ミラベルと魔法だらけの家【考察】
「ミラベルと魔法だらけの家」についての考察
今更ながら、録画したミラベルを初めて見て、どハマりしました。
自分と同じ考察があまりネットでは見かけなかったので、形にしようと思い立ってしまった感じです。
ミラベルとアルマのギフトとは?
ミラベルのギフト
ミラベルのギフトは、miraが「見る」という意味で、最後に発現させた扉に家族全員のモチーフが出現していることから「家族を(良く)見る」ギフトだと解釈しています。
家族を良く観て、家族関係を円滑にする為にカシータを操作する能力も合わせて持ち合わせる状態だと解釈しています。
つまり、「家族の持つギフトの性能強化」ギフト。
物語でも、誰よりも良く観察し、メンタルケアしながら、新たな能力の一面を開花させようとしています。イサベラがサボテンなどを扱い始めるのが分かりやすいですが、脳筋のルイーザが「強さより賢さ」と謳う部分、アントニオに動物の人形をプレゼントする部分などです。
こう考えると、この物語は、勇者(アルマ)が後方支援系の主人公(ミラべル)をパーティーから追い出すものの、過ちに気づき、再度迎える「なろう系」の部分があるとも言えます。
「ギフトが無くても良い」というメッセージだから、ミラベルのギフトについて論じるのは無粋だ、とするきらいもありますが、私はギフトというものは、人それぞれ持っていてそれが目に見えて社会に役に立つ特異性の高いギフトでは無くても、視点を変えて注目すれば、輝かしいギフトを誰もが持っている、というメッセージだと捉えています。
アルマのギフト
アルマのギフトは(alma「魂」「養う」)、ペドロの魂を受け継ぎ魔法の力で、山と家(カシータ)により閉鎖的で安全な空間を作り、外敵から家族を守るギフトであり、その象徴があの蝋燭であったと考えられます。
アルマに「能力を付与するギフトは備わっていない」と考えた方が自然です。その場合、アルマが亡き後はマドリガル家はギフトを授からない事になってしまいます。ペドロの決死の想いと、アルマの家族への想いに応えてくれた神の恩恵が、三世代で終了するような、ケチくさいとものとは考えられません。
ギフトの元と、その性質
カシータの動力となるギフトは誰が持っているのか?
ギフトは神(蝶)の恩恵で「マドリガル家に所属した子供に授けられる」とする方が自然です。
ギフトはペパやブルーノなどに代表されるように、個人の精神状態に左右される設定です。年齢により、力が弱まる事もあり得るでしょう。
年々アルマのギフトである家の維持能力は落ちており、実はミラベルがカシータの維持の半分くらいを無自覚に担っていた、と考えると、比較的腑に落ちる設定となります。
例:アントニオがギフトを授かった時(家族写真に入れなかった時)、ミラベルの精神的負荷が大きくなりすぎて、カシーナが崩壊しかける。
例:全崩壊した際は、アルマとミラベルが全面対立し、精神崩壊状態。
例:復活した際は、主にミラベルの能力により、カシーナが維持されている
ミラベルにギフトが発現しなかった理由
正確にはギフトはあったのに、5歳の時にはミラベルの扉が消えて、ギフトが発現しなかった(ように見えた)理由は、
①開ける扉が間違っていたから
②アルマの能力と被る為(=発現すべき時期ではなかった為)
③ミラベルと家族の精神的な成熟が必要であったため
の3つがあると解釈しています。
①ミラベル以外は独立系の能力であったため、アルマからそれぞれの部屋が与えられ、各自の部屋にギフトの象徴が発現しています。したがって、新しい各人の部屋を開けるときに、その部屋に発現する。
しかし、ミラベルの能力は家族それぞれの支援系であり、玄関(家全体)の扉を開ける必要があった。
②カシータは家族の比喩でもあります。アルマが少人数で移住してきた時は、外敵から生きる為の能力を村人のために使うべき時代で、それがうまく成立していました。
しかし、現在はアルマの独裁政治のようになり、村のために家族は自由なく働かされ、政略結婚をさせられ、家族が幸せではない状態になってしまいます。
外敵がいた時代ではなく、平和になった現代では、親が押し付ける役割・期待に沿って、家族や村のために子供が努力するしか選択肢のない時代は終わり、各自が自由に、才能の有無に関係なく、好きな事をする時代だ、という事が物語で表現したいことの一つでしょう。
したがって、本人含め、家族がそれを自覚していない状態では、ギフトは発現しない、と説明できます。
また、カシータは現状アルマの能力で維持されているため、5歳の時点では発現する必要がないとも言えます。ただ、いつかは誰かがアルマのカシータ維持能力を引き継がないと、不便であることは変わりありません。それがミラベルであり、引き継いだ瞬間が本作に描かれています。
③最後にドアノブにミラベル自身が写っているシーンで、Abre los ojos 「目を開けて」とアルマに言われる事と、ブルーノに「君こそが奇跡」と言われるシーンが印象的です。カシータの能力を引き継ぎ、奇跡を与えられた家族をまとめる役割を課される人物に必要なのは、家族を強く想う気もちであるとして良いでしょう。5歳のミラベルには、神にとって、それが不足していた、さらに次の新しい家族の形はそれぞれを尊重できる家族の形であるため、それを受け入れる家族側も準備不足であった。魔法第一主義で、発現しなかったミラベルを阻害するような家族になってしまっては、神もギフトを与える気がなくなってしまいます。
ミラベルの能力の根源である「見る」ギフトは、その後も他人のギフトを羨んで見てばかりいた為、家族を心から強く大切に想う気持ちに欠け、自分を見つめる事ができず、自信を持つ事ができなかった。(あの家庭内では当然ですが)
内省まででき、アルマの心情まで推しはかれるようになって初めて、ギフトが遅咲きした、とも解釈できます。
5歳の時点では、家族の本質が見えていなかったが、作中の歩み寄りにより、理解が深まり、「見える」ようになったために、ギフトを発現することができた、と解釈することも可能ではあります。
魔法が一旦使えなくなった理由
そもそも魔法が与えられた経緯として、ペドロとアルマの家族を守りたいという強い思いから、神が手を差し伸べた、と考えるのが自然なストーリーです。
しかし、ギフトに固執するあまり、家族をないがしろにして、ギフトを持たないミラベルを排除しようともしていたアルマを筆頭とした一部の家族に対し、「それは違う」と神が教えを与えるべく、魔法を一旦とりあげた、と捉えるのが自然ではないでしょうか。
と、同時に、アルマのギフトに年齢的限界がきていた、アルマの理想の家族像では、ハッピーにならない世界に移り変わってしまった、という設定とも捉えることができます。
この映画の主題は、世代交代(保守的な家父長制から、個人主義・自由主義)と、その上での家族の尊さだと考えています。
・「才能を持つ者は、その才能を余す事なく社会に還元すべきだ」という固定観念や家族の見栄にとらわれず、才能を使うも使わないも個人の自由、好きに生きよう。
・社会的評価よりも、各自の情熱を、家族はそれを尊重してあげよう。(奇跡は与えられた才能(魔法)ではなく、「家族があること」そのものであることを、見直す)
・家族が壊れても、家族一人一人を大切に想う気持ちを思い出せば、再建できる。
序盤のアルマのセリフに「each new generation must keep the miracle burning」とあります。それにBurnout(燃え尽き症候群)、Bruno, no, no, no.がかかっているのは有名な話のようです。
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