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【書評】永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

 一

 本書のタイトルは『水中の哲学者たち』である。「哲学者たち」というと、本書は古今東西の哲学者たちの紹介本のように思われるかもしれない。
 確かに本書では、著者が影響を受けた哲学者たちの名が引かれる。とくに、著者が哲学を志したきっかけであるサルトルの名は頻繁に登場し、著者とサルトルとの対話が思索の基底をなしている。
 しかし、本書における「哲学者たち」は、そのような「えらいひと」(八五頁)とイコールではない。「哲学者たち」とは主に、著者が哲学対話を重ねるなかで出会った市井のひとびとである。本書では学校で哲学対話を行った際のエピソードがいくつも紹介されているとおり、著者が出会ったひとびとの多くは子どもたちである。

 二

 市井のひとびと、とりわけ子どもたちが「哲学者たち」であるとはどういうことか。哲学者とは、分厚い本を片手に、専門用語を用いて、難解な議論をする研究者のことを言うのではないか。
 この点に関し、著者は哲学を二つに分ける。
 一方は、「空高く飛翔し、高みから世界を裁断し、整然とまとめあげるような大哲学」である。先に述べた、難解な議論をする哲学者のイメージはこの「大哲学」に属する。
 他方は、自分自身の問いをもとに「世界に根差しながら世界を見つめて考えること」である。著者は後者の哲学を「手のひらサイズの哲学」と呼ぶ(五頁)。本書に登場する「哲学者たち」は、自分で「手のひらサイズ」の問いを立て、ああでもないこうでもないと対話を繰り広げる。
 いくら「手のひらサイズの哲学」とはいえ、市井のひとびとを「哲学者たち」と言うのはいささか大げさに思われるかもしれない。しかし、著者がファシリテーターを務める哲学対話の場では、市井のひとびとはあっという間に「哲学者たち」になってしまう。著者は言う。

「観念論、実在論、唯名論。私はそんな言葉を知っているけど、まだ彼らを見つけてはいない。でも、哲学対話をしていて、興奮した小学生の口から、大きな目をした友だちの口から、眠そうな先輩の口から、見知らぬ大人の口から、ふとこぼれた言葉に、プラトンやヘーゲル、デリダの姿を見つけることができる。」(二一五頁)

永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

 市井のひとびとは、「手のひらサイズ」の問いから出発して、「大哲学」が空高く飛翔して捉えようとした世界との関係を少しずつ深めていく。それを可能にするのが、哲学対話なのだ。

 三

 哲学対話とは何だろうか。著者によれば「哲学的なテーマについて、ひとと一緒にじっくり考え、聴き合うというもの」である(一七頁)。そして、著者は、何かを考えることを水中に潜ることにたとえ、「哲学対話は、ひとと一緒に考えるから、みんなで潜る」ことだと言う(一八頁)。
 水中に潜って考えることは、ひとりでもできる。だが、ひとりでの思索は、苦痛に満ちたものになりがちだ。考えることは苦しむことなのだろうか。必ずしもそうではない、と著者は言う。

「だがもしかしたらその苦しみの原因は、考えることじゃなくて、孤立にあるのかもしれない。・・・ひとりで水中を彷徨えば、いつかは行き詰まり、苦しくなる。そしてその苦しみを、問いの深淵さと取り違えるときもある。」(六九頁)
「わからなさに立ち向かうことは、大きな海の中で立ち泳ぎをつづけるみたいなものだ。ひとりはさみしいけど、ひとと溺れることはちょっと心強くて笑える。」(二一八頁)

永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

 このように、先の哲学対話の定義のなかで重要なのは、「ひとと一緒に」という要素である。ひとりでは問うことの厳しさに耐えられなかったとしても、「ひとと一緒」であれば問い続けることができる。

「哲学は何も教えない。哲学は手を差し伸べない。ただ、異なる声を聞け、と言う。」(七〇頁)

永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

 四

 もっとも、ことばや考えを他者と交換すれば、それが直ちに哲学対話になるわけではない。哲学「対話」と言うからには、ことばや考えの交換が「対話」でなければならない。
 ここでいう対話は、議論と区別される。議論とは、時間をかければ一定の結論にたどり着きうるという前提に立ち、異なる意見をぶつけあう営みである。これに対し、対話とは、他者とはわかりあえないという前提に立ち、それでもなお他者とわかりあおうとして考えを伝えたり聴いたりする営みである。
 著者は「対話というのはおそろしい行為だ」と言う。

「他者に何かを伝えようとすることは、離れた相手のところまで勢いをつけて跳ぶようなものだ。たっぷりと助走をつけて、勢いよくジャンプしないと相手には届かない。あなたとわたしの間には、大きくて深い隔たりがある。だから、他者に何かを伝えることはリスクでもある。跳躍の失敗は、そのまま転倒を意味する。」(二九頁)

永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

 哲学対話は他者とはわかりあえないという前提に立つから、自分の考えが他者に受け入れられる保障はなく、対話に終わりもない。自分の考えを伝えようとする者は、常に転倒のリスクを冒すことになる。

 五

 他者とはわかりあえないという前提に立つのであれば、いくら自分の考えを伝えても、リスクばかりで何の意味もないのだろうか。そうではない。哲学対話の参加者は、「変わることをおそれない」ことが求められる(九二頁)。著者は言う。

「哲学対話は、ケアである。セラピーという意味ではない。気を払うという意味でのケアである。哲学は知をケアする。真理をケアする。そして、他者の考えを聞くわたし自身をケアする。立場を変えることをおそれる、そのわたしをケアする。あなたの考えをケアする。その意味で、哲学対話は闘技場ではあり得ない。」(九七頁)

永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

 参加者が「変わることをおそれない」ことによって、自分の考えを伝えた者も、他者の考えに触発されて変わろうとする者も互いにケアされ、参加者は水中により深く潜ることができる。こうして参加者は真理に近づいていく。対話を通じて真理に近づいていく過程は、すなわち弁証法である。

「弁証法は、異なる意見を前にして、自暴自棄に自身の意見を捨て去ることではない。ただ単に違いを確かめて、自分の輪郭を浮かび上がらせるのでもない。異なる意見を引き受けて、さらに考えを刷新することだ。」(九八頁)
「弁証法の場では、わたしは取るに足らないちっぽけな存在ではなく、真理に貢献するひととして扱われる。真理に近づくため、必要な存在となる。」(同上)

永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

 わかりあうことができないとしても、考えを自分の言葉で伝えることは決して無意味ではない。哲学対話は、ひとりでは潜ることができない深淵に、わたしたちを連れて行ってくれるかもしれないのだ。

 六

 著者が実践する哲学対話は、見たことも聞いたこともないほどに新奇なものではない。むしろ、古代ギリシャ以来の哲学のメインストリートに立つ老舗である。にもかかわらず、その新鮮さに心を奪われてしまうのは、わたしたちが言葉を奪われて久しいからだろうか。
 二一世紀に入り、わたしたちの社会は言葉によるコミュニケーションを重視することにした。不文律ではなく成文法が、人の支配ではなく法の支配が「この国のかたち」となることが目指された。わたしたちひとりひとりが議論に参加し、自律的存在となるべく、司法制度改革等が実行された(司法制度改革審議会意見書)。
 わたしは、改革の方向性自体を否定するつもりはない。しかし、改革から約二〇年が経過した現在、わたしたちの社会は、改革が目指した方向とは真逆に進んでいるように思われる。ごく一握りの権力者が言葉を独占し、わたしたちを分断させ、他律的存在へ貶めている。著者がある小学校での哲学対話で出会った子どもは、著者に「いいんだよ、はやく言って。言っちゃいなよ、答え!」と言った。著者は、彼の言動から、「常に誰かの答えがあり、それを問われるだけという学校生活や彼の日常」に対する「深い絶望」を読み取る(六五頁)。言葉を奪われ、他律的存在として子ども時代を過ごすことを強いられる、小さな犠牲者の姿がそこにある。
 何が間違っていたのだろうか。ひとつには、議論という営みに対する理解があまりに粗雑であったことが挙げられよう。他者の声を抑え込み、大声で黒を白と言い続ければ議論に勝てるという浅はかな思い込みが、社会全体を支配している。議論の場でひとは意見をぶつけあうが、その目的は相手を屈服させることではなく、全員が了解しうる一定の結論に至ることである。そんなことも知らなかったのかと言いたくなるが、それが現実である。
 では、わたしたちはどこからやりなおすべきか。正統な議論を学び直すところから始めるか。しかし、わたしたちにはもう、議論に立ち返るほどの気力は残されていないかもしれない。「この国のかたち」を議論するための言葉は、奪い尽くされてしまった。もう手遅れなのか。
 そうではない、と著者は言うだろう。自分自身で問いを立て、「手のひらサイズの哲学」をテーマに対話をすること。もたもたと言葉を重ね、みんなで耳を澄ますこと。哲学対話こそ、わたしたちが奪われた言葉を取り戻し、つながりを回復するためのもっとも有効な処方箋だ。

 七

 二〇二二年一二月、わたしは著者がファシリテーターを務める哲学対話に参加した。著者は、ひとつひとつの言葉をはじめて聴いたかのような驚きをもって受け止め、よく聴き、よく話し、そしてよく笑っていた。対話を終えると、ぱたぱたと次の場所へ出かけて行った。著者は、今日もどこかの水中に、誰かと一緒に潜っていることだろう。
 少し長くなるが、最後に著者の祈りの言葉を引き、拙稿を締めくくる。

「わたしは祈る。どうか、考えるということが、まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。それらが見せてくれる世界は、甘い甘い夢だ。いつか、その甘さはわたしたちを息苦しい湿度の中で窒息させる。
 誰かが話す。わたしが応答する。あるひとが問う。誰かが応答する。それに触発されて、また誰かが話す。わたしが考える。わたしたちが考える。
 まばゆく、わかりにくく、不安定な自由。世界に傷つけられ、世界に笑われ、世界に呼びかけられ、世界とともに、わたしたちは考える。ちっぽけで祝福に満ちた自由のために、わたしたちは考える。」(一二五頁~一二六頁)

永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

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