第十二章 酔った社長が隣席に「日本はこれから…」
この物語はフィクションです。登場する団体、名称、人物等は実在のものとは関係ありません。
赤線とはー
性風俗の混乱を恐れた国が慰安所として許可を出した特殊飲食店街。半ば公認で売春が行われ、警察の地図に赤い線で囲ったため、赤線と呼ばれた。ー
―急行「きりしま」の車中・博多・門司・下関―
急行「きりしま」はこの後、主要な駅では博多、門司を経過して関門トンネルを渡り、広島、大阪と進む。本州に入るまでは気を抜けないのだ。特に赤線を欺いてまだ間もない博多にさしかかる時は要注意だと思っていた。なんとなくではあったがまだ見張られているようで嫌だったのである。
虎之介とちか子は空いている席を見つけ、浜やんたちと離れて座っていた。
だが、追っ手を警戒するよりも先程の店が本当にヤクザの店だったのかどうかが心配らしい。
乗客の目を気にしながら浜やんに聞きに来た。
「どうだった、浜。やっぱり極道だったろう」
「おめえの言った通り、極道だよあれ。ヤクザもんだ。でも、ちか子がうまくタイミングとってくれてよ。外へ出たらちょうどタクシーが通りかかって…もしものことがあったらヤバイからよ。店の女一人連れて出たんだ」
「…店の女」
「敵の女連れてりゃ。ヤバイ時に人質にとれるじゃん」
浜やんが口から出任せの嘘を言って。虎之介を驚かせた。
「おめえ、相変わらず頭いいな。それで」
「映画館の前で巻いちゃったよ。だから時間かかっちゃったんだ」
「なるほどな」
浜やんは面白半分に話をでっち上げていたのではない。かなりおっちょこちょいの虎之介のことだ。この先、本物のヤクザの看板がかかっていても
「ありゃ飲食組合の看板だ」
などと言い出しかねない。例え仲間であろうと嘘も方便である。虎之介はすっかり信じ込んでいる。
「いやぁ俺もな、相手が相手だろう。浜一人じゃ心もとないと思ってよ。助けに行こうかと思ってたんだよ。なんせ、只者じゃねえからな」
「ヤバイと思って、慎重にやったさ」
ひとしきり喋った後、虎之介は又、席を離れていった。
久留米からおよそ一時間、急行「きりしま」が十八時五十七分に博多駅に着いた。要警戒の駅である。しかも発車まで十三分間もあるのだ。博多の店の主を騙して、金を巻き上げたのは十日程前のことだ。取り越し苦労かなとも思ったが逃れの身としては何処でどんな網を張られているのか、やはり気になって仕方がない。
浜やんと虎之介はいつものように離れて通路に立ち、乗り込んで来る乗客の表情をシラミつぶしに目配りしていた。
博多からは結構大勢の乗客が乗って来て、空いている座席に腰を下ろした。
ひととおり乗り終えても発車までにはまだ時間があったので浜やんはホームに降りた。顔を見られないよう、うつむき加減にタバコの火をつけ、後から乗り込んで来る乗客の様子を目で追った。
ホームの人影が殆ど消え、発車する間際に浜やんは又、電車に飛び乗った。
たまたま空いている座席に一人で座り、動き出した車内の様子に目を凝らしていると突然、隣に中年の男が座り込んで来た。
浜やんは一瞬身構えたがよく見ると男は赤ら顔で酒に酔っており、袖がほつれた背広にくたびれたネクタイをしていた。
手には外国産のウイスキーを持っている。
男が浜やんに声をかけてきた。
「どちらまでですか」
酔ってはいるものの、きちんとした標準語に少し安心した。
「俺?、横浜までです」
「まぁ、いっぱいどうぞ…」
「いや、飲みたくねえんだ」
「そうおっしゃらず、どうですか」
浜やんは眠たかったので、わざとぶっきらぼうに答えたが男はしつこくウイスキーを勧め、少し経つと食堂車に誘って来た。
「お腹も空いて来たし、良かったら飯でも食べに行きませんか」
―ほぅら来た!だいたい、まとまった金を持っているとこんな奴がなぜか、たかりに来るのだ。
男は見た感じ、あまり金など持っていないようだ。
少し腹も減っていたので、食堂車に付き合う為、しぶしぶ席を立った。この様子を虎之介とマリが盗み見ていたが、彼らの心配を浜やんは目で制した。
食堂車に行くと男は酔った勢いもあってか、料理を手当たり次第に注文した。
―この野郎、これ全部俺が払うのか?
テーブルに運ばれて来た料理を男はせっせと口に運んでいる。
「どうぞ!遠慮しないで食べて下さい」
―どうぞ、って言ったって、そんなに食べられるもんじゃねぇぜ。
男が上着を脱いで窓のところにかけ、トイレに立った。浜やんはすかさず立ち上がって内ポケットをチラッと見た。分厚い財布とむき出しになった何枚かの札束が見えた。
―おっ、こりゃ安全パイだ。
席に戻って来た男に今度は浜やんが語りかけた。
「何ですねえ。男同士ってのもたまにはいいもんですねぇ」
先程までの態度とはうって変わって、丁寧な口調だ。
「おっ、やっと元気になりましたな。そうそう、そういうことなんです」
「旅は道連れ世は情けってね。こうやって一緒に食事をするのも何かの縁で素晴らしいやねえ。お姐さん、ビールじゃんじゃん持って来てよ」
「ところで、どんな商売やってんの?」
「私は有楽町でアイスクリームを作っているんですよ」
「有楽町って、数寄屋橋があるところだろ」
「よくご存知で…」
「今度寄って下さい。アイスクリームならいくらでもありますから」
「いらねえよ。そんなに食えるもんじゃねえしよ」
「失礼ですがどんなお仕事を…」
そう言われて浜やん、ハタと困った。いくら何でも闇稼業のことは言えない。
「セーラーですよ。船乗り」
「ああ、そうですか。すると海外なんかにも行くんでしょ」
「ええ、年中です。貨物船に乗っているもんで、東南アジアとかアドリア海の先とか…外航ばっかりです」
「いいですねぇ。海を見ながら年中旅しているようなもんだ」
「仕事だからのんびりも出来ないけど、俺、海と女が飯より好きだから」
「ハッハッハッ女ですか。そっちの方は私は駄目ですが、実は私も港町が好きで暇を見つけてはこうやって旅してるんです。旅先で安くて旨い魚を食べるのが楽しみで」
結局、勘定は男が払った。男はアイスクリーム製造会社の社長だった。食堂車を出ると二人は又同じ座席に戻った。
「私はね、あなたが乗っているのを見た時から、何かこう話して見たいと思っていたんですよ。話が合いそうな気がして…どうも普通の人間じゃないような…かといって渡世人でもなさそうだし、思っていた通り話してみると面白い人だ。
…私は会社じゃ、大勢の人を使ってるんですがね。どいつもこいつもおべんちゃらばかり使って。こうやって列車にガタンゴトン揺られて旅するのがいちばんの楽しみなんですよ」
男は、ひとしきり社員たちの愚痴をこぼすと急に真顔になった。
「日本はこれから先、ますます景気が良くなっていきますよ。いつまでも戦争に負けた負けたって言ってる時代じゃない。考えてみりゃ面白いもんだ。戦争で負けて丸裸になった日本が、お隣の朝鮮戦争で特需景気が始まった為に、また景気がぶり返して戦争で肥ってきたんですからね」
男の言うように戦後の混乱期を引きずった経済は大きく変わろうとしていた。
高度経済成長のツチ音が日本中に響き始めていたのだ。白黒テレビや電気洗濯機、冷蔵庫などの家庭電化製品が三種の神器と呼ばれ爆発的に普及した。日本は神武景気と呼ばれる大型景気を迎えたのである。
翌、三十一年の経済白書は「もはや戦後ではない。今後の成長は近代化によって支えられる」と謳い、鉄鋼や造船、自動車、電気などの工場が各地に立ち並び、景気は幾分変動しつつも高度経済成長の波に乗ったのである。
男が浜やんの肩をポーンと叩いた。
「これからの日本を背負って立つのはあなたたち若い人です。若い血潮を燃やして、男だったら一つ、でかいことやって下さいよ。どう見ても平凡な人生歩みそうじゃないし、あなたは何かやりそうだ」
「いや、こりゃどうもお褒めに預かって…こういうのゆきずりって言うんだよね」
「ゆきずりか。アッハッハッハッ」
急行「きりしま」が関門トンネルを通過し、本州に入った。
男は
「港をぶらぶらして行きます」
と言って、下関で降りた。
再び動き出した車内で、浜やんは男の話を思い浮かべていた。
―確かに俺は今、平凡な道じゃなく、イバラの道を逃げまくっている。
世の中の景気なんて俺にゃ関係ねぇ。
結局この夜も逃亡者たちを脅かす不測の事態は起きなかった。浜やんたちは寝台で、疲れた体を休ませた。
岡山を過ぎて姫路に向かっている頃、車内に朝陽が射し込んで来た。急行「きりしま」は大阪、京都、名古屋と終点の東京を目指してばく進していた。
続き > 第十三章 横浜 ふ頭で二人 霧笛が遠くで泣いていた
―横浜―
参考文献
兼松佐知子(昭和62年)『閉じられた履歴書 新宿・性を売る女達の30年』朝日新聞社
木村聡(写真・文)(平成10年)『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』 自由国民社
木村聡(写真・文)(平成14年)『赤線跡を歩く 続・消えゆく夢の街を訪ねて2』自由国民社
澤地 久枝(昭和55年)『ぬくもりのある旅』文藝春秋
清水一行(平成8年)『赤線物語』 角川書店
新吉原女子保健組合(編)・関根弘(編)(昭和48年)『明るい谷間 赤線従業婦の手記 復刻版』土曜美術社
菅原幸助(昭和62年)『CHINA TOWN変貌する横浜中華街』株式会社洋泉社
『旅行の手帖(No・20)』(昭和30年5月号) 自由国民社
※近代庶民生活誌14 色街・遊郭(パート2)南 博 三一書房(平成5年6月)
名古屋市中村区制十五周年記念協賛会(編)(昭和28年)『中村区市』(名古屋市)中村区制十五周年記念協賛会
日本国有鉄道監修『時刻表(昭和30年)』日本交通公社
日本遊覧社(編)・渡辺豪(編) (昭和5年)『全国遊郭案内』日本遊覧社
広岡敬一(写真・文)(平成13年)『昭和色街美人帖』自由国民社
※戦後・性風俗年表(昭和20年~昭和33年)
毎日新聞出版平成史編集室(平成元年)『昭和史全記録』 毎日新聞社
松川二郎(昭和4年)『全国花街めぐり』誠文堂
森崎和江(平成28年)『からゆきさん 異国に売られた少女たち』朝日新聞出版
山崎朋子(平成20年)『サンダカン八番娼館』文藝春秋
吉見周子(昭和59年)『売娼の社会史』雄山閣出版
渡辺寛(昭和30年)『全国女性街ガイド』 季節風書店
大矢雅弘(平成30年)『「からゆきさん=海外売春婦」像を打ち消す〈https://webronza.asahi.com/national/articles/2018041300006.html〉令和2年12月14日アクセス 朝日新聞デジタル
※参考文献の他に物語の舞台となっている地などで、話を聞いた情報も入れています。取材にご協力いただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。
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