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理想と現実

新居のネット環境がまだ整っていない。
予定だと、来週にはネット回線が引かれる予定だったが年度末も関係してるのか、工事の予定が当初、聞いていた日にちよりも大幅にずれ込んだ。

今はレンタルWi-Fiを使っているが通信量制限があるため、YouTubeもアマゾンプライムも長時間、観れないのでDVDやBlu-rayを引っ張り出して観ている。

今、一番、観ているのが西部警察。
1979年から1984年にかけて放送されていた刑事もの。

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観たことがある人は分かると思うがとにかく派手。
この画像の背景も爆炎だし。

銃は撃ちまくるし車も爆発しまくり。
相棒のように推理する要素なんてない。

誰が悪者か一目瞭然なので容赦なく銃を撃ちまくっている。

今の刑事ものと比べると大雑把だけど、とにかく派手なので面白い。
子供の頃、再放送を観てハマった。
何年か前に買ったDVDをネット環境が整うまで繰り返し観ることになると思う。

母の知り合いの知り合いが西部警察が放送されていた当時、警察官で警察官採用試験の面接官をしていた。

当時はテレビの影響力が今の比じゃない時代。
西部警察に憧れて警察官を目指す人が多かったらしいが面接時に

「こいつ、西部警察観て警察官になろうと思ってるな」

って、人はすぐ分かったらしい。

西部警察の主演。
渡哲也演じる大門圭介部長刑事の一人称は“ 自分 ”

面接時、
「自分は」
と、一人称が“ 自分 ”と言う人は九分九厘、西部警察の影響を受けていると判断していたらしい。

西部警察で大門部長刑事が“ 自分 ”という一人称を使っていたのは役柄からくる設定であって実際の警察官は一人称に“ 自分 ”は使わない。

多くの社会人同様、“ 私 ”が一般的。
その人が面接を担当した際、“ 自分 ”という一人称を使う人は可能なら不採用にしたかったと言っていたそうだ。

当時も今も日本で犯罪者と警察官の追跡劇があった際、銃撃戦に発展するなんてことはほとんどない。

これを読んでくれている人も人生で一度でも銃撃戦を観た人なんてまずいないだろう。

実際の警察官の職務は西部警察のように派手じゃないし銃も訓練以外に撃つことなく退職する警察官の方が大半。
作中、犯人の取り調べで、
「お前がやったんだろう!吐け!こらぁ!」
犯人を殴る蹴るするが実際の警察で、そんなことしない。

やったら、とんでもないことになる。

でも、当時、
「自分もいつかは西部警察の刑事のようになりたい」
と、警察官になったものの実際の業務の地味さにギャップを感じ、
「警察官になってしたかったことは、こういう事じゃない」
と、思うのか短期間で退職する人が少なからずいたらしく警察学校で「西部警察は作り物。ドラマだ」から教えることもあったと言っていたそうだ。

どんなことも理想と現実には差がある。
目指す・憧れることの多くは光がさす目立つ部分で光が当たらない地味な部分は見ていても気付かないことが多い。

確かに西部警察は勧善懲悪で面白いけど、実際の日本の警察が西部警察ばりに銃撃戦してないことくらい、警察官採用試験に応募できる年齢だったら気付かないものなんだろうか。

「人は見たいものしか見ようとしない」

約2000年前の古代ローマの軍人であり政治家のユリウス・カエサルの言葉。

現代でも通用するこの言葉は、人の本質を突いた言葉なんだろう。

何事も理想を追うのは良いと思うが、同時に現実を確認することも大事なこと。

西部警察を観るたび、思ってしまう。

ジュースが飲みたいです('ω')ノ