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第八章 不満爆発!眠れぬ夜に…ドスとヒロポンと(後編)

この物語はフィクションです。登場する団体、名称、人物等は実在のものとは関係ありません。


赤線とはー
性風俗の混乱を恐れた国が慰安所として許可を出した特殊飲食店街。半ば公認で売春が行われ、警察の地図に赤い線で囲ったため、赤線と呼ばれた。ー


―博多―

 ―場合によっちゃ、使うはめになるかも知れねえ。

 本当はこの計画には拳銃を一丁用意するはずだった。馴染みの船員仲間に頼めば拳銃の密輸など簡単に出来る。沖合に停まる貨物船の中で受け渡しをすれば税関の目を難なくごまかせた。だが船員を突然クビになってしまい、拳銃を用意する時間も金もなかった。頼りになるのはこのドスだけだ。

 バックにはもう一つ大切なものが入っていた。注射器が何本も入った紙箱である。ヒロポンという覚せい剤だ。浜やんはこのところヒロポンを打つ回数が増えていた。あまり打つと中毒患者になることはわかっているのだが、気分が良くなるのでつい打ってしまうのだ。
 ヒロポンは戦時中、政府が軍需工場の作業員や特攻隊員らに支給した。特攻隊員は士気を高める『突撃錠』としてお茶の粉末に混ぜ、出陣前に飲んだという。
 戦後は巷に蔓し、昭和二十六年に覚せい剤取締法の公布で製造や販売が規制されたが、昭和二十九年、摘発者は全国で五万五千人にも達し、戦後最大のピークに達していた。注射器が十本入って八十一円五十銭だったが、この昭和三十年当時も品不足で百円以上の値がつき、闇に流れていた。

 浜やんは船乗り時代からヒロポンを打っていた。重労働の船旅で体がくたくたに疲れ切っている時など、ヒロポンを打つとまるで別人のように気分がスカッとした。以来、やめるにやめられず、いつも持ち歩くようになっていたのだ。ヒロポンを使っていた仲間も多かった。
 マリが軽い寝息を立てている。浜やんはマリを覗き込み、寝入っているのを確認すると箱に入っている注射器を一本取り出した。その注射器を窓から漏れてくる薄明かりにかざし左の腕をまくった。そして注射器を右手の人指し指と中指で挟み、針先を腕に刺した。チクッとした痛みがあったが注射器内の液体を親指でぐいと押し込んだ。
彼の腕には何カ所か注射痕があった。

 博多の赤線街で、その名を誇ったのは新柳町である。那珂川に日が落ちる頃になると絢爛豪華な店のネオンがひときわ鮮やかな光を放ち、八十軒近くの店で夜の化粧を整えた六百五十人前後の娼婦が色香を競っていた。

 ♪博多柳町、柳はないが女郎の姿がやなぎ腰

と唄われたこの街はかつては女性器品評会まで開かれ、名器の色里として粋人たちがうつつを抜かしていた。

 浜やんと虎之介は狙う店を物色していたが、さすがにこの赤線街は敷居が高い。タクシーを拾って運転手に聞くと港の方にも店があると教えてくれた。軒数としては新柳町より多い百二十軒程、だが格は新柳町より落ちるという。浜やんたちにとっては逆におあつらえ向きだ。
 運転手に案内されるまま通りを行くとそこは大浜の赤線街だった。二人は例によって別々に分かれ、狙う店を探し始めた。が、いつの間にか虎之介の姿がない。

 浜やんは通りをぶらぶらした後で、ある食堂に入って行った。奥のテーブルに女と向かい合ってビールを飲んでいる男がいた。虎之介だった。虎之介はこっちに背を向け女と話すのに夢中で浜やんには気づいていない。
 浜やんはビールを飲みながら、しばらくの間、虎之介と女の会話に耳を傾けていた。

「泊まってもいいんだ。だけど、もう一人、連れがいてよ」

 女は虎之介の腕をさすりながら、「おいでない」と誘っている。
虎之介はすっかりいい気分だ。

「そうしちまうか。いくらだ、ここは?」

「ふっふっふ。安くしとくわ、お客さんだったら」

 どうやら通りで娼婦を拾い、食堂に誘ったようだ。その女が虎之介にしなだれかかっている。虎之介もすっかりその気になっていた。

 ―あのバカ、本当に泊まっちゃうかも知れねえぞ。調子に乗りやがって。

 浜やんはビールを飲み干すと虎之介に聞こえるように食堂の女主人に向かって、わざと大声を出した。

「俺、気が変わった。もう少し後で来るわ」

「あら、もうお帰り?」

「あぁ、友達と待ち合わせているんだ。もう時間だから後で来るよ」

さらに虎之介に聞こえるよう、わざと大声を出した。

「遅れるとヤバイんだよ」

 浜やんの声に気づいた虎之介がハッと後ろを振り返った。びっくりしている様子だ。
浜やんが店を出ると虎之介が慌ててスッ飛んで来た。二人は海辺の道を歩き始めた。

「浜、おめえも人が悪いよなぁ。あの女、いい女だったのによ」

「ダメだよ虎、勝手な行動は。固いこと言いたくないけどな」

「わかっているよ。そう怒るなよ」

 目の前に玄界灘が広がっている。夕日が海面を染め、二、三隻の船が長い波の糸をゆったりと曵いていた。

「浜、対馬へ行くか。いいとこらしいぞ。ここからそんなに時間もかかんねえし」

「だっておまえ、行く船あるのか?密輸船ぐらいしかないんじゃないか」

「ここから巡航船が一日に一便出ているらしいよ」

 虎之介は先程の女に対馬のことを聞いたらしい。得意げに話している。

「一日に一便だったら、まずいだろ。『本日は欠航します』なんてことになったら、どうやって逃げて来るんだ。俺たち、あの世に直行じゃんか」

「そんなことありっこねぇじゃん。俺は稼げると思うけどなぁ」

「稼げるって言ったって…おまえ、俺たちゃ攻撃ばかりしてちゃダメなの、わかっているだろ。逃げること考えなきゃ。そっちの方が大事なんだぜ」

「なんだよ、気に入らんかい」

虎之介が語気を荒げた。

「怒ったっておまえ、万が一逃げる船がなくなったらどうするんだ。対馬からこの海泳いで来る訳にゃいかねえだろ」

「…わかったよ。おまえの話聞いてると頭にぐらぐら来らぁ」

「頭に血が上ったら、海にでも飛び込んで冷やして来い」

「何だと」

 虎之介が凄んで、浜やんを睨みつけた。浜やんも睨み返し、一触即発の状態になった。二人共殴り合いになるかどうかの流儀は心得ている。キャプテンの自覚からか、浜やんが先に視線をはずしてやった。

「虎、よーく考えろ。旅に出る前に言ったじゃねえか。一人でも反対したり、考えが合わなくなったら、この計画はその時点でやめようって。それだけは絶対に守んねえとな。命がいくつあっても足りねえよ。対馬なんかより、この辺でやった方が安全だよ。どこの店もあんまり用心してねえみたいだから。狙う店は行き当たりばったりで俺が決めるから。明日やるぞ」

虎之介はしぶしぶ納得した。

続き > 第九章 店の主人が…「もっとおなごを集めんか」(前編)
―博多―

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参考文献

兼松佐知子(昭和62年)『閉じられた履歴書 新宿・性を売る女達の30年』朝日新聞社

木村聡(写真・文)(平成10年)『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』 自由国民社

木村聡(写真・文)(平成14年)『赤線跡を歩く 続・消えゆく夢の街を訪ねて2』自由国民社

澤地 久枝(昭和55年)『ぬくもりのある旅』文藝春秋

清水一行(平成8年)『赤線物語』 角川書店

新吉原女子保健組合(編)・関根弘(編)(昭和48年)『明るい谷間 赤線従業婦の手記 復刻版』土曜美術社

菅原幸助(昭和62年)『CHINA TOWN変貌する横浜中華街』株式会社洋泉社

『旅行の手帖(No・20)』(昭和30年5月号) 自由国民社

 ※近代庶民生活誌14 色街・遊郭(パート2)南 博  三一書房(平成5年6月)

名古屋市中村区制十五周年記念協賛会(編)(昭和28年)『中村区市』(名古屋市)中村区制十五周年記念協賛会

日本国有鉄道監修『時刻表(昭和30年)』日本交通公社

日本遊覧社(編)・渡辺豪(編) (昭和5年)『全国遊郭案内』日本遊覧社

広岡敬一(写真・文)(平成13年)『昭和色街美人帖』自由国民社

※戦後・性風俗年表(昭和20年~昭和33年)

毎日新聞出版平成史編集室(平成元年)『昭和史全記録』 毎日新聞社

松川二郎(昭和4年)『全国花街めぐり』誠文堂

森崎和江(平成28年)『からゆきさん 異国に売られた少女たち』朝日新聞出版

山崎朋子(平成20年)『サンダカン八番娼館』文藝春秋

吉見周子(昭和59年)『売娼の社会史』雄山閣出版

渡辺寛(昭和30年)『全国女性街ガイド』 季節風書店

大矢雅弘(平成30年)『「からゆきさん=海外売春婦」像を打ち消す〈https://webronza.asahi.com/national/articles/2018041300006.html〉令和2年12月14日アクセス 朝日新聞デジタル

※参考文献の他に物語の舞台となっている地などで、話を聞いた情報も入れています。取材にご協力いただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

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