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駿馬京の恋愛短編『脱皮』

駿馬京さんから新作の短編をいただきました。前回寄稿してもらった『蜷局』と同じ世界観の作品です。かつて陸上にすべてを賭けていた少女・或瀬と不思議な不登校児ニナの、奇妙な関係とは……。タイトルが象徴する、復活と再生の物語。


駿馬京(しゅんめけい)
『インフルエンス・インシデント』で第27回電撃小説大賞を受賞しデビュー。漫画原作としても活動、『君と観たいレースがある』(原作:渡辺零・駿馬京 漫画:くわばらたもつ)が発売中。


脱皮

 

 脱皮できない蛇は滅びる。

その意見を取り替えていくことを妨げられた精神たちも同様だ。

 それは精神ではなくなる。

 ――フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900)



 だからあたしは『愛着』を捨てた。

 そんな話をすると、ニナは隣で「いいじゃん」と笑う。最悪だった。



 いつものように午後の授業から逃げる。校外へ出て、制服のまま繁華街のゲームセンターへ向かっていると、背後から「今日もサボりなんだ?」と声をかけられた。振り返らずともご機嫌な声色でわかる。クラスメイトの蜷川だ。通称ニナ。

 声変わりしているのかを問いたくなるような甲高い声と、女子の平均身長よりも小柄な体躯を両立する小動物みたいな男子なのだが、その姿とは裏腹に自由度の高い学校生活を謳歌している。あるいは謳歌していない。具体的に言えば学校に来ない。マジで来ないのだ。

 ただ、どういう意図があるのか知らないがいつも制服を着ている。本人いわく「制服着てないと幼女と間違われて補導されるんだ」とのことだが、制服を着ていてもこいつは女児だ。ちなみにあたしが直接尋ねたわけではなく勝手に自己開示をされた。

 そう、勝手に。

 なぜかあたしは、このトンチキなクラスメイトに気に入られているのだ。

 一方、あたしのニナに対する印象は最悪である。悪いどころじゃない。最悪だ。

「なんで毎度毎度あたしに声かけるわけ?」

 すると、まだかろうじて登校していたころのニナは、にこやかにこう言い放ったのだ。

「挫折した人間の復讐劇からしか得られない栄養があるんだよ」

 このときに抱いた悪感情は現在も覆らず、むしろ日に日に増すばかり。

 ゆえに今回も、完全に無視をした。

「ねえ或瀬、今日はなにして遊ぶの?」

 気安く名前を呼ぶな。

 そう拒絶する気力すら湧かず、あたしは無言で歩き始めた。



 ベッドタウンの利点は住みやすいことだと思う。なにを当たり前のことを言っているんだと思われるかもしれないが、15歳で親元を離れて寮生活を始めた身からすれば特にこのメリットを感じる機会が多い。駅前に行けば衣食住およびそれらに付随する娯楽がすべて揃うし、狭い空間で目的が完遂する。ゲームセンターに行き、帰りにスーパーで食事を調達し、両手いっぱい抱えて帰る。とても理に適っている。ほかの寮生は徹底的に栄養管理された食事が朝晩に用意されているので、この心地よさを感じられるのはあたしくらいだと思う。

 反面、明確なデメリットが2点ある。ひとつ、駅前に出向かなければ「無」である。生活に必要なものがなにも手に入らない。そしてもうひとつは治安が終わっていることだ。住みやすくて、世帯が多くて、娯楽施設の分布が集中しているので必然ともいえる。

 そういうわけで、あたしが通うゲームセンターはめちゃくちゃ環境が悪い。

 それでいてなお、この場所を選んでしまうのは、ここしか居場所がないからだ。そして、あたしの領域になるはずだったこの場所に、先に根を生やしていたのがニナである。



 あたしが落ちものパズルゲームの筐体の前に腰を下ろすと、当然のようにニナが隣に腰かけてくる。心底鬱陶しい。『鬱』という字をボールペンで書かされるくらい気が滅入る。

「今日もそれやるんだ。飽きないの?」

「…………はあぁ」

 わざとらしく大仰にため息をついてみたが、当のニナはまったく動じずにニコニコとあたしの顔をのぞき込んでくる。

「或瀬って身体だけじゃなく頭も使えるんだね」

「はあ? どういう意味?」

 おそらく失礼極まりないことを言われたので反射的に声が出た。

「そのままの意味。足で高校に入学した特待生なのに、ちゃんと頭が良いのはすごいなぁって。だからパズル選んだんでしょ?」

「そんなわけない。1プレーあたりの料金が安いから」

「切り詰めてるんだ?」

「発想が飛躍しすぎ」

 日々、無為な時間を消費するための手段としてこの場所を選んでいる身としては、なるべくコスパよく滞在したい。その点、1プレーあたり数百円を消費する人気の格闘ゲームやリズムゲームよりも、腰を据えられそうな場所を消去法的に選んでいるだけの話だ。

「それに、多少勉強ができるのはほかにやることがないから」

「勉強は究極の自己投資っていうもんね」

「誰の言葉?」

「ぼくの身近にいる最悪な人間」

「あっそ」

 絶対にほかの人も言ってるだろ、と反射的に思ったけれど口には出さないでおいた。

「じゃあ、そういうことで」

 あたしが筐体に100円を投入すると、またしても当然のようにニナがP2を操作し始める。

「ちょっと、あたしの金」

「次のプレーはぼくが出すから」

「そういうこと言ってるんじゃない。あっち行け」

「対戦のほうが面白いでしょ?」

「それとこれとは関係ない」

 1人用のアドベンチャーモードで自分と向き合っているほうがまだ有意義だ。隣にこいつがいると無限に話しかけられるのだ。パズルゲームをしているのにめちゃくちゃ気が散る。

 それにしても、こいつのメンタルの強さはなんなのだろう。

 自分で言うのもなんだが、あたしは品の良いほうではない。

 むしろ口はすこぶる悪い。

 けっこうな罵詈雑言を浴びせかけているのにも拘わらず、毎度なにごともなかったかのようにコミュニケーションを取ろうとしてくる。本来なら脳味噌のどこかにあるべきストッパーがぶっ壊れているとしか思えなかった。

 軽快なBGMとともに画面上部からパズルのピースが落ちてくる。それを数珠繋ぎにして、特定の数をまとめると消失してポイントが入る。その繰り返し。一心不乱に次のコンボを考えながらピースを積み上げていると、隣から「ほいっ」と気の抜けるような声。次の瞬間、とんでもない量の障害物が天から降ってきてゲームオーバーの画面が表示された。クソ萎える。

「あたしの金」

 さきほどの不満を再度繰り返すと、ニナはにっこりとほほ笑んで「ごちそうさまです」とウインクしてみせた。殴りたい。たぶんこいつならワンパンで倒せる。

 結果的にあたしは40連敗した。腹立たしい。

 しかしゲームセンターを出るころには辺りがすっかり暗くなっていたので、すこしだけ不満は薄らいだ……ような気がする。なにも考えずにいられるのは最高だ。考えてしまうと、最悪な情景の記憶と自分の空虚さを自覚して憂鬱になるから。



 あたしが住んでいる学生寮は基本的に相部屋になっている。あたしのルームメイトはバレーボール部の副部長。3年生だ。年上と話すのは得意ではないけれど、話しやすい先輩なので助かっている。そりゃ副部長にもなるわ、と思った。

「或瀬、あんまり出歩いてると補導されるよ?」

 部屋に戻るなり心配の声をいただいてしまった。ルームメイトが粗相をすると連帯責任……みたいな風習はないけれど、競技に打ち込んでいる身なのにあたしの荒れた私生活まで心配させていることにすこしだけ心が痛くなる。他人は他人、あたしはあたしと割り切れるくらい能天気だったらどれほどよかったことか。

「……すみません」

「怒ってるわけじゃないから大丈夫。門限破りもいつもどおりごまかしておいたし」

 学生寮の門限は20時だ。遅いほうだと思うけれど、駅前の街中をふらふら歩いているとあっという間に過ぎてしまう。先輩はこう言ってるけれど、いつも破っているわけじゃない。今日は最悪なことにニナに絡まれてしまったので事故みたいなものである。

「膝、調子どう?」

 先輩の気遣いが心を突き刺してくる。

 あたしは笑顔を張り付けたまま答える。

「問題ないです。夜の繁華街を散歩できる程度には」

「走るのは……どう?」

「…………」

 返答に窮する。

 しばらく沈黙した後に口から漏れ出たのは、ある意味あたしの本心だった。

「走ろうと思えば走れるんじゃないかなと。走ろうって思えないので変わりませんけどね」

 そして今日も空虚な1日が幕を閉じる。



「子どものころ、無機物に敬称を付けて呼ぶのが癖だったんだ。『お箸さん』とか『リモコンさん』とか『冷房さん』とか『暖房さん』とか」

「キッショ……」

 突拍子もないニナの自分語りに、混じり気なしの感想が飛び出た。冷房と暖房は機能の違いでしかないだろ、という突っ込みすら出てこない。

 今日もあたしは学校を早退しているし、ニナも当然ゲームセンターにいる。

 我ながら辛辣な言葉を放ったと思うが、やはりニナはヘラヘラと笑った。効いてない。

「某親族にもよく言われる」

「あっそ」

 こいつは言葉を濁していたが、ニナの姉のことだろう。なにせ有名人だ。面識はないが「癒月」という名前と突出した学業成績は校内の誰もが知るところである。ついでに言えばとんでもない美人。それでいて浮いた噂が出ないのも化け物じみている。お姉さんの相貌にもニナの面影を感じるので、遺伝子が相当強いのだろう。強い遺伝子ってなんなんだって話だけど。

「悪魔みたいな親族に『悪魔みたい』って言われるんだけれど、こういうときってマイナスとマイナスの乗算でプラスになるよね?」

「なんで掛け算するの。単純に加算して最悪になるだけでしょ。少なくともあたしにはあんたが悪魔に見える」

「ちゃんと実在する人間だよ? ただ単に、人が絶望を乗り越える瞬間を観察したいだけ」

「バカにしてんの?」

 さすがに癪に障る。いつも相手にしていないとはいえ、心に滞留するやわらかい部分を槍で抉られると、防衛策を取らざるを得ない。

「してないしてない。ほんとだよ」

「あたしが学校サボってゲーセン来てるのがそんなに面白い?」

「まだ面白くはないかな」

「まだってなに? これから面白くなるわけ?」

「うん。確信がある」

 つかみどころのない発言に腹が立つ。

 あたしが過ごしてきた15年間に、他人を惹きつけるような面白みはなかった。

 もしもあたしを『面白い』と評する人間がいるのなら、その『面白い』は好意的な感情ではなく、嘲りを含んだものだろうとすら思う。

 パズルのピースが画面上から飛び出してくる。空いた隙間にそれらを放り込んでいく。つなげていく。つながったら消えていく。その繰り返し。

 あたしは外部から入る音の一切をシャットアウトし、ディスプレイに没入する。

 同時に、過去の情景が頭の中に浮かんできた。

 忌々しくて、憎々しい、偽りの栄光に浸っていたころの思い出だ。



 あたしは足が速かった。

 小学生のころの競争意識はとても単純で、足が速いイコール教室の王になる。

 ゆえに、あたしの自己同一性は足の速さによって確立されていたし、それだけで学校生活のすべてを肯定されたような気持ちになっていた。だからこそ気づけなかったこともあるけど。

 小学校から中学校へ進学するにあたり、子どもはさまざまな価値観に触れながらそれぞれの道を歩き出す。『足が速ければすごい』だなんて陳腐な価値観はだんだんと消滅していく。

 一部を除いて。

 あたしは小学校の高学年ごろから気付き始めていた。足が速いだけで承認してくれるクラスメイトが減り始めていることに。そこで思い至ったことは当然、ひとつだけ。

 陸上の強豪校に入ろう。

 中学受験を成功させたあたしは、3年間を陸上のスプリント競技に捧げることとなる。

 新たな出会いもあった。『着順』という概念である。

 誰よりも速くゴールを駆け抜けた瞬間の快感、手にした名誉、近しい存在からの称賛。

 ここにもあるじゃないか。

 足が速ければすごい、という単純な価値観で優劣が決定する世界が。

 中学陸上界でそれなりの成績を残したあたしは、陸上によるスポーツ推薦で高校進学を決めることとなる。

 足が速いだけで親元を離れられる。

 足が速いだけで高校に迎えられる。

 足が速いだけで人生を変えられる。

 足が速いだけで世界を変えられる。


『ぶちんっ』


 と、テレビの中のコントみたいな音があたしの身体から鳴り響いて。

 それが世界の終わりの合図だった。



「右膝前十字靭帯の断裂。アスリートとしてはあまりにも致命的すぎる怪我。スポーツ大嫌いなぼくでも知ってるよ」

「……普通はスポーツしてないと知らなくない?」

「そうなの? 人間の身体のつくりを勉強すれば必ず行きつくじゃん」

 知識を探求する過程でどう寄り道したらそこに行きつくんだよ。

「キッショ……」

 あたしが吐いた毒は、隣に座るニナにはまったく効いていない。

 前十字靭帯。

 端的に言うと、膝の皿の裏に通っている、ふとももとスネの骨どうしをつなぐ靭帯だ。

 輪ゴムを限界まで伸ばすと、やがて引っ張る力に耐えきれずにぷっつりと切れてしまう。それとほぼ同じ原理。わずかな滞空からの着地をしくじったあたしの膝は、大きな負荷がかかると同時に、その生命線をねじ切ってしまったのである。

「でも、或瀬は歩けてるじゃん」

「それがなに?」

「走れないの?」

「知らない。手術してから走ってないし」

「一度は走ってみようと思わなかった?」

「思わなかった」

 無邪気なニナの質問に、すべて端的に返答する。子どもみたいだなと思った。無邪気さと同時に残酷さをはらんだ声。

「ふーん、そういうものなんだ」

 軽い調子のニナの声が、あたしの神経を逆撫でする。

 しかし激昂を表面には出さなかった。否、出せなかった。もうすでに燃え尽きている。

 前十字靭帯を断裂しても、走れるといえば走れる。あたしは1年の夏に怪我をして、その後に手術と入院を挟んでいるから、その間は歩行すらままならなかったけれど、きちんとサポーターを巻いて、定期的にリハビリをすれば、日常生活で不自由しない程度には過ごせる。

 競技者でなければ。

 前十字靭帯を損傷すると、膝を支える力が弱くなる。結果として『膝くずれ』が起きやすくなるし、地面を踏みしめる力も落ちてしまう。

 同時に、患部がすごく痛む。地面からの反発力を受け止めているのだから当然だ。膝の裏の血管に針金を通されて乱暴にかきまわされるような痛みが群発的に起こる。

 あたしのパフォーマンスは、もう100%には戻らないのだ。

 誰よりも速くゴールへ到達するためにすべてを捧げてきた。周りの同級生がオシャレに目覚め始める一方、あたしは毎日ランニングをしながら、受験勉強と自己推薦の面接の練習に没頭していた。

 中学生のころ、周りの同級生がメイクに目覚めたり、男女交際を始めたりする間も、一切目もくれずにタータントラックを駆けまわっていた。

 その先に待っていた現実が、これ。

 ベッドタウンの駅前のゲームセンターでくすぶっている、くだらない女子高生である。



 くだらない女子高生なので、今日もくだらない時間の使いかたをしている。

 消費である。女子高生の消費。

「或瀬ってぼく以外に友達いないの?」

「いたらもっとマシな学生生活を送ってる……待って。しれっと友達ヅラしないで」

「たしかに、話し相手がいればわざわざ学校抜け出してこんなところ来ないよね」

「どの口が言ってるの?」

「ぼくの口。見てみる?」

「見ない」

 無駄に整っていて腹が立つし。リップ塗ってんじゃねえよ。

「或瀬は陸上部だったはずでしょ? 部活にも友達いないの?」

「いない。作る必要ないと思ってたし」

「向き合う相手は自分だけだから?」

「ほっといて」

 正鵠を射ている。それも腹が立つ。

「たしかに陸上競技って周りみんなライバルみたいなもんだもんね」

「長距離だとチームで走ったりするけど。短距離だとリレーもある」

「じゃあチームプレー大事じゃん」

「……ほっといて」

 あたしはスプリントに命を懸けてきたし、足の速さだけで人生に必要な切符を勝ち取ってきたつもりだ。プライドも高く、チームメイトにたくさんのことを求めすぎた。

 いざ高校に入学してみると、周りには『ただ足が速いだけの人』が多かったわけだ。

 覚悟が足りない。

 決意が足りない。

 自制心が足りない。

 目に映るすべてを拒絶して、あたしは自分との戦いに全リソースを割いた。ニナの言う通り一部ではチームプレーが必要になるけれど、あたしの主戦場は個人戦だったから。

 ……というのも、結局はすべて過ぎたことだ。

 もう部活に戻ることはないだろうし。

 退部届を出したわけではないから、幽霊部員みたいな扱いになってるはずだけど。

 部活を辞めると表明したとき、顧問に言われたのだ。届を受理してしまうと或瀬蘭は陸上部員ではなくなる。スポーツ推薦で入学し、スポーツ特待生の学生寮に住まわせてもらっている以上、部員でなくなった場合は住処が無くなってしまう。退学して地元の高校に編入する選択肢も現実的にはあるのだろうけれど、気が乗らない。想像できないし。

 踏み出す勇気もなければ、歩んできた道を戻る潔さもないのだ。あたしには。

「たしかに、陸上部の人と或瀬が一緒にいるところ見たことないかも」

「あんたはそもそも学校に来ないだろ」

「ぼくが行ってたころからそうだったじゃん」

「……ダベる暇があるならクールダウンに集中しろとか、ジョグ中に雑談するなとか、入部当初から言いまくってたら、気づいたときにはそうなってた」

「うわー、先輩から嫌われそう」

「嫌われてなんぼだと思ってた」

「わかる。そういう時期あるよねー」

 お前はなにを知ってるんだと言いたくなるが、ぐっと堪えた。

 ゲームセンターを出ると、やっぱりニナはついてきた。面倒くさい。

 ローファーをコツコツ鳴らしながらアスファルトで舗装された道を早足で歩く。後ろからタッタッタッと軽快にスニーカーの足音がついてくる。歩幅が合わないのだ。合わせるつもりもないけど。ついてきたいなら勝手についてきたらいい。ストーカーだとか変質者だとか騒ぐつもりもない。ニナには悪意がないのだ。それだけはわかる。悪意を持っているのはあたしだ。

 なぜなら、ニナがあたしに向けて放った言葉に、間違った指摘は一切なかったから。



 学生寮に戻ると、いつものように先輩が声をかけてくる。しかし今回はすこしだけ内容が違っていた。

「或瀬、オチのない話をしてもいい?」

「他人の話にオチを求めるタイプじゃないんで。どうぞ」

 すると先輩は溜息をついて、先を続けた。

「別のクラスに不登校の子がいてさ。退学しちゃったんだって」

「へえー」

「特進クラスの子で、めっちゃ勉強できて、誰とでも仲良くできるタイプの子だったんだけどSNSで炎上してから引きこもりになったんだよね」

「へえー」

 そんなこと本当にあるんだ。実感湧かなかった。

「なにをやらかしたんですか、その人」

「バイトテロ」

「あー」

 玉虫色の返事が漏れた。従業員が職場でよくない行為をして、おまけにその様子を撮ってSNSにアップロードするアレだ。内容によっては企業のイメージダウンにつながる行為になるし、企業はなにも悪くないのに謝罪を要求される。場合によっては当該店舗が閉店したりする。

 というか、なによりスベってる。当人は面白いと思っているのかもしれないけれど。

「別のクラスの生徒のことなんて気になるんですね」

「まあ、良い子だったし」

「あー」

 良い子だったらSNSで炎上なんてしないんじゃないだろうか……という疑問は胸の内にしまっておくことにした。なにを言ったのか、なにをしたのか知らないけれど、炎上するなら相応の理由があるはずだし。

「たしかに悪いことをしたとは思うけど、それだけで彼女のすべてが否定されるべきではないとも思うんだよ。でも、ほかの人には本質なんてわからない。一方的に悪者にされて、学校とか本名とか、住んでる場所とか親の職業とか、すべてが特定されたりする。再起のチャンスが失われる――それって正しいことなのかな」

 綺麗ごとに聞こえたのは、あたしに共感性が欠落しているゆえか。

 それともあたしが悪人であり、世の中の善人はみなこのような思考をするのか。

「……先輩はその人と仲が良かったんですか?」

「ううん。一緒に遊んだりしたことはない」

「ですよね」

 この人、一生バレー漬けだし。外に遊びに行ってるのを見たことがない。

「でも、気になるんですか? 言っちゃなんですけど……」

 無意識のうちに口をついた言葉の先を、先輩は的確に読み取った。

「たしかに他人事だけど……いつ自分に降りかかるかもわからないからね」

 被害者が加害者になることもあれば、加害者が被害者になることもある。一見、被害者に見える人が実は加害者だった、なんてこともある。

 たぶん、そういう意味なのだと思う。頭では理解できている。

 でも、あたしは答えられなかった。その意味がわからなかったから。

 先輩がこちらに視線を向ける。そして、とりとめのない思考を巡らせていたあたしをよそに、ぼそりと呟く。

「それに、どんなに悪いことをしたって、高校生のうちに人生が終わるのは気の毒だよ」

 沈んだ声に、あたしは反射的に謝罪を述べる。

「……気を悪くされたならごめんなさい」

「或瀬ってちゃんと人に謝るよね。そういうところは好きだよ」

 そういうところは。少々含みのある言いかただとは思った。

 足を壊してからというもの、すべての言葉が良くない意味に聞こえる。たぶん先輩は言葉に深い意味を持たせていない。誰からも好かれる良い人だし。あたしに対しても表面上は普通に接してくれるし。あたしの徘徊をスルーしてくれるし。良い意味では面倒見がいいのだろうし、悪く捉えるなら他人にそれほど関心がないのかもしれない。どちらかといえば後者に見えてしまうのは、あたしがひねくれているからか。

 まわりが全員、敵に見える。

 でも、これまでのあたしと本質は変わらない。

 タータントラックの上では、まわりすべてが敵だった。

 先輩はああ言ってたけど、悪いことをした人間はそのまま淘汰されればいいと思う。

敵は減ったほうがいい。不安にまみれた日常の中で、すこしだけ安心できるから。



 その日も、昼休みの最中に学校を抜け出そうとしていたのだけれど――。

 なに食わぬ顔で正門に向かっていたところで、声をかけられてしまった。

「或瀬蘭。まだ授業は終わっていないぞ」

 生活指導の教諭だ。体育教師らしく上下ジャージの出で立ちで待ち構えている。

 まだ30歳過ぎだというのに、芯の通ったまっすぐな指導が評価されて、みるみるうちに今のポストに収まったらしい。当然、生徒からはめちゃめちゃ恐れられている。

 天に轟くような大声であたしを呼び止めたかと思うと、ずいずい近づいてくる。

「今日も駅前徘徊か?」

 どうやらバレているらしい。

 バレているなりの嘘でごまかすことにする。

「通院です」

「即答で嘘をつくな。虚言ばかりの人間になってしまうぞ」

「はあ……」

 あまりピンとこなかった。威圧感にあふれた教諭は、さらに大きな声を張る。

「或瀬。お前の気持ちもわかる。みんな心配しているんだ」

「心配? なにをですか?」

「お前が短慮な行動をとらないかを、だ」

「意味わかんないんですけど」

 これも嘘だ。だいたい予想はつく。

 女子高生が繁華街でひとり、治安の悪いベッドタウンとくれば、おのずと事態は想定できる。加えてあたしは親元を離れて暮らしている。

 けれど問題はない。あたしはあたしの価値を信じていない。速く走れる足を失ったあたしの価値を、あたし自身が信じていない。信じられない。

「それは……いかん、これ以上言うとセクハラになるか……」

 教諭の声のトーンが落ちる。あたしはその脇を通り過ぎようとした。

「……或瀬。自暴自棄になるなよ」

「あたしが自暴自棄に見えますか?」

「そうでなければなんだという?」

「さあ? なんかタルいだけ?」

「なぜこちらに問いかける?」

「わかんないですけど」

 わからない。自分がどういう状況なのか。

 わからない感情を、わからないまま言語化なんてできない。

 そのとき、教諭のさらに背後から――正確には、校舎から声が響いてきた。

「まだ、このままでいいじゃん」

 しだいに声が近づいてくる。

「それを見つけようとしてるんでしょ」

 振り返らなくてもわかる。この声を聞き分けられるようになったことが、どうしようもなく嫌だった。なにもなくなったあたしの横に引っ付いて、いつも楽しそうに響いていたから。

「……なんであんたがいるの、ニナ」

 あたしの問いかけに、やがて隣にやってきたニナは即答する。

「なんでって、学生なんだから学校には来るじゃん?」

 あっけらかんと口にする。あまりの自然体っぷりに毒気を抜かれてしまった。だいたい、制服すらも身にまとっていない。

 じゃあ、なんのためにここへ?

 そもそもこいつはどこからやってきた? 

 校舎からだ。え……でも、なんで?

 ぐるぐると思考が巡るが答えは得られない。しかしニナはあっけらかんと続けた。

「お姉ちゃんに届け物があったから。その帰りだよ」

 そして、当然のようにあたしの肩を叩く。

「じゃ、行こっか」

 あたしが反応するよりも先に、教諭が口を開いた。

「蜷川、待て。どういうつもりだ」

「あれぇ? お姉ちゃんに取ってる態度と比べて接しかたがキツくないかな? 差別してる?」

「差別ではない。区別だ。姉のほうは学業成績も優秀で、さまざまな点で学校の実績に貢献している。なによりも毎日きちんと学校に来る。生徒が教諭を区別して接しかたを変えるなら、教諭が生徒を区別してはならない道理はないだろう? ……それにお前は、中学時代にいろいろと問題を起こしていたと聞いている。警戒するのが当然だ」

「それ誰から聞いたの?」

「…………」

「答えないんだ」

 ニナの表情が戻った。

「言えてる。優等生と不良、どっちにも同じ顔してたらそれはそれで問題だもんね」

 いつものようにニコニコと張り付けたような笑みを浮かべていたニナだったが、次の瞬間、

「それにしても……相変わらず外面がいいんだなぁ、あの人は」

 どこか蔑んだような目で校舎を見やった。

「お姉ちゃんって教師からの評判は良いんだよね、昔から。中身はえげつないのに」

 唾棄するように言い放ったニナの眼はとても鋭い。

 こいつの心の中がわからない。姉が忘れ物をしたので学校に来たと言っていたはずなのに、姉を語るニナの目は家族に対するものに見えない。

 困惑するあたしの腕を、ニナが掴む。

「ほら、行こう?」

 校門を抜けるとき、背後から嘆息が聞こえた。

「……どうしてウチの生徒はこう、面倒な奴が多いんだ」

 好きで面倒になったわけじゃない。



「なんのつもり? あんたの真意はなんなの?」

 駅までの道を歩きながら、あたしはニナに問いかけた。思えばニナとの会話の起点があたしになったのは初めてだったかもしれない。そして――。

「べつに」

 ニナがあたしとの対話を明確に拒否したのも、これが初めてだった。

「これはぼくの問題だから。或瀬には関係ない」

「あたしの問題には首つっこんでくるくせに」

 無論、あたしからの反駁も初めてだっただろう。

 ニナはその場に立ち止まり、息を吸い込んで苛立たし気に呟いた。

「お姉ちゃんは紛れもない家族だ。でもお姉ちゃんの人間性は大嫌い。これでいい?」

 言い捨てて、ふたたび歩を進めるニナ。それ以上の回答は得られそうになかったので、無言のまま後をついていった。サポーターに守られたまま一歩ずつ踏み出す自分の足を眺めながら、どうして嫌っていたはずのニナを追っているのかを考える。

 決まっている。行く先がひとつしかないからだ。

 ならば、ニナはどうして同じ場所に向かっているのだろう?

「……お姉ちゃんは共依存を良しとする。当事者が幸せならそれでいいって考えかたを隠そうともしない。どこまでも個人主義なんだ」

 やがて訥々と語り始める。あたしはそのまま聞き入った。

「だから他人の再生を望まない。人間は堕落するもので、悲観したり、妥協したり、依存したりすることでしか本能的な幸せは得られないって本気で思ってる。でも……ぼくは違う。人間がそれまで被っていた皮を脱ぎ捨てて、新しい姿に進化する瞬間こそが美しいと思う」

 ニナはそう言いながら、あたしに向き直った。

「過去の自分から脱却したとして、それで当人が結果的に不幸になっても、それは結果論でしかない。停滞していない状態はすべて進歩なんだ。脱皮できない蛇は滅びるんだよ」

 普段の飄々とした立ち居振る舞いからは想像できない、危うい光を孕んだ視線であたしを見据える。胸の内に沸き上がった感情は『恐怖』だった。

「……前に聞いたかもしれないけれど、もう一度聞かせて」

 恐る恐る、あたしは問いかけた。

「どうしてあたしに付きまとうの」

「人が絶望を乗り越える瞬間を観察したいだけ」

 以前と同じような言葉を返される。しかし今回は続きがあった。

「或瀬は現状を脱却しようとしている。その瞬間を見逃したくないんだ」

「……あたしにはわからない。自分がなにをしたいのか。あんたがなにを言ってるのか。だいたい、いまのあたしはニナにとって醜い存在なんじゃないの?」

「どうして?」

「ずっと足を頼りに生きてきて、足にすがって、足が壊れて自分を見失って……それで繁華街をふらついてる。これはあんたの言う『停滞』じゃないの?」

「うん。違うよ」

 あまりの即答ぶりに面食らってしまった。

 なにも言えずにいると、ニナは笑顔を取り戻し、続けざまに口を開く。

「現実を受け入れられないから脱却しようとしている。でも方法がわからないからもがいている。結果として学生寮の外に出ている。そういうふうに見える」

「…………」

 言葉には表さなかったけれど、おそらく的中している。反論が出てこなかったから、あたしの奥底でニナの主張を受け入れているのかもしれない。

「人間は大人になるにつれて、届かない理想とか足りない現実を認識して苦しむ。でも世の中は、そういう自己を肯定して、受け入れたふりをして現状維持に走る。それを良しとする人はたくさんいて、結果として依存や服従が生まれる。それがぼくにとっての停滞なんだ」

「……じゃあ、あたしはどうすればいいと思う? ニナの考えを聞かせてほしい」

「それは嫌だ」

 ぴしゃりと言い切られてしまった。

「ぼくの思想を或瀬に植え付けることで、もしかしたら或瀬がぼくに依存してしまうかもしれない。お姉ちゃんと同じになるのは嫌だ」

 やがて歩みが止まり、いつもの光景が目の前に広がる。

 駅前。人混み。喧騒。電飾で彩られ、白光が目を焼くゲームセンター。

「で、或瀬。今日はなにして遊ぶ?」



 今日もパズルゲームの筐体の前に腰かけた。ニナも当然のように隣へ腰を落ち着ける。

 はじめてこの場所に来た日を思い出す。

 膝のギプスが取れてサポーターに切り替わったころ、競技者としての復帰を目指すため、自らに歩行練習を課していた。無理なく歩ける範囲を徐々に広げていって、膝に痛みが出たらすぐにやめて患部を冷やす(アイシング)。ひたすらに反復した。

 経過は良好だった。けれど――ある一定の距離を歩くと、膝の皿が揺れるような、奇妙な感覚に襲われる。このままいけば、また足が壊れてしまうかもしれない。治りが遅くなるかもしれない。もう治らないかもしれない……そんなふうに不安が襲ってきて、その場から動けなくなってしまった。

 その地点こそが、このゲームセンター。

 平日の昼間から若い女がひとりで溶け込めて、その姿を見て注意する人間もいない。たまに自らの容姿を勘違いした中年男に下心丸出しで声を掛けられることもあるけれど、そういうやつはだいたいスマートフォンに顔を近づけて彼氏を呼び出すふりをすれば舌打ちをして逃げていく。恋人のいるいないは関係ない。面倒そうな女だと思わせればいいのだ。学校を聞かれれば大学生のふりをすればいい。もしも年齢がバレたら……そのとき考えればいい。

 あたしの時間は止まっている。

 まるで殻の中に閉じ込められたような閉塞感に、いつもさいなまれていた。

 だから――。

『今日はなにして遊ぶ?』

『或瀬って身体だけじゃなく頭も使えるんだね』

『復讐劇からしか得られない栄養素があるんだよ』

 心の底から楽しんでいるようなニナの反応を見ていると、とても辛かった。

 自分は楽観的になれない。すべてを捧げていたものを失ってしまったから。楽しさなんて微塵もない。感じ取るための心の余裕すら、とうに擦り切れて無くなっている。

 あたしは辛い。

 ニナは楽しそうだ。

 だからニナが嫌いだ――と、三段論法のように思い込んでいたけれど……。


 その論理の過程には、『ニナもまた別の葛藤を抱えていて、自分と同じように苦しんでいるかもしれないという可能性』が欠落している。


 ニナは、あたしが停滞した現実から脱却するのを心から望んでいて、結果として、あたしの現状に共感して、寄り添って、背中を押そうとしてくれているのだとしたら……?

「ねぇ或瀬、聞いてる?」

 気が付くと、目と鼻の先にニナの顔があった。

「――うわあッ!?」

 あまりにも至近距離だったので、思わず背後に飛び退く。

 対してニナはきょとんとした表情を浮かべ、「なにやってんの?」と笑った。

「ていうか、やっぱり聞いてないじゃん! 考えごと?」

「……いや、あの……えと……なんでもない」

「ごめん、今度はこっちが聞こえなかった。なんて言ったの?」

 煽られているわけではない。ゲームセンター内の騒音に遮られて、ただでさえ細いあたしの声がかき消されていた。

 意識すると、もうだめだ。

 ニナ……こいつ……。


 あたしのこと、気にかけてくれてただけ?


 やばいよ。

 やば。や、やばいよぉ……やばくない……? やばいしか言えないんだけど……。

 ていうか、なんでこいつずっとあたしに話しかけてきてくれたわけ? けっこうひどい態度とってたよね? 普通に「キッショ」とか、ほかにも「鬱陶しい」とか「なに考えてるかわかんない」とか言いまくってたよね? いや言いまくってはないか? でも言ったよね?

 なのにこいつ、ぜんぜん態度変えなかったし。

 毎日、隣に座って「今日はなにする?」って聞いてくるのも、いま思えばおかしい話だ。なにするって、パズルゲームの筐体の前に腰をおろしているのだからパズルゲームに決まっている。それなのに毎度同じことを聞いてくるのは、あたしが停滞から抜け出すのを待ってたから?

 頭の中でぐるぐるとさまざまな思考が巡って、頭の中に残ったのは――。

「……ニナの、好きなゲームを教えて」

 するとニナは、満面の笑みで「うん!」と答えた。あたしは赤くなっているだろう頬を隠して、先導するニナについていく。



 ニナは格闘ゲームの筐体の前に座った。あたしはその背後で眺める。コインの投入口に100円玉を押し込むと、キャラクターが威勢の良い声をあげて「俺を選べ」とアピールする。ニナは迷わずにカーソルを動かして使用キャラをセレクトすると、すぐに対戦が始まった。

「こういうのやるんだ?」

 声をかけると、ニナはディスプレイに集中しながら「んー」と気のない返事をする。

「現実では人を殴れないからね。殴ったらいけないし」

「へえ、意外」

「ぼくが人を殴らないのが?」

「暴力的な側面を持ってるのが」

「誰しも持ってるでしょ。みんなそれを表に出さないだけで」

 引き続き、ニナはゲームの画面に集中しながら口にする。心なしか普段よりも口調に抑揚がない。なにかに集中しているとほかに気が回らなくなるタイプなのだろうか。いや、人間ってそんなもんか……などと考えながら、いつしかニナの返事ひとつで一喜一憂している自分に驚いた。だめだ、意識しないようにしなきゃ。

「理性を纏った人間はすすんで危害を加えたりしない。『人を殴ったら相応の報いを受けるから』と学習する。起こりうる未来を想像して、理性によって行動の是非を決める。ぼくたちの日常は選択の連続で、常に間違わないように生きている。或瀬だってそうじゃないの?」

「そうかもしれないけど……でも、間違えないように、ただまっすぐ走ることだけを考えて生きてきた結果、あたしは進むべき道を見失った」

「倫理を見失っていないから葛藤していたんじゃないの? 精神の再興も、堕落も叶わなかった結果、なにをすればいいのかわからなくなって放浪していただけ。どちらにも傾いていないからこそ『選択』が可能になるんだよ」

 ニナの俊敏な操作に応えて、画面内のキャラクターが痛烈なコンボ技を繰り出す。全弾ヒット。相手はなすすべもなく崩れ落ちた。ヒットポイントは半分以上残っている。すぐにROUND2がスタートした。

「たまに『選択を誤った』という表現をする人がいるけれど、選択した時点でそれが過ちだったと気づくことはできない。すべては結果論で、進んでいる以上は停滞じゃない。ただし結果を類推することはできるから、たとえば進もうとしている道が『社会的に正しいのか』『倫理的に間違っていないか』という指標が与えられる。でも、そうした考えに至るためには教養が必要で、『選択を誤った』とされる人々にはそもそも検討するための情報が与えられていないことが多いよね」

 これだけ一気に話しながら、手と口が別々に動くことに感心する。ニナが器用なだけなのか、それとも本音だからこそすらすらと言葉が出てくるのか、そこが気になった。

「ずいぶん語るじゃん。まるでそういう現場を見てきたみたい」

「見てきたというか、ぼくがそうだったからね」

「…………」

 どう解釈したものか分からず口を閉ざしていると、補足するようにニナが先を続ける。

「ほら、実家はお姉ちゃんの天下だから。ぼくには居場所がなかったから」

 ほら、と言われても。

 あたしが固まっている間も、ニナはひっきりなしにスティックとボタンを操作してキャラクターを自在に操っていく。たちどころにふたたび繰り出される技。コンボの応酬。その後にとどめの一発を決めて、ふたたび画面上に『K.O.』の文字が表示された。

「後から考えれば、選択肢はいくつもあったんだ。ぼくも中学時代は勉強が得意だったから。ただ、それも自分の責任で崩れたけど。学校に行く理由もわからなくなったし」

「…………」

「中学生のころ、ぼくがなにしてたか知りたい?」

「……いや、いい」

 反射的に答えていた。拒絶とはまた違う。それを語らせることで、ニナを傷つける可能性があるのではないかという考えに至ったからだ。

 あたしの返答に、ニナは「だよね。或瀬はそういう人だと思った」と口にした。

 率直に表現すると、驚いている。

 はじめは、こんなやつどうでもいいと思っていたはずなのだけれど、ここにきてニナへの感情がジェットコースタ―のように激しく揺れ動いている。

 当然ながら、あたしはニナのことを深くは知らない。知ろうと思わなかったから。過去の自分に対して、別のベクトルの怒りが湧いた。いくらニナのことを鬱陶しいと思っていたとしても、なぜあたしに対して干渉してくるのか、その裏にどんなバックボーンがあるのかをもうすこし掘り下げておけばよかった。そうすれば、こんなふうに気持ちを揺さぶられることなんてなかったはずなのに。

 だから――。

「オイふざけんなよ! なんださっきの画面端ハメ! しかも再戦拒否しやがって!」

 憤怒をあらわにした形相で、筐体の前に座るニナに向けて声を荒らげるヤンキー集団の存在に気付くのがすこし遅れた。

「は……? え……?」

 この人がなにに対して怒っているのかわからない。あたしが格闘ゲームを知らなすぎるだけなんだけれど、ニナはあたしとしゃべりながら黙々と相手を葬り去っていただけだ。

 言葉を失くすあたしをよそに、ニナが挑発的に応じた。

「画面端ハメは仕様でしょ。マナーどうこうの話じゃないじゃん」

「うるせえなぁ! ごちゃごちゃめんどくせぇこと言いやがって!」

 なおも声を荒らげるヤンキー連中に対して、ニナは鼻で笑いながら臆することなく続ける。

「面倒なのはどっちなのさ。もうちょっと冷静になりなよ。負けて悔しいのは分かるけど、お兄さんの主張は完全なる言いがかりだよ? それに簡単に勝てちゃうとつまんないから弱い相手からの再戦を拒否するのは当たり前じゃん?」

 やばい。

 端々に専門用語らしきワードが頻出するせいで事態を100%把握できていないけれど、間違いなくニナがやばいことを言ったのはわかる。

「てめぇッ!」

 その証左として、いちばんはじめに因縁をつけてきたヤンキーは顔を茹蛸のように真っ赤にして――勢いよくニナの胸ぐらを掴み上げた。

「ニナ――ッ」

 しかし……相手の動きが一瞬、固まる。

 あたしも固まった。

 固く握られて皺の寄ったニナのシャツ。生地が引っ張られたことであらわになった腕や首筋、胸元に……無数の切り傷が見えた。

「……な……なんだコイツ……メンヘラかよ……?」

 やがて騒ぎを聞きつけた人々が周りに群がってくる。しかし誰も仲裁に入ろうとしない。道端に倒れている人を無視するような心理が働いているのかもしれない。半分くらいは。

 しかしこの場で最も重要だったのは、なおもニナが不敵に笑っていることだった。

「それがお兄さんたちの『選択』なんだね」

 相手の反応を待たず、ニナは先を続けた。

「平日の昼間に、集団で群れて、現実から目を背けながらゲームセンターに来て、格ゲーでたまたまマッチした対戦相手にボコボコにされて、自らの技術不足を嘆くでもなく誰が決めたわけでもないマナーを説いて対戦相手を集団で責めて、それでも相手が屈服しないから今度は直接手を出そうとしている。そういう人生を『選択』したんだね?」

 矢継ぎ早に出てくる言葉の数々。

 小柄なニナは半分宙に浮いているような状態だ。

「そういうの、好きだよ」

 それでも笑みを浮かべて口にした。

 口にしてしまった。

 たぶん、ニナの本心だと思っている。難しく考える必要はない。好きだと思ったから好きだと言った。ただそれだけ。客観的に見て間違っているとしても、それを自ら選んだというのならニナは無条件で受け入れてしまう。こいつの行動規範はそういうものだ。わずかなコミュニケーションの中で知覚した。

 しかしそこには足りていない――『相手がどう受け止めるか』という、コミュニケーションの根幹……相互理解が。

 あたしも気づくまで時間がかかった。だから、目の前で顔を真っ赤にしている相手に、通じるわけがない。

「――――――ッ」

 ヤンキーが無言で拳を握りしめ、振りかぶった。

 ニナが殴られる――。

 頭の中で『想像』する。ゴッ、という重たい打撃音。倒れ伏し、ピクリとも動かないニナ。逃げていく人々。取り押さえようとする人間なんてこの場にはいない。同調圧力によって『選択』できなくなった人々が、積極的に事態を解決しようと動くなど考えられない。

 こんな状況にありながら、あたしは過去に幾度も遭遇したシーンを思い浮かべていた。座席から飛び交う応援の声がピタリと止んで、クラウチングスタートの姿勢を取りながら、右足をスターティングブロックに載せている状態でピストルの発砲音を待つ。

 あとは、反射だった。


「――ぅぁぁぁぁああああああああッッッ!」


 夢中で叫びながらヤンキーに体当たりをして、よろけるニナの腕を引っ掴んで――。

「走れッ!」

 一目散に両足を前へ、交互に送り出す。

「或瀬――」

「いいから走れバカ!」

 さながら草原を駆けまわる野ウサギ。

 または、野原を走り抜けるカモシカ。

 あたしは身体中の筋肉に活を入れて、ひたすらに両足を躍動させる。

 走れ。走れ。走れ!

 右手にはニナの腕を引っ掴んだまま。

 まるで少女のように華奢な同級生の男子は、こんな危機的状況にありながらもケラケラと楽しそうに笑う。

 心の底から楽しそうに笑みを浮かべて、

「走れるじゃん!」

 あたしは間髪容れずに返す。

「こんなの! 走ってるうちに! 入らない!」

 さらにスピードを上げる。エスカレーターを駆け下りて、自動ドアにぶつかる勢いで出口に突っ込む。背後から追いすがるヤンキーが1階にたどり着いた音がした。怒号を振り払って屋外へ。ドアが開いて日光に照らされて湿度の高い風を浴びる。

 ニナが振り返って声を放った。

「はぁ……はぁ……っ! ばぁぁぁぁぁぁか!」

 まだ煽るのかこいつ!

「バカはお前だぁぁぁぁぁぁぁ!」

 さらにギアを上げる。ニナが遅れる。あたしは思い切り細い腕を引き寄せて叫んだ。

「挑発したら! また! あいつ! 追っかけてくるでしょ!」

「はぁ……ひぃ……っ!」

「喋れないくらい! 息切れしてるのに! 相手を! 煽るな!」

 途切れ途切れの言葉でニナをなじる。聞いていない。

「ほら! 人気のないところまで移動するから! ついてこい!」

「はぁ……はぁ……或瀬って……そんなふうに……命令する子だったっけ……」

「知らないッ!」

 すこし動いただけで滝のように汗が出ていた。制服の中に気化熱が溜まって暑苦しい。ブラのワイヤーがズレて皮膚が痛む。ひと言で表現すると――最高の気分だった。

 あたし、走れたんだ。

「膝、大丈夫?」

 歩きながら、呑気にニナが聞いてくる。整った小さな相貌が汗ばんでいて似合わない。

「……なんか大丈夫っぽい?」

 まあ、8割は治ってる的なことは医者も言ってたし。

 ……いや、違う。それはいいのだ。

 よくはないけど、いいのだ。もっと重要なことがある。

 ニナへの確認だ。

「あんたこそ……大丈夫なわけ?」

「なにが? 或瀬が助けてくれたじゃん」

「そうじゃなくて……」

 どうにも適切な単語が思い浮かばなくて、あたしは自らの首元を指さした。ニナの視線があたしの胸元へ向かう。そうじゃない、という意図を伝えるために今度はニナの肌を指し示すと、ようやく納得したように「あぁ」と呟いた。

「この傷のこと? 問題ないけど?」

 嘘でしょ……というあたしの言葉を、ニナは封じた。

「これは、ぼくが皮を脱ぎ捨てた証拠だから」

 つい先ほど、あたしはニナの過去を詮索しないと決めた。だから具体的になにがあったのか、なにをしていたのか、なにをされたのか……そういった疑問は些事と投げうって、現在のニナだけを視界に捉える。

 ただ、因縁を付けられてすぐに煽り返すくらい向こう見ずなところは心配の種になる。きっとニナの経験から来た行動だとは思うのだが、やはりそれは聞かない。

「もっと……」

 ほかにやりようがあったんじゃ……という言葉を、あたしはかろうじて飲み込んだ。きっと意味はないからだ。ニナの思考過程はあたしからすると特殊にもほどがあるけれど、こいつのなかで筋道が通ってしまっているのなら、もはやなにを言っても無駄になる。それに、『選択できない人々』の話を、あたしはニナから直接聞いてしまっているから。

「言っとくけど、自分の身体をもっと大事にしなさい――みたいなお説教はいらないからね? ぼくはこの傷痕のおかげで、なにかを『選択』する重要性を知った。この過程がなかったら、きっとお姉ちゃんに支配されたままつまらない人生を歩んでいた。ぼくはこれで脱皮すると同時に、お姉ちゃんが巻いた蜷局からも抜け出したんだよ」

 ついでに、けっこう稼げたよ……なんておちゃらけた言葉をニナは残したが、あたしの気分は晴れないままだった。

 でも、どうだろう。知ったところで、あたしの気持ちが変わるだろうか。

 否。変わり切ってしまっている。

「じゃあ……教えてほしい。どうして他人が再生する瞬間が好きなのか」

 あたしの質問に、ニナはまたしても即答した。

「再生は変化の象徴だから。そして、『選択』による変化じゃないと再生は起こり得ないから」

 やっぱり意味がわからない。

 けれど。

 わかりたい、とは思う。

 脱皮できない蛇は滅びる。

 だからあたしは『愛着』を捨てた。走ることへの愛着を。走ることで得た人生への執着を。

 しかし……どうやら『愛情』は生きているらしい。

 当然だ。初めて得た感情なのだから。

「ねぇニナ」

「なに?」

 きょとんとした表情で振り向くニナに、あたしは流れるように口にした。


「なんかあたし、あんたのこと好きっぽい」


 するとニナは「えぇ……」と何とも言えない顔をする。

 そしておとがいに手を当てながら中空を眺め、「うーん」と小首を傾げながら、

「でもぼく、彼氏としては0点かもしれないよ? 悪魔みたいな子だって言われるし」

「あたしには堕天使に見える」

 ややポエミーすぎるだろうか。顔が熱くなるのがわかる。

 一方、ニナは笑いながら口にした。

「キッショ」

 意趣返しのつもりだろうか。普通に傷つくんですけど。例の件は悪かったって。

 表情に出ていたのだろう、ニナは取り繕うように続けた。

「ちなみにそれは、或瀬の『選択』なの?」

「100%、あたしが選んだ」

「じゃあ――」

 ニナは、まるで朝の挨拶でも交わすかのように、さらりととんでもない提案をしてきた。

「とりあえず、下の名前で呼ぶところから始めてみる? ねえ、蘭?」

「――――」

 面食らう。

 次に、心の中に生まれたのは……どうしようもない多幸感だった。

 あたしは押し出されるように、ニナ……蜷川のファーストネームを口にした。

「紗(しゃ)弥(み)」

「よく誤読せずに言えました~」

 おどけるように拍手をする。あたしはというと、もう顔すら上げていられなくなってうつむいてしまった。掌で頬を押さえつけると、ひんやりとした感触が伝わってきた。恥ずかしい。

 けれどこいつは、あたしが思っているような人間じゃない。それはわかる。

 嬉しそうに声を出すのも、皮を剥いでむき出しの状態になっているのを純粋に喜んでいるだけ。でも、それでいい。

 深呼吸をして顔を上げると、ふたたび目が合う。

 あたしは一歩踏み出して、隣へ並び立つ。帰路を辿る。

 明日からどうするかは、また明日考えればいい。考えているうちは停滞じゃないのなら。


「ぼくが蘭を『選択』できるよう、次はそっちが頑張る番だよ?」


 さて……この謎めいた想い人を、どうやって振り向かせようか。


【了】