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第十三章 横浜 ふ頭で二人 霧笛が遠くで泣いていた

この物語はフィクションです。登場する団体、名称、人物等は実在のものとは関係ありません。


赤線とはー
性風俗の混乱を恐れた国が慰安所として許可を出した特殊飲食店街。半ば公認で売春が行われ、警察の地図に赤い線で囲ったため、赤線と呼ばれた。ー


―横浜―

 車窓に見慣れた街の風景が映って来た。久しぶりの横浜である。午後四時三十一分、定刻通り「きりしま」が駅に着くと、浜やんは虎之介とマリたちを旅館に直行させ、自分は別のタクシーに乗り込んだ。
 これから職業安定所に向かうのだ。ちゃっかり、失業保険をもらう為である。職安に行くと事務所の机には職を求める失業船員たちの履歴書が山と積まれていた。

 担当職員に訳を告げると
「ちょうど横浜市内のサルベージ会社に人員の空きが出たんですよ。明日そこへ面接に行ってくれませんか」
と言われた。

 浜やん、サルベージ会社など全く興味はなかったが働く意志を示さなければ、失業保険はもらえないのだ。
 翌日、サルベージ会社にいくと人事の担当者が応対した。

「あなた外航の経験ありますね」

「ええ、ありますよ」

「ちょうど今、欠員が出来ちゃって…良かったですよ」

 担当者はすぐにでも決めてもらいたいような口ぶりだった。浜やんは焦った。ここに就職する訳にはいかないのだ。なにせ、まだ旅の途中である。わざと自信なさそうに答えた。

「でも、あんまり仕事出来ないですよ」

「大丈夫ですよ。うちはサルベージ会社ですから。専門家がいますから。体は丈夫そうだし、仕事でわからないことがあったら先輩たちに聞きゃあいいし…」

 担当の職員は早速港に行って、キャプテンの面接を受けて欲しいと言った。形勢はますます不利である。が、職安の斡旋で来た以上、途中で帰る訳にはいかない。ちゃんと面接試験を受けて、落ちなければならないのだ。
 港にはキャプテンらしき男が浜やんを待っていた。浜やんは、わざとぶっきらぼうに挨拶した。

「俺よぁ、浜野っていうんだ。ここに行けっていうから来てやったよ」

「あなたですか。さっき会社から電話があって待っていたんですよ」

「誰だよ。ここでいちばん偉いのは?」

男はムッとした表情で浜やんの顔をジロジロ見ていたが気を取り直して

「まぁ、こちらへどうぞ」

と彼を船の中に招き入れた。浜やんは以前貨物船でどんな仕事をやっていたのかなどの質問を受けたが終始乱暴な口の利き方で通した。
 ひととおり面接が終わるとキャプテンが紙に何かをメモし、それを封筒に入れて浜やんに手渡した。

「これ、本社に持って行って下さい」

「エッ、又、本社に行くのかよ。おたくの方で送ってくれよ、伝書鳩かなんかでさ」

「伝書鳩?」

「俺はさ、とにかく受かったのか、落ちたのか聞きゃいいんだから。受かったなら、本社に行くし、落ちたならこれで帰るし…鳩いないの?鳩」

 キャプテンがみるみるうちに顔をこわばらせ、ついに堪忍袋の緒を切った。

「そんなモンいる訳ねぇだろう。鳩なんかいねぇ。カモメならいっぱいいるけどよ。じゃあ、ここでハッキリ言っていいのか」

「ああ、いいよ」

「断る!」

「あっ、そう。それでいいや。ところで、今日来た分の賃金払ってくれるの?」

「何だって、今日の賃金?」

 ああ言えばこう言う、したたかな浜やんにキャプテンは怒り心頭だった。こうして浜やんは見事、面接試験に落ち、交通費までせしめてしまった。浜やんの作戦勝ちである。
 職種をいとわず、働きたい失業船員たちからすれば、なんとももったいない話だ。実際、巷には失業船員が溢れていた。職安の近くにあった海員組合にも、より良い条件を求めて職に就きたい人たちが頻繁に出入りしていた。組合に行けば船会社の募集状況や、どんな船がいつ頃港に着くのかがわかる。皆、情報を求めるのに必死だったのである。
 反面、組合の幹部には甘い汁を吸っている者もいた。要領のいい船乗りたちがいい仕事を斡旋してもらいたい為に野毛や伊勢佐木町のキャバレーで幹部たちの接待をするのだ。幹部に頼めば、情報は正確な上にいい船に乗ることが出来る。

 船員たちの憧れは外国船だった。なかでもアメリカの貨物船B・C・ジョンソン号は人気があった。一ドルが三百六十円前後だ。給料がめっぽう良かったのである
 B・C・ジョンソン号は殆どの場合一年契約だった為、内地には一年間帰れないが、皆、この船に乗りたい為に競って宴会が持たれていた。そのくらいの出費は後で十分採算が取れるのだった。

 その夜、浜やんは皆を誘って中華街に行った。街の入口には、完成して間もない初代の「善隣門」(当時は牌楼門と呼んでいた)がそびえ、通りの両側には五十軒前後の中華料理店が立ち並び、極彩色のネオンが輝いている。
昭和二十年の横浜大空襲で焼失した街は、昭和二十五年の朝鮮戦争で港からの米軍兵士の輸送や大桟橋の客船の出入りが増え、中華街に流れ込む人たちで活気を取り戻していた。

 中華街は昔、ヤクザの親分によく連れて来てもらった街だ。野毛の町で靴磨きをしていた小学生当時、ヤクザの親分は実の兄貴のように浜やんを可愛がってくれた。腹を空かせた浜やんをリンカーンのコンバーチブルに乗せ、中華街に来て炒飯をおごってくれたのである。
 ヤクザの親分は抗争で既に亡くなっていたが、浜やんにとって中華街は横浜の中でもいちばん好きな街だ。ヤクザの親分とのいい思い出もさることながら、日本の中で一大中国社会を築いている華僑たちの活気が街に溢れている。コックたちが料理に腕を振るうフライパンの熱気がそのまま街全体に溢れているようで、その熱気を吸い取り、浮き浮きさせてくれる魅力がこの街にはあった。「白手起家」(裸一貫で巨額の財産をつくる)華僑特有の努力と粘りで隆盛を築いた街のエネルギーが充満していた。

 この夜も浜やんは好物の炒飯を注文した。テーブルには他のメンバーたちが注文した炒め物や麺類、そしてシュウマイなどが並び、皆、箸休めをする暇もなくたらふく食べた。
 食事後、マリと一緒に港の方へ歩いて行った。横浜独特の深い霧があたりに立ち込めている。その霧を縫って、オレンジ色のライトが交錯するふ頭には数隻の貨物船が停泊していた。

「マリ、ここが俺の職場だったとこだよ」

「夜のふ頭って初めて見るけど、綺麗ね」

「あぁ、今夜はちょっとガスってるけどな」

「ねえ、小さい頃から船に乗ろうって思ってたの」

「親父が外国航路で客船のチーフエンジニアやってたんだよ。親父の船が横浜へ入ると迎えに来て…憧れだったんだ。で、俺もいつか船乗りになるんだって」

「兄弟は何人?」

「五人。でも戦争で二人死んじゃった。残ったのは姉ちゃんと妹と俺だけ。姉ちゃんはアメ公と出来ていたから、殆ど家にはいねぇしな」

「ふぅん。大変なんだ」

「いや、そうでもねえさ…。俺、姉ちゃんには女の子には優しくしなって、やかましく言われているんだ」

「だからか…私には優しくしてくれているもんね」

「そう言われると照れるぜ。…ところでマリは長野だろ生まれたの。家の人はどんな仕事しているの」

「農家」

「母ちゃんどんな人だよ」

「すごく気が短いんだ」

「へぇー。暴れんのか、すぐ」

「暴れはしないけどさ。お茶入れても私が愚図だから」

「おまえ愚図だよなぁ。わかるよ母ちゃん怒るの」

「田舎じゃね、私、皆にいい子だって言われてたんだ…だってさ、どんなに嫌いな人でも小遣いなんかくれるとちゃんと挨拶したし。でも本当は全然いい子じゃなかったんだ。家にいるの嫌だったし…」

「ふぅん。でも本当の気持ちなんて誰にもわかりゃしねえよ。俺もワルだったし…」

「丈二は今でもワルそうだよ。パッと見た感じね」

「おう、おう 言ってくれるじゃねえか」

 マリはあまり家のことを話したくないのか、話題を変えた。

「ねえ、丈二、今のこと止めたらどうするの」

「船に乗るさ」

「…私のことはどう考えてるの」

 マリは以前から気になっていたことを聞いた。鹿児島に行った時も確かめようとは思ったのだが、横浜に帰って来てから将来のことをゆっくり話そうということになっていたのだ。
 浜やんは一瞬、返答に困った。
マリの将来のことを考えてはいない訳ではなかったが、マリ自身から突然切り出されたので戸惑ってしまった。

「どう考えてるって…。好きだよ」

答えになっていないと思いながらマリの横顔をチラッと見た。マリはしばらく黙って海を見つめていたが振り返って、
「ありがとう」
と言った。

「あたしも丈二のこと好きだよ。丈二って悪い人じゃないよ。でも、あたしは信用するけど、世間じゃ信用しないよ。初めはやっぱり怖かったもん。何か愚連隊の人みたいで…だけど今は違うよ。いい人だっていうのが私にはよくわかる。自分が疲れていたって、いつも仲間のことを心配してくれるし、凄いよ。それに全然知らない人でも荷物持ってやったり、タバコ投げ捨てないし…立ちションもしないし…何か食べた後は、やあ、うまかったって必ず言うし…でも本当はこんなこといつまでも…」

 マリは言葉を詰まらせた。赤線荒らしの危険な旅は早く辞めたいのだ。マリの顔を覗き込むと頬を小刻みに震わせ泣いている。
 浜やんは胸が熱くなった。

「…マリ、俺たち結婚式挙げようか」

突然、浜やんが切り出した。マリが驚いた表情で振り向いた。
〝確かなもの〟が結婚かどうかはわからなかったが、流されて行くことに疑問を持ち始めていたマリにとっては嬉しい言葉だった。

「結婚って…丈二、本当にそう思っているの」

「ああ、本気だ。俺はマリとずっと一緒にいたい」

 マリの心をつなぎ止める為に言ったのではなかった。金が貯まったら今の旅を切り上げて将来はマリと家庭を持ちたい。そして又、船乗りに戻る…それが彼の本心だった。

「何処か旅の途中でよ。適当な場所があったら式挙げちまおうぜ」

「…嬉しいわ。ありがとう。でも…うまくいくの」

「絶対、大丈夫だ。何もかもうまくいくよ」

 浜やんはマリを強く抱きしめ、そっと涙を拭ってやった。二人はこの夜初めて、結婚という将来の夢とお互いの本当の気持ちを確かめ合った。

続き > 第十四章 渋谷のレストラン 追っ手か、あわや銃弾が!
―東京・渋谷ー

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参考文献

兼松佐知子(昭和62年)『閉じられた履歴書 新宿・性を売る女達の30年』朝日新聞社

木村聡(写真・文)(平成10年)『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』 自由国民社

木村聡(写真・文)(平成14年)『赤線跡を歩く 続・消えゆく夢の街を訪ねて2』自由国民社

澤地 久枝(昭和55年)『ぬくもりのある旅』文藝春秋

清水一行(平成8年)『赤線物語』 角川書店

新吉原女子保健組合(編)・関根弘(編)(昭和48年)『明るい谷間 赤線従業婦の手記 復刻版』土曜美術社

菅原幸助(昭和62年)『CHINA TOWN変貌する横浜中華街』株式会社洋泉社

『旅行の手帖(No・20)』(昭和30年5月号) 自由国民社

 ※近代庶民生活誌14 色街・遊郭(パート2)南 博  三一書房(平成5年6月)

名古屋市中村区制十五周年記念協賛会(編)(昭和28年)『中村区市』(名古屋市)中村区制十五周年記念協賛会

日本国有鉄道監修『時刻表(昭和30年)』日本交通公社

日本遊覧社(編)・渡辺豪(編) (昭和5年)『全国遊郭案内』日本遊覧社

広岡敬一(写真・文)(平成13年)『昭和色街美人帖』自由国民社

※戦後・性風俗年表(昭和20年~昭和33年)

毎日新聞出版平成史編集室(平成元年)『昭和史全記録』 毎日新聞社

松川二郎(昭和4年)『全国花街めぐり』誠文堂

森崎和江(平成28年)『からゆきさん 異国に売られた少女たち』朝日新聞出版

山崎朋子(平成20年)『サンダカン八番娼館』文藝春秋

吉見周子(昭和59年)『売娼の社会史』雄山閣出版

渡辺寛(昭和30年)『全国女性街ガイド』 季節風書店

大矢雅弘(平成30年)『「からゆきさん=海外売春婦」像を打ち消す〈https://webronza.asahi.com/national/articles/2018041300006.html〉令和2年12月14日アクセス 朝日新聞デジタル

※参考文献の他に物語の舞台となっている地などで、話を聞いた情報も入れています。取材にご協力いただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

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