこにこと笑った夢乃さんの表情は、彼女の特徴をよく捉えていた。明るく、ほがらかで、それでいて芯の強い。
 もし、彼の隣にいるのが彼女ではなく、自分だったら?
 そんな想像を頭の中で振り払う。無意味だとわかっていても、せずにはいられなかった。わたしと勇太が結ばれる可能性は、本当になかったのだろうか。何かが違っていたら、そう、たとえばあの日――。
 でも、そのことを考えただけで、わたしの体は緊張し、こわばってしまう。そして、彼の隣にいるべきなのはやはり、わたしではなく彼女なのだ、と思い直す。それはわたしが五年もの間、ずっと繰り返してきたことだった。
 五年前のあの日、わたしと勇太、そして夢乃さんは、決定的に違う道を歩き始めた。

私立一ノ宮学園といえば、知らない人はいない。二百年近い伝統を持つ名門校で、戦前から、政財界の偉人を多く輩出してきた。もっとも、この学園の小等部に入ったときのわたしは、そんなことなどちっとも知らず、ただ周りの子供が通う小学校とは、どこかなんとなく違うものだということだけ理解していた。
 わたしの家は、お祖父様の代から会社を経営していて、自分で言うのもなんだけれど、かなり裕福だった。幼稚園の頃は、それこそ女王様のようにして、周りの男の子たちをかしずかせていたから、当然、小学校でもそのように振る舞えるものだと思っていた。
 ところが、いざ入学してみると、この学園に通う子供たちは、みんなわたしと同じくらいか、それ以上の家の生まれだとわかった。家の格に合わせて、生徒たちの間にも、自然と序列のようなものができていた。豪徳寺家は上のほうではあったけど、一番上ではなかった。
 わたしにはそれが我慢できなかった。いったい、このわたしより上にいるのはどこのだれなのか。豪徳寺グループは世界にも知られた巨大企業だ。それより上の家柄が、日本にいくつもあるとは思えない、わたしはじいやに尋ねた。すると、こんな答えが返ってきた。
 昔からこの学園に子供たちを通わせている、いくつかの家系があるそうだ。どれも世間には知られていないのだけれど、この地域や、学園内に限っては、特権的な地位にあるという。そしてそのひとつである、天堂家の跡取り息子が、たまたまわたしと同じ学年にいるということまで、じいやは語って聞かせてくれた。
 天堂勇太。次の日の休み時間、わたしはそれぞれの教室を回って、そいつを捜した。どんなやつか顔を見てやろうと思ったのだ。そして取るに足らない相手であれば、悪口のひとつも投げつけて、鼻をへし折ってやるつもりだった。
 しかし、彼は自分のクラスにいなかった。聞けば、天堂勇太は病気で休みがちだという。その日も彼は昼までの授業を欠席し、午後から登校することになっていた。それを知ったわたしは、時間を見計らって正門に向かい、彼を待ち伏せした。
 桜の木の陰から様子をうかがっていると、やがてロータリーに一台の車が入ってきた。運転手が後部座席のドアを開けると、母親らしき人のあとに続いて、小さな男の子が降りてきた。
 そのときの勇太の姿を、わたしは今でもはっきりと思い出せる。車から出た彼は、まぶしそうに目を細めていた。透き通るように白い肌、それが昼下がりのやわらかな日差しを浴びて、頬にかすかな赤みを帯びる。彼は華奢な手足をいっぱいに伸ばして、まるで昼寝から起きた猫みたいに大きな伸びをした。それから、舞い落ちる桜の花びらを目で追ううちに、木の後ろにいるわたしを見つけたのか、こちらに向かって、ふっと笑みをこぼした。
 わたしは、なぜかどきどきしてしまって、そのまま一目散に逃げ出した。走りながらも彼の姿が頭から離れなかった。あれが天堂勇太。天堂家の跡取り。
 そのあとはもう何も手につかなかった。ぼーっとしたまま午後の授業を過ごし、放課後になっても机に向かっていた。他の子がひとり、またひとりと下校していって、教室に残っているのはわたしだけになっていた。
 ぼんやりしながら教科書をめくり、さっき自分が無意識に、そこへ落書きしていたのを見つけた。手に花を持ち、並んでいるふたり。
 不意にがらがらと音を立てて、教室の戸が開いた。
「あ、いたいた」
 びっくりして振り返ると、そこに立っていたのは、さっき正門の前で見かけたあの男の子だ。彼はまっすぐわたしに近づいてきて、椅子に座ったわたしを見下ろしたまま言った。
「おまえ、さっき、おれのこと見てただろ」
 おまえ、なんて呼ばれたのは生まれて初めてだったので、わたしは面食らった。
「見てたよ、それが何?」
 そう答えると彼は笑った。その笑顔も、やっぱりさっき見たのと同じだった。わたしの質問に、彼は答えず、わたしの胸の名札――小等部の低学年は、学校にいる間、それをつけることになっていた――を読んだ。
「詩子、か」
 自分の名前を呼び捨てにされたのも、それが初めてだったので、いよいよわたしは不機嫌になった。わたしは机の上に広げていたノートや教科書を片付け、勢いよく立ち上がった。それから、彼に向かって言った。
「帰るんだから、どいてよ」
「おまえの家、近所なのか」
「夕方になったら、じいやが迎えに来てくれるの」
「おれと同じだ」
「あなたの家も近所?」
「ううん」わたしの言葉に、彼は目を伏せた。その表情は、なぜかちょっと寂しげだった。「家は遠いから、違う家に住んでる」
 そう、とわたしは答えた。彼が車から降りるとき、一緒にいた女の人のことを思い出した。
「お母さんと一緒に住んでるの?」
 ぶんぶん、と首を横に振る。
「お母様には大事なお役目があって、家を離れられないから……だから、おれだけ」
 あとで知ったことだけれど、天堂家は学園のすぐ近くに別邸を持っていて、勇太はそこに使用人とともに預けられていた。両親と会えるのは月に一度か、都合の悪いときには何ヶ月も会えないこともあったという。
 だれもいない教室で、わたしと勇太はそんなふうに話し続けた。窓からはオレンジ色の光が差して、わたしたちふたりを不思議な空気とともに包み込んでいた。だんだんと、わたしは目の前にいる変わった男の子のことが好きになっていた。
「ねえ」待つのに疲れたのか、じいやが教室まで迎えに現れたとき、わたしは勇太に言った。「わたしの家に来ない?」
 ちょっと迷って、彼はうなずいた。そのときのわたしに、あまり深い考えはなかった。でもひょっとしたら、勇太は寂しかったのかもしれない。両親のいない家に戻るのが嫌で、だから、わたしの家に来ることを選んだんじゃないか。その証拠に、勇太はその後もちょくちょくわたしの家に遊びに来るようになった。
 それがわたしと勇太の出会いだった。
 すぐに、わたしたちは一番の友達になった。勇太は繊細な気分屋で、それでいてどこか人懐こいところがあった。わたしにとっては数少ない、わたしのことを「豪徳寺のお嬢さん」ではなく、詩子として扱ってくれる人でもあった。
 小等部、中等部と成長しても、わたしたちの関係が変わることはなかった。思春期に入ったら、たいてい、男子と女子の間柄は微妙なものになる。勇太とわたしも、お互いの家へ気軽に出かけるようなことはなくなったけれど、それでも学校の中では、一番の友達であり続けた。
 高等部に入る頃から、わたしはなんとなく、将来は勇太と結婚するのだと思うようになっていた。父も母も家柄など気にするタイプではなかったし、仮にそうだとしても、彼ならば問題なかった。天堂家の歴史は古く、平安時代か、ことによるとそれ以前まで遡ることのできる家なのだと、わたしはいつだったか勇太に教えられていた。
 いずれ、少なくとも卒業するまでには、彼のほうからわたしにプロポーズするだろう、などとわたしは気楽に考えていた。ところがそんな気配はまるでなく、ぐずぐずしているうちに二年が過ぎていた。わたしは焦った。
 そこで二年生の冬。わたしは彼をホテルに誘った。
「クリスマスの夜に、ふたりきりで?」
 彼は目を丸くした。その驚き方は予想の範疇だったけど、落ち着きすぎているようにも見えて、わたしは不満だった。
「ええ、パパの会社が経営しているホテルのスイートルームで、食事会があるの。だから……」
「悪いけど」彼は言った。「先約があるんだ。母さんに呼ばれててさ。実家に帰らないと」
 勇太が断るとは思っていなかったので、わたしは驚いた。家族でクリスマスを祝う習慣が、天堂家にあるとも思えない。それで、つい口をすべらせた。
「ほかの女の子でも誘うつもり?」
 その言葉を聞くと、勇太は呆れたように、大きく息を吐いた。
「違うよ。なんでそう思うんだ?」
「だって」
 高等部に進学してから、勇太はいつも注目の的だった。学年一の秀才で、サッカー部のエース。おまけにその美貌。小さい頃は病弱だった彼なのに、いつの間にか立派に育って、背丈でもわたしを追い越していた。廊下を歩けばたちまちファンの女の子に囲まれて、上級生までもが彼を追い回す。それを見て、わたしはいつも複雑な気持ちになった。
「最近、わたしとはちっとも遊んでくれないじゃない」
「それは……もう子供じゃないし。一緒に遊ぶって柄でもないだろ」
 彼の言うとおりだ、と思う自分もいる。これは、つまらない嫉妬なのかもしれない。最初に勇太を好きになったのは自分なのだから、ほかの子に取られるのは許さない、なんて。
 でも、それだけじゃない。
「最近、わたしのことを避けてるでしょ」
 勇太の動きが止まる。彼はゆっくりわたしの顔を見た。
「そんなわけが……」
「あるんでしょ。目を見ればわかる」
 しばらくわたしたちは無言で目を合わせていたが、やがて、勇太のほうが笑顔を作った。わたしは笑わなかった。
「夏休みで実家に戻ったとき、親に言われてさ。母さん、胸に腫瘍が見つかったんだ」
「えっ」
「気にしなくていい。手術もいらない程度だって聞いてる。ただ、もう無理はしないほうがいいって」
 そんなこととは知らなかった。わたしは、焦って問い詰めようとした自分を恥じた。
「ごめん、わたし、そんなこと気づかなくて」
「だから、気にするなって。ただ、まあ、そのせいでふたりともうるさくてさ」
「うるさい?」
「早く跡を継がせたいらしい。そのせいで夏からずっとうるさくて」そこまで口にして、彼ははっと言葉を切った。「悪い。愚痴を言いたいわけじゃなかったんだ
 彼がどうして口をつぐんだのか、その瞬間はわからなかった。
 でも、その日の夜、家に帰ってお風呂に浸かっているとき、不意に気づいて、顔が熱くなった。それでわたしは、頭までお湯に沈んだ。要するに、勇太の両親は彼をせっついているのだ。早く嫁を見つけろ、って。
 だとしたら、あの態度はなんなのだろう。わたしを遠ざけているのは。わたしに知られるのが恥ずかしいのか、それとも、わたしとそういう関係になりたくなくて、逃げているのか。それとも。
 それとも――相手がもう決まっていて、それはわたしじゃないのか。
 結局、その日以来、わたしと勇太はなんだか気まずくなってしまった。冬休みが明けてもそれは変わらず、学校ですれ違ってもどこかよそよそしくて、お互いに話しかけもしなかった。
 そして、春。
 勇太は星川夢乃と出会った。

わたしはその場にいたわけではないから、ふたりの出会いがどのようだったか、実際のことは知らない。周囲の人間からそれとなく聞き出し、わたしが把握したのは次のような顛末だ。
 その日の朝、お抱えの運転手の車で学校に向かっていた勇太は、一ノ宮学園高等部の制服を着た少女が、バスを追いかけて全力疾走している現場を目撃した。あまりに必死な様子だったので、勇太は思わず吹き出し、その場で車を止めさせると、窓から彼女に声をかけた。それが夢乃さんだった。
 寝坊してバスに乗り遅れた彼女は、入学早々に遅刻してはまずいと思い、なんとかバスに待ってもらえないかと、停留所からしばらく追いかけていたらしい。おもしろがった勇太は、彼女を車に乗せてやった。そのままふたりは学校へ。
 あの天堂勇太が、知らない新入生と一緒に車で登校したというので、学校内はちょっとしたパニックになった。彼の新しい恋人らしい、という噂が広まり、それはすぐわたしの耳にも入った。
 わたしは、すぐに信じなかった。勇太に関しては昔から、幾度となく似たような騒動が繰り返されてきたからだ。彼が気まぐれで、知らない生徒に話しかけることはよくあったし、それが誤解されることもあった。だから、わたし自身は鷹揚に構えていたのだけれど、わたしの取り巻きの女の子たちは、そう思わないようだった。
 最初に注進にやって来たのは、佳代子さんだった。
「大変ですわよ、詩子さま、また天堂さまのところに悪い虫が」
「知ってます」
 と、わたしがなんでもない調子で答えたので、佳代子さんは少し鼻白んだ。
「ご存知なら……きちんと話されたほうがよろしいのでは」彼女は、まるで自分のことのように怒っていた。「こんなふうに、詩子さまの心をもてあそぶような真似をして」
「必要ないでしょう。どうせまた、いつもの気まぐれなのだし」
「ところが今度はそうでもないようなのですよ」
「ええ?」
 わたしはそれまで読んでいた本を膝の上に置き、あらためて彼女の顔を見た。もっと詳しく教えてくれ、と言うと、彼女は携帯電話を取り出して画面を見せてきた。
「今日の昼休み、校舎の裏で撮ったものです」
 隠し撮りとは趣味が悪い、と思ったが、好奇心には抗えない。写真の中では、ふたりの人物が向かい合っている。少女のほうは壁に背中を預けて、男のほうは、それに覆いかぶさるように、壁に手をついて彼女を見つめている。
 ひとりは勇太だとすぐにわかった。もうひとりが、噂の女の子だということも。わたしは内心の動揺を隠しつつ、佳代子さんに尋ねた。
「相手は、だれなの?」
「今年から高等部に入ってきた子です」
「ということは、外部生?」
「そうです」
 どうりで見覚えがないわけだ、と思った。小等部や中等部から一緒だった内部進学組と、それ以外の外部生の間には、目に見えないけれどもはっきりした溝がある。
「どうしますか、詩子さま」
「どうする、って……」
「このまま外部生の、しかも新入生に取られるわけにはいかないでしょう」
 別に、勇太がだれと付き合おうが、彼の自由だ。そう答えようとして、躊躇した。それは良識ある答えだけれど、わたしの本心からは遠かった。
 画面の中の、星川夢乃をじっと見た。ゆるくウェーブした明るい髪。触れると壊れそうなほど華奢な、それでいて健康的な体つき。うるんだ大きな瞳。彼女はまるで無垢な動物に似ていた。そして彼女と向き合った勇太の表情は、この写真ではまったくわからなかった。
 無意識に、ぐっ、ときつく拳を握っていた。
「わたしは……わたしには関係ありません」
「詩子さま」
「ほかの子にも伝えてあげて。あまり騒がないように、って」わたしは立ち上がった。「きっと、その星川さんという方だって、学園に来たばかりで、自分がどういう相手と付き合っているのか、よくわかっていないんですよ」
 佳代子さんは、まだ何か言おうとしていたけれど、わたしは彼女に構わず、教室を出た。自分では平然としているつもりだったけれど、そうではなかったらしい。階段をひとつ下りたところで、読みかけの本をそのまま忘れてきたことに気づいた。
 すぐ取りに戻ろうとして、しかし、まだ佳代子さんが教室にいるかもしれない、と思い直した。動揺して忘れ物をしたことが、彼女にばれるのは癪だ。どうしようか、踊り場のところで考えているうち、頭上から声をかけられた。
「どうかしましたか?」
 廊下には、窓から西日が差していた。だから階段の上にいるその人の姿は、逆光になっていてよく見えなかった。
「いえ、忘れ物を……」
 考え事をしていたところへ急に話しかけられたものだから、つい、正直に答えてしまう。
「あら大変。探すの手伝いますよ」
「気にしないで」わたしは笑った。「どこにあるかはわかってるし、たいしたものじゃないの」
「そう、それならよかったです」
 弾むような声だった。いい子だな、とわたしは思った。彼女は、ぽん、ぽんと軽やかな足音を立てながら、階段を一段ずつ下りてくる。近づいてくる彼女の顔を見て、わたしは、はっと息を呑んだ。
 さっき写真で見た、あの子だった。
「あなた、一年生よね」
「はい、星川夢乃と言います」
「ありがとう。わたしは豪徳寺詩子」
 わたしが答えると、彼女はちょっと意外そうな顔をした。
「豪徳寺さんって、天堂先輩のお友達の?」
「ええ」お友達、というところが引っかかったけれど、わたしは顔に出さないよう努めた。「そんな話をするってことは、勇太のことも知ってるの?」
「はい」
 屈託のない答えだった。
「一度、車で学校まで送っていただいたことがあって……それから、何かとよくしてもらっているんです。今も、お借りしていた参考書を、ロッカーに返してきたところです」
「そう。珍しいわね」
「珍しい?」
「会ったばかりで気を許すなんて珍しい。彼、人見知りするから」
「意外です。話し好きの方だと思っていました」
 それは、そうだ。だけど昔からずっと、彼がそういう一面を見せるのは、わたしの前だけだと決まっていて。
 思わず目を伏せたとき、彼女のかばんにぶら下がっている、小さなマスコットが目に止まった。手足のたくさんついた半透明のタコみたいな、ちょっとよくわからないキャラクターがキーホルダーになっている。
 わたしの視線に気づいたのか、夢乃さんは照れたように笑った。
「ああ、これ、ご存知ですか?」
「いいえ、何かと思って」
「小さいとき、好きだったアニメのグッズなんです。『狂気が丘のテケリリ荘』っていう……」
 一ミリも聞いたことがない。が、彼女はその、劣化して今にもちぎれそうなゴムの塊を、大切そうに指でなでた。こういう変わったものが好きなタイプの子なのだろう、と思った。
 そんな彼女の姿を見ていると、無性にいらだってきた。なぜかはわからない。ただ、タコの化け物をなでるその仕草が、どういうわけか、わたしを挑発しているように感じた。かっとなったのをどうにかこらえて、わたしは後ずさった。すると、それに気づいた夢乃さんが言った。
「ごめんなさい、こういうの、お嫌いでしたか」
「かもしれない」わたしはどうにかそれだけ答えた。「もう行かなきゃ。またね、夢乃さん」
「はい、お会いできて嬉しかったです。また」
 ゆっくりと階段を下りる。けど、彼女の姿が見えなくなると、いつの間にかわたしは小走りになっている。
 不思議な子だった。間近で話をして、はっきりそれがわかった。この感じは、胸がどきどきするのは、小等部のとき、初めて勇太と出会ったときの感覚と似ていた。あの子は、わたしとは、住む世界が違う。たとえるなら、生まれつきスポットライトが当たっているような、どんな場所でも自然と中心に立っているような。
 そう、たとえるなら、ヒロインみたいな。

しばらく経つと、別の噂が聞こえてくるようになった。
 星川夢乃は腹黒い女で、最初から天堂家の御曹司をたぶらかすために、学園に入り込んだのだ、とか。
 彼女の家はとても貧しく、両親は、人に言えないような仕事をしているのだ、とか。
 花や動物に話しかけたり、気味の悪いことをいつもしていて、ちょっと異常な性格だ、とか。
 どれも事実無根だということをわたしは知っていた。あの日、踊り場で会った彼女はとてもそんなふうに見えなかったし、もしそうだったら、勇太が気に入るはずはない。
 夢乃さんのことを快く思わない人たちが、彼女を傷つけるために流した噂だと思った。実際、佳代子さんを筆頭に、そういう噂をわざわざわたしに教えてくれる人はたくさんいた。でも、わたしには愛想笑いくらいしかできなかった。
 最初のうちは、噂だけだった。だからわたしも他人事みたいな顔をしていられた。しかし、夏休みが近づき、期末テストの準備が始まる頃になって、夢乃さんへの嫌がらせは、噂だけではとどまらなくなった。
 持ち物がなくなったり、壊されていたり、授業に関する連絡が、彼女にだけ届いていなかったり。そういうことがしばしばあった。学年が違うので、その全部が本当に起きていたことかどうかはわからない。ただ、その頃はよく、校舎の裏や、放課後のトイレなど、目立たない場所でうつむいている夢乃さんの姿をよく見かけた。
 気の毒だな、と思った。でも、何かしてあげようとは思わなかった。
 このまま彼女の心が折れて、学園を去ることになったら――わたしと勇太の関係も、元通りになるかもしれない。そういう考え方をしている自分にあるとき気づいて、嫌になった。
 勇太とわたしとは、あいかわらず気まずい状態が続いていた。というより、彼のほうから避けているようにも感じた。廊下などで出くわすと、こちらが声をかけるより早く、そそくさと立ち去ってしまう。そんなことが何度かあった。
 わたしを捨てて、夢乃さんと仲良くなろうとしている。そういう気持ちが、彼の中にもあるのかもしれない。だとしたら、多少は救いがある。彼の中では、わたしのことをも、それなりに大きな存在だったのだとわかるから。
 ある日の放課後。わたしは期末テストのための勉強をするため、自習室に向かっていた。
 歩いていると、不意に近くのトイレから、何人もの女子生徒がぞろぞろ出てくるのを目にした。その中には佳代子さんもいた。彼女はわたしに気づいて、あっ、という顔をする。それから他の子たちを促して、挨拶もなく、足早に去っていった。
 どうも様子がおかしい。わたしは彼女たちがいなくなるのを見計らって、そのトイレに入ってみた。個室をひとつずつ覗いていくと、一番奥の個室に、だれかのかばんが落ちていた。というか、便器の中に突っ込まれていた。
 何かが足元に落ちている。拾い上げてよく見ると、それは夢乃さんのかばんについていた、あの奇妙なマスコットだった。ということは、これは夢乃さんのかばんに違いない。人のかばんをトイレに捨てるなんて、度を越している。
 かばんを便器から取り出した。入れられたばかりらしく、あまり濡れていない。トイレットペーパーでざっと拭いてから、洗面所の横に置いた。それから、拾ったマスコットを、その隣に並べようとして、やめた。
 何気なく振り返ると、トイレの一番奥の小窓が開いていた。わたしは、誘われるようにその窓に近づき、ゴム製のタコをそこから落とした。
 なぜそうしようと思ったのか、自分でもわからない。このくらいならいいだろうという気持ちが、どこかにはあったのだ。ささやかな復讐。
 わたしはトイレを出て、そのまま自習室に向かった。勉強は、しかし、まるで手につかなかった。胸の奥に何か嫌なものがあって、それがちょっとずつ大きくなる気がした。
 二時間ほど机に向かって、どうにか練習問題をふたつ解くことができた。わたしはもう帰ろうと思った。荷物をまとめて、外に出た。もう日はだいぶ傾いていて、薄暗がりの校舎は、しんと静かだった。
 さっきのトイレの前を通り過ぎようとしたとき、どこかから話し声が聞こえた。
「一応、男子トイレのほうも見てきたけど、なかった」
 ひとりは勇太だった。それに応じているもうひとりの声は、ひどい鼻声で、しかも震えていた。
「ありがとうございます、すみません、その」
「気にするな。それにしても、ひどいことをする」
 わたしはとっさに、物陰に隠れた。ふたりはきっと、さっきのかばんのことで話しているに違いなかった。
「あれは、そんなに大事なものなのか?」
「はい……」
「だけど、あれはただのキーホルダーだって、自分で言ったじゃないか」
「ただのキーホルダーです……でも……死んじゃったおばあちゃんに買ってもらったもの、なので」
 背筋がさっと冷えるのが、自分でもわかった。
「おばあちゃんって、前に言ってた……?」
「はい、おばあちゃんはわたしと同じで……『変わり者』だったから、よくいじめられてた、って言ってました。わたしは、お母さんじゃなく、おばあちゃんに似たんだ、って……」
「ああ、聞いたことがある」答えた勇太の声は、わたしが今までに聞いたどんな声より甘く、やさしげに響いた。「きみの家は、そうなんだろ」
「そうです。でも、子供の頃は、それがすごく怖くて……おばあちゃんがくれたあのマスコットを、ずっとお守りにしていたんです。あれを持っていたら、いつかわたしも、おばあちゃんみたいに強くなれる気がして」
 ずずっ、と鼻をすする音がした。そこまで大切なものだったなんて知らなかった。もし知っていたら、あんなことは。
「金具が残ってないってことは、ちぎれたわけじゃなさそうだ。だれかが持ってるのかも」
 夢乃さんとは対照的に、勇太の声は落ち着いていた。取り乱す彼女を慰めようとしている。そのおかげか、彼女の声の震えは少しずつ治まっていた。
「もう一度、捜してくるよ」
「いえ、もういいです……暗くなっちゃいますし、これ以上、ご迷惑はかけられないので……」
「迷惑じゃない……と言っても、聞かないだろうな」はあ、と息を吐いて、勇太は答えた。「わかった、おれは帰る。きみも、落ち着いたらすぐ帰れ」
 勇太がトイレから出てくる。わたしは体を小さくして彼をやり過ごした。勇太が行ってしまったあとで、大変なことをした、と思った。そんなに大切なものだとは思わなかった。
 落とした位置はわかっている。急いで拾ってこよう、それから、事務室の落とし物置き場にでもこっそり入れておけばいい。
 トイレの前をそっと横切り、階段を駆け下りる。一階にたどり着いて、渡り廊下から外に出ようとしたとき。突然、だれかにぎゅっと腕を掴まれた。
「……詩子?」
 心臓がばくばくしている。わたしはおそるおそる振り返った。わたしの腕を捕まえていたのは、勇太だった。
「勇太、どうしたの?」
「だれかが盗み聞きしているのは気づいていた。だから待ち伏せしていたのに……まさか」
 わたしは、ごくりとつばを飲んで、彼の目を見た。
「放してよ」
「夢乃のかばんを隠したのは、おまえなのか?」
「ちが、違う!」声が裏返った。「あれは違う、わたしじゃない……」
 それを聞くと、彼は一瞬、迷ったようにわたしの目を見た。だが、すぐにまた険しい表情を作って、言った。
「嘘だな」
「嘘なんかじゃ」
「だったら、なんでこんなところから出ようとするんだ、内履きのままで?」
 わたしは自分の足元に目をやった。
「ただ……間違えただけ」
 勇太は静かに、ただ冷たい目でわたしを見つめていた。罵られるより、そのほうが、ずっとわたしの胸に刺さった。
「……夢乃に嫌がらせをしている連中の、首謀者がおまえだって噂を聞いた」
「それは」
「もちろん嘘だと思っていた。さっきまでは」
 どう答えても言い訳にしかならない。そう思ったら、黙っているしかなかった。そのまま、どれくらいそうしていただろう。わたしはそっと彼の手を振りほどいて、言った。
「窓の下」
「え?」
「トイレの窓から落としたの。だから、すぐ下を捜せば見つかると思う」
 それだけ伝えて、彼の返事は聞かずに、わたしは走り出した。
「おい!」
 振り返りもせず、ばたばたと廊下を走り、勇太が追いかけてきていないのを確かめてから、近くの空き教室に入った。ぺたんと床にしゃがみ込んだわたしは、声を押し殺して泣いた。
 次の日の朝。偶然、登校してくる夢乃さんの姿を目にした。彼女のかばんには、例のおかしなキャラクターが、前と同じようにぶら下がっていた。

期末試験が終わり、夏休みに入った。わたしはなんの予定もなく、ただ日々を送っていた。何をする気にもなれなかった。
 そんなわたしを見て、心配した両親が、美術館の観覧券をくれた。絵でも眺めて、気晴らしをすればいい、と言われた。行きたくなかったけれど、これ以上ふたりを不安にさせるのも悪いと思ったので、出かけることにした。
 朝、じいやの運転する車に乗って家を出た。道すがら、窓の外をぼんやりと眺めていたとき、ふと、見覚えのある車が停まっているのを見かけた。あれは、たしか、勇太の家の車だったはず。
「ちょっと、ストップ」
 わたしは運転席を後ろから叩いた。じいやが驚いてブレーキを踏む。それとほぼ同時に、勇太の車のドアが開いた。道路沿いの家の玄関から人が出てきて、車に近づいていく。夢乃さんだった。きれいに着飾って、車の中に笑いかけている。
 彼女を乗せると、車は発進した。
「あの車を追いかけて」
「えっ、しかし旦那さまからは、美術館に行くようにと」
「いいから追いなさい。早く!」
 渋々、といった感じで、じいやは従った。
「いい、気づかれないようにして」
 わたしの命令どおり、わたしたちの車は勇太の車の後ろを、付かず離れず走っていった。その間ずっと、どうして彼の車を追いかけようと思ったのか、考えていた。
 ふたりはどこへ行くのだろう。デートだろうか。いや、あれは勇太の実家の車で、彼が自由に乗り回せるものではないと聞いている。ということは、ふたりは天堂家に向かっているのか。
 念のため、じいやにそのことを尋ねてみた。すると、この道順なら間違いない、という答えが返ってきた。
「天堂家のお屋敷のことは知っておりますよ。海を望む岸壁に建っていて、とても美しい家なのです」
「詳しいのね。近所の人はよく行くの?」
「まさか、その逆ですよ。用もなく近づいてはいけないと、親に言い聞かされました。恐れ多い方々の住む土地だから、と」
 天堂家が名家だとは聞いていたが、地元でそこまで敬意を払われているとは知らなかった。実際、じいやの言うとおり、車が海辺に近づくほど、人家はまばらになり、すれ違う車もほとんどなくなって、走っているのはわたしたちの車と、前を行く勇太の車だけになった。ばれないように距離を空けさせた。ここまで来れば、屋敷に向かっているのは間違いない。
 やがて、その屋敷が見えてくると、わたしは思わず目を見張った。海にせり出すように岸壁が突き出していて、その上に屋敷がある。それも、ただ崖の上に家があるというのではなかった。地形に合わせて複雑に並べられたいくつもの家屋が連なり、微妙に向きを変えながら並ぶ黒い瓦葺きの屋根が、まるで武士の甲冑のように断崖を覆っている。
 屋敷の正門が開き、勇太の車が、その中に入っていくのが見えた。わたしもすぐに車から降りると、屋敷の前まで歩いていった。潮風に打たれて風化した木製の門は、どうやら手動で開閉するものらしく、だれもいない今は開きっぱなしだ。勇太の車は奥へ入っていってしまった。わたしもこっそり門の内側に滑り込む。
「おい」はっと振り返ると、そこに勇太が立っていた。「尾行なんかして、なんのつもりだ」
 いきなり見つかるとは思わなかったので、わたしは焦った。あのときといい、どうも勇太は勘がよすぎる。少しためらって、わたしは答えた。
「こないだのこと、謝りたかったの。夢乃さんにも、それから勇太にも……」
「もういい」
 勇太はただそう答えた。けれど、あのときと違って、彼の口調にはとげとげしさが感じられなかった。
「説明したいの。夢乃さんに嫌がらせしているのはわたしじゃないって」
「だから、もういいんだ。そんなことは最初からわかってる。おまえは嫌がらせなんかする人間じゃない」
 意外な言葉を聞いて、誤解が解けた喜びより、戸惑いのほうが大きかった。意図を読み取ろうとして、彼の顔をじっと見つめたけれど、勇太の表情は穏やかで、昔からわたしが知っている勇太だった。
「わかったら、家に帰れ」
「……そういうこと」
「あ?」
「わたしが邪魔なのね。あの車、夢乃さんも乗ってたでしょう。ふたりで、何をするつもり?」
 今度は彼のほうが考え込む番だった。しかし、あちらはわたしほどは悩まず、すぐに納得した様子で、わたしに向かって言った。
「おれは、夢乃に結婚を申し込む」
 想像していた答えだったが、実際に言われると、信じがたいものがあった。
「どうして」
「あの子は理想的なんだ。おれの……いや、天堂家の嫁にふさわしい」
「はっ」わたしは笑った。「じゃあ何、わたしは、お嫁さんにふさわしくない、ってこと?」
 勇太は、しばし黙って、それから言った。
「そうだ」
 わたしにとっては、もう、その答えだけで十分だった。風がやけに冷たい。わたしは目尻を指で抑えた。潮の香りが染みる。
「つまりわたしは、選ばれなかったってことね」
 そう言って、踵を返した。黒ずんだ門をくぐって立ち去ろうとしたとき、勇太が言った。
「おれだって選べるものなら選びたかった」
「え?」
 わたしはまた振り向いて彼の顔を見た。彼はうつむいて、奥歯を噛み締めているようだった。
「でも、だめなんだ。天堂家の嫁には、役目がある」
「役目って、なんの」
「厳しい役目なんだ。おまえにはそんなことさせられないし、させたくない」
「じゃ、夢乃さんならいいわけ?」
「あいつは特別なんだ。あいつなら、おれや……母さんや父さんにもできなかったことを、やってくれる気がするんだ」
 わけがわからない。古くから続く名家の嫁というのがどういうものか、わたしには想像することしかできない。それでも、夢乃さんにそれができて、わたしにはできないというのは納得が行かなかった。やってみる機会もなく、そうだと決めつけられるなんて。
「たとえばどういう役目なのか、話してみてよ」
「それは言えない」
「なんで」
「なんでもだ。このことは、天堂家の秘密なんだよ。本当は家族以外に言ってはいけないことになってる。でも、詩子は」勇太はそこで言葉を切り、わたしの目を見て言った。「わかるだろ?」
 わからない。ちゃんと言ってくれなきゃ。
 だけど、勇太はついに言わなかった。この話は終わりだと一方的に言って、屋敷のほうに歩いていく。わたしはその後ろ姿を、黙って見送った。
 彼が建物の中に消えていくのを見届けてから、わたしはこっそり追いかけた。彼が夢乃さんと結婚するかどうかは、ふたりだけで決めることだ。だけど、わたしにだって知る権利くらいはある。どうして夢乃さんで、わたしじゃなかったのか。自分には何が足りなくて、なぜ勇太の隣にいられなくなるのか。
 玄関から中を覗く。使用人らしき人が行き来しているのが見えた。ここから入るのはよくなさそうだったので、建物の裏に回ることにした。木戸を開けて、生け垣の内側に入ると、そこには庭園が広がっていた。
 木や、岩の陰に隠れて、そっと進んでいく。庭園を抜けたさらに奥には、じめじめした裏庭があった。わたしは建物の壁に体をつけるようにして、窓の下をくぐる。
「あの子は、もう来ているのですか」
 びくっとして、思わず足を止めてしまった。どこかで人の声がした。
「はい、お母さん。今は、座敷で待ってもらっています」
 勇太の声だ。どうやら母親と会話しているらしい。見上げると、窓がわずかに開いていて、そこから声が漏れていた。
「力がある子だと聞いています。あなたが言うからには、本当なんでしょうね」
「何度か確かめました。祖母から受け継いだ力だと」
「そうか、星川……なるほど、腑に落ちました」
 会話の中身はよくわからないが、さっきの勇太の言葉からして、夢乃さんが花嫁にふさわしい、という意味のことを言っているのだと思った。
「では、すぐにでも準備を」
「ちょっと待ってください。実際に会わせるのは、もう少し様子を見てからのほうが」
「何を待つのですか。天堂家の嫁になれるかどうか、基準はひとつしかありません。岩戸をくぐり、天降る神に詣でて、わだつみの子に仕える。それができなければ、何人たりともこの家に嫁ぐ資格はありません」
「お母さん、しかし、それはあまりに」
「いいですか、勇太。これは天堂家だけのことではないのです。あなたもいい加減、次期当主としての自覚をお持ちなさい」
 まくしたてるように、それだけ口にすると、勇太のお母さんは声色を変えて、おそらく、そばにいた別のだれかに声をかけた。
「岩戸参りの準備をします。衣装を用意して、それから、道の玉砂利をきれいに敷き直しておくように」
 はい、とかすかに答える声がする。わたしはあたりを見回した。すると、裏庭の奥のほうに、白く光る小道があるのに気づいた。じめっとして苔むしている裏庭の中で、そこだけは明るく輝き、何か神聖な雰囲気があった。
 これが、今の会話に出てきた、岩戸とやらに通じる道なのだろう、と思った。道は蛇行しながら庭を出て、屋敷のさらに裏手へと続いている。
 わたしは音を立てないようにそちらへ向かった。この道をたどっていけば、岩戸に入れるのだろう。さっきの話しぶりからして、おそらく天堂家が守っている神様か何からしい。嫁の役目は、その神様に仕えることなのだと。
 なんだ、と思った。そのくらいのことならわたしにだってできる。宗教とは縁のない暮らしをしてきたけれど、行儀作法は一通り習っている。巫女の真似事なんて難しいことじゃない。
 わたしは無意識に、その道の上を歩きだしていた。いったいどんなところだか見てやろう、と思った。その神様とやらのせいで、わたしは幼馴染に振られたのだから、そのくらいの資格はある。
 道は、思ったよりも険しかった。屋敷の裏の断崖絶壁を下り、いくつかの鳥居をくぐって、最終的には岩の裂け目のような洞窟に通じている。岩戸と呼ばれるわけだ。
 洞窟の入り口には小さな祭壇があって、鏡と、お供え物がいくつか並んでいた。まさかこれだけかと思ったけど、すぐに違うと気づいた。先ほどの会話では、岩戸をくぐり、神に詣でる、と言っていた。つまり岩戸の中に神がいるのだ。
 中は真っ暗だったので、転ばないよう気をつけながら、一歩ずつ前に進んだ。小等部の修学旅行のとき、とあるお寺でこういう場所を通った記憶がある。胎内くぐりと言ったか。
 それにしても、ずいぶん距離がある。入り口の大きさからして、ほんの数メートルも行けば本尊なり御神体なり、そういうものが置かれた場所に出ると思っていたのだけれど、むしろ奥へ行くほど広くなっていて、今は自分がどういう空間を歩いているのか、まったくわからなくなっていた。
 手をついた壁はひんやりとして、少し湿っている。暗闇の中で、音と匂いだけがはっきりと感じられた。遠くから波の音がする。この場所は海に囲まれているのだから当然だ。それからちょっと生臭い、たぶん磯の香り。
 そんなことを考えながら歩いてると、不意に何か柔らかいものを踏みつけた。あっ、と思ったときにはバランスを崩していて、わたしはその場で尻もちをついてしまう。ちょうどそこは斜面になっていたらしく、濡れていたのもあいまって、そのまま何メートルか滑り落ちた。わたしは悲鳴を上げた。
 手足を踏ん張ってどうにか止まり、痛む体をさすりつつ起き上がった。水たまりの中に突っ込んだらしく、全身が濡れている。そして、わたしは困ったことに気づいた。方向の感覚がない。どちらが入り口なのかわからなくなってしまった。
 心細さで胸がつぶれそうになる。とにかく、手探りで壁を目指した。しかしどこまで這っても壁が見つからない。生臭さが強くなってきて、わたしは鼻を押さえた。
 突然、どこかから、息を吐くような低い音が聞こえた。
 ぞくりと震えが走り、わたしはその場で固まってしまった。今のはなんだろう。この洞窟の中に、わたし以外の何かがいるのだろうか。
 ふしゅーっ……ふしゅーっ……ふしゅーっ。
 間違いなく、暗闇の向こうから響いてくる。まるでわたしを品定めするように、音の主は地面すれすれにゆっくりと移動している。そんな想像をした。
 わたしは泣きそうになりながら、地面を這った。どちらが出口かわからないけど、ここから逃げなければ。
 しかし、わたしが動き出したのを察したか、音の主はさらに距離を詰めてきた。何か濡れたものを引きずるような、あるいは叩きつけるような、重く不快な音が混じる。
 びちゃ……びちゃ……ふしゅーっ。
 何も見えない暗闇の中、わたしの想像はどんどん悪くなっていった。洞窟の冷えた空気が少しずつ、そいつの気配に入れ替わっていく。腐った魚のような臭いが漂い、喉に酸っぱいものがこみ上げる。わたしは思わず口を押さえた。
 わたしの顔のすぐ横に、びちゃっと何かが垂れてきた。何かはわからない。悪臭に包まれた、べたべたしたものが。
 そいつは、わたしの上にほとんど乗りかかっていて、じっとわたしを見下ろしている。もうだめだ、と思ったとき。
「詩子、目をつぶれ!」
 声が響いた。それが洞窟中にぐわんぐわんと反響する。わたしは言われたとおり、目を塞いだ。
 頭上で、ばちっ、という音がした。と同時に、わたしの上にいた何かが叫び声を上げた。そこでおそるおそるまぶたを開く。洞窟内がほのかに明るくなっていた。
 光源のほうを見る。そこに立っていたのは、夢乃さんだった。
 最初、彼女が懐中電灯か何かを使って、洞窟の中を照らしているのかと思った。しかし、それは違った。光は彼女自身の体が発しているものだった。夢乃さんは、わたしではなく、わたしの背後の暗闇を、凛とした表情で睨みつけている。
「おとなしくして、住処に戻りなさい、その人に手を出してはだめ」
 そう言って、夢乃さんは片手を突き出す。すると、開いた手のひらから、さらに強い光が溢れてきた。わたしはまぶしくなって、思わず目をそむける。そのとき、わたしの背後にいたものの姿が、わずかに見えた。黒い、ぶよぶよした何か。
「よせ、見るな」
 そう言って、暗がりから別の手が伸びてくる。勇太の声だ。そう思った次の瞬間、わたしは彼の腕に抱かれていた。
 ふしゅーっ……。
 長い長い吐息のような音。それが徐々に遠ざかっていく。すると、それに合わせたかのように、夢乃さんを包んでいた光も徐々に弱まって、消えていった。
「もう安心だな、夢乃、ここを頼む」
「うん、わかった」
 そう言うと、勇太はわたしの肩を抱くようにして立ち上がらせる。もう一方の手でライトのスイッチを入れると、それで足元を照らしながら、そっと歩き出す。
 暗闇で、濡れた坂を上るのは、集中していないと難しかった。だとしても、わたしは尋ねずにはいられなかった。
「ねえ、さっきのは……?」
 勇太はしばらく黙っていた。けれど、やがて諦めたようにため息をつき、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「天堂家はずっと昔から、この場所に住んでいる。理由は、この土地に住んでいる神様を守るためなんだそうだ」
「それって」
 さっきの、と言いかけたが、勇太はそれを制して続ける。
「正直、この洞窟に何がいるのか、おれにもよくわかってない。ただ、とにかく神様とやらは本当に存在していて、それに言うことを聞かせるためには、特別な力が必要らしい」
「特別な力」
「おれの母さんにもあったものだ。同じものが、夢乃にもある」
 わたしは、この目で見たばかりの、夢乃さんの姿を思い出していた。闇の中で、ほのかな光に包まれ、毅然と立っていたあの姿を。
 それから勇太は、ごめん、と言った。
「去年、クリスマスに誘ってくれたのに、行けなかったよな」
「え?」急にそんな話をされて、混乱する。「ええ、でも、用事があるって」
「母さんの病気がわかって、家を継ぐ準備をしなきゃならなかった。天堂家を継ぐということは、あいつの世話を引き継ぐってことだ。おれには特別な力なんてない。だから、結婚相手を探せと言われた」
 そうだ、ちょうどその頃から、彼の様子はおかしかった。何か焦っているような態度で、わたしを避け始めた。
「おれは……詩子、おまえのことが好きだった」
「ちょ、ちょっと、何」
「すまん、言わないつもりだった。こんなことにならなかったら」
 話題が変わったと思えば、今度は突然の告白。わたしはもう、自分がどんな表情をしているのかもよくわからなかった。心がぐしゃぐしゃに潰されていくようで、ただつらかった。
「でも、おまえとは結婚できない。だから、こうするしかなかった」
「それは、つまり、わたしには」
「自分でもわかってるだろ、あれを見たんだから」
 あれ。そのことを考えるだけで、わたしの背中にはまたぞわぞわと悪寒が走る。この世のあらゆる不快なものを集めたような、おぞしまく、いびつな何か。あんなもの神様であるものか。あれじゃ、まるで。
「わ、わたしは」
 震えとともに歯がぶつかり合い、カタカタと鳴って、うまくしゃべれなかった。
「まっぴらよ、あんなものがいる、ところに、住むなんて」
 言ってしまったあとで、はっと気づいて勇太の顔を見た。暗闇の中、ほとんど何も見えなかったけれど、彼のシルエットはうなだれていた。その途端、わたしは大切なものが今、終わってしまったことを知った。
「本当に悪かった」
「やめてよ、そんな言い方」
「悪い」勇太は思い出したように付け加える。「夢乃にも、いつか謝らなくちゃ」
「……ねえ、勇太は、夢乃さんのこと」
 わたしはそこで言葉を切った。ひどいことを言いかねないと思ったのだけど、勇太は笑った。
「あいつは、いいやつなんだ。あんな力を持って生まれてきて、さんざん嫌な思いをしただろうに、それでも、おれのために力を使ってくれると言っていた」
 笑っていたのは最初だけで、途中からは涙声のようになる。
「いいやつなんだよ、だから……」
「だったら、ちゃんと言ってあげて、わたしにじゃなくて」
 と、いきなり前方から光が差してくる。洞窟の出口がもう見えていた、わたしは目を細めて、光のほうを見つめる。ふと見れば、勇太は泣きながら、同じようにその光を見上げていた。
「ああ、そうだな」
 わたしたちが、ふたりきりで話したのは、それが最後になった。

「新郎新婦、ご入場です」
 会場の照明が落とされ、次の瞬間、正面のドアにぱっとスポットライトが当たった。みんな、一斉に拍手を始める。やがてドアが開き、盛装のふたりが現われた。白いタキシードを着た勇太、きれいなドレス姿の夢乃さん。
 カメラのフラッシュライトがそこかしこで焚かれている。ふたりは笑いながら、テーブルの間を縫うようにして、こちらに向かって歩いてきた。お調子者の同級生が口笛を吹く。ハンカチで目元を押さえている人の姿も見える。
 それを見て、わたしはなぜかほっとした。いざ、ふたりが並んで歩く姿を見たら、どう感じるか不安だった。でも今のところ、わたしはとても落ち着いている。それが嬉しかった。
 五年が経ち、あのときのことを冷静に振り返ってみると、自分の体験が、なんだか信じられないもののように思えた。暗い洞窟の中で混乱したわたしは、ありもしない幻を見ただけなのかもしれない。そこをあのふたりに助けてもらったという、ただそれだけの出来事なのかもしれない。
 でも、たとえそうだったとしても関係ない、とわたしは思っていた。今、わたしは勇太の隣にいないけれど、それを悔しんだり、憤ったりするような気持ちは、もうわたしの中に残っていない。
 ドレスを着た夢乃さんはとても美しかった。幸福と寂しさのちょうど中間のような表情で、勇太に腕を引かれている彼女は、この場にいるだれよりも、今日という日にふさわしかった。
 あの日、吐き気を催すような暗闇と恐怖の中で、わたしは地面に這いつくばって震えていた。それなのに、夢乃さんは立っていた。折れそうなほど細い体で、目を背けたくなるような何かに立ち向かった。わたしたちの人生を分けたのは、魔法のような力などではぜんぜんなくて、案外、そういうことなのかもしれない。
 テーブルのすぐそばをふたりが通り過ぎ、一瞬、わたしと夢乃さんは目を合わせる。彼女は遠慮がちに微笑し、会釈する。ありがとう、そしてごめんなさい。
 わたしはヒロインにはなれない。
 だから、今は精一杯の拍手を、あなたにあげる。


(了)