筆者が生まれ育った関西の田舎の話

これまで何度か述べてきたが、筆者は関西の郊外(田舎)で生まれた。
途中で海外にも行ったが、心はこの田舎にあると言っても良い。
東京に来てからびっくりしたのは、世の中には結構な割合でずっと都会で育った人間がいるということだ。
文章だけでその風景を伝えるのは難しいが、今回は関西の田舎の生活がどのようなものであったのかを記載してみたい。

1.公立小中学校の学力

全国共通の学力テストを知っているわけではないので、正確にその学力レベルがどの程度であったのかを伝えるのは難しい。
ただ関西の郊外は決して教育熱心な地域ではない。
中学の同級生は180人ほどいたが、その中で大学に進学したのは、30人くらいであろうか。大学進学率は50%らしいが、本当か?と言う印象を抱いてしまう。
学年で一番内申点が良く優等生だとされていた女子学生の進学先が関関同立と言えばイメージがつくだろうか。(あくまで内申点)
一番学力の面で優秀な学生(筆者と友人)の進学先が東大と京大である。
田舎の学校から東大京大が出るのは快挙だったらしい。東大合格は中学創立以来初ということで、近所でもちょっと話題になっていたらしい。

学年20位より下になると、そこからはFランク大学に進学する学生が大半で、30位より下になるとそもそも大学には進学せず、高卒で働いたり専門学校に進学したりする。
筆者の学力はどうだったか?という話ではあるが、正直そこまで断トツとかそうレベルではなかった。正直公立中学レベルの問題は簡単すぎるので上の方ではあまり差がつかないのである。駿台模試レベルの模試を受験していたのであれば、かなり差がついていたはずだ。

小学校までは、(中学受験レベルでない限り)そこまで学力差はつかないが、中学校に進学して方程式や変数と言った概念が登場してくると、多くの学生がついていけなくなり、関数が登場するともう殆どの学生はドロップアウトしている。中学、高校の勉強と言うのは基本的に脱落式になっている。

2.普段の学校の様子

小学校の時は、筆者も特段勉強が出来るわけではなかった。そのため、皆と仲良くできるかと言う点に心底注力していた記憶がある。当時はカーストと言う言葉は存在しなかったが、薄っすらとそういったものは感じ取っていた。当然、筆者は多分二軍であった。
その地域では、野球と祭りが盛んであった。
基本的には、地元の少年野球のチームのメンバーと地元の祭りに参加しているメンバーのカーストが高かった。筆者はどちらにも参加していなかったので、カーストが上がりようがなかった。(祭りは部分的に参加して、はっぴを着て、掛け声を出していた)
小学校の時は、ドッジボールのうまさも大事であった。それが上手い生徒と言うのは、やはり地位が高かった記憶がある。
また阪神タイガースの話題はマストで、筆者もプロ野球名鑑を買い込み、選手の名前を暗記していた。筆者の家でも毎晩お茶の間を独占していたのは阪神タイガースのライブ中継だった。それくらい関西人の阪神タイガーズ愛は強いのである。

中学校に進学すると、恋愛しだす生徒も出てくる。筆者の中学校は自転車通学であったので、カップルは基本的に自転車を押して通学していた。
また近所の30分150円のカラオケボックスによく行っていた記憶がある。
筆者は、当然であるが彼女なんていなかったので、いつも男友達10人で帰宅していた。

中学に入ると小学校で野球と祭りに参加していた学生はヤンキーになり始める。タバコやバイクは当たり前で、近隣の中学校との抗争などもあった。なぜか学内に他の中学のヤンキー集団が乗り込んできて、殴り合いをしているみたいなシーンもあった。
これらのヤンキーに目を付けられると、いちゃもんを付けて殴られるので、筆者も振舞にはかなり気を付けていた。
中学でも相変わらず野球が盛んであったので、野球部の地位が高かった。甲子園が近くにあるからか、関西の少年野球のレベルはかなり高い。
意外と足の速さは、カーストには関係なかった。筆者は学年でヤンキーに次いで足が速く、運動会のリレー競争はヤンキー集団∔筆者のようなチーム編成であったが、筆者がチヤホヤされることは無かった。
やはり暴力性が一定程度必要なのだと思う。

3.放課後の遊び

放課後の遊びは、小学校も中学校も同じであった。
基本的にそれに参加しないといじめの対象になるので、参加せざるを得なかったし、普通に楽しかった。
遊びのメインどころは遊戯王とスマブラ、デュエルマスターズ辺りだろうか。ポケモンも大事だったかもしれない。
大体10人くらいの友人と毎日交代制で友人の家に集まり、そこで遊戯王大会が開催されていた。田舎の家なので、10人くらいが一堂に集まっても全く問題のない広さであった。多い時は20人くらいが集まっていた。

また天気が良い日には、近所の公園で野球をしたり、川で魚を釣ったり、山の中にある廃墟でかくれんぼをしたり、自転車で近所に出来たイオンに遊びに行っていた。
途中からは、前述したカラオケに行く機会も増えた。
多分365日中、250日は友人たちとそのような遊びをしていたと思う。
これに加えて、筆者は中学校では運動系の部活もしていたので、体力的にはフラフラであった。

4.塾

当然ではあるが、鉄緑会もサピックスも近くになく、馬淵や浜学園などの少しメジャーな塾すら近所にない地域であったので、仕方なく関西の地場の塾に通学していた(実態はフランチャイズ経営で近所のおばちゃんが切り盛りしている)。ただここは思いのほかレベルが高く、前述した京大に進学した友人もここに通学していた。
筆者が在籍していた年度は、一番上のクラスの学生は例年になくレベルが高く、皆で受験を乗り切ろうといったスタイルであった。
ここで切磋琢磨したことで、筆者含めた数人は灘高校を受験できるレベルにまで仕上がった。
結果は惨敗であったが、この時の経験はのちの東大受験にもつながったので悪いものではなかった。
後から知ったのだが、灘高校には中学受験のリベンジ組も参戦していた一方で枠は40人程度しかなかったので中学から勉強を開始した一般人が合格出来る代物ではなかった。
前にも記載したことはあったかもしれないが、灘高校は、東大受験よりも難しいと思う。イメージとしては、阪大医学部より少し下程度の難易度はあったと思う。
大体勉強は塾の無い日は2時間くらいはしていた。ただどちらかと言うと、問題集を解いたりするのではなく、自分で数学の問題を作成して塾の友人と一緒に解き合ったりする等、創作的な勉強がこの頃は多かったかもしれない。

5.マイルドヤンキーの予後

マイルドヤンキーの予後は意外と悪くない。
先ほど述べたようなヤンキー集団は意外と高校を出た後、近所の小学校の体育教師になっていたり、地元のゴミ収集の作業員(公務員)になっていたりして、きちんと地元に貢献しているのである。
また地元の祭りや少年野球のコーチなども務めていたりする。
子供も20歳前後で生んでいる場合が多く、早い段階から子育てにも携わっているのである。30代になっても結婚も子育てもしていない東京の人は何か大事なものを忘れてしまっている気がしなくもない。

筆者が毎日一緒に自転車で通学していたマイルドヤンキーも高校で出来ちゃった結婚し、3児のパパとして近所の建設業で勤務しているらしい。
中古の戸建てであれば、1000万~1500万で購入できるような地域なので家に困るなんてことはない。何なら実家で3世帯で子育てしているところもある。
正直、地元を捨てて東京に一人出てきた筆者とどっちが良い人生なのだろうかと自問自答してしまう時がある。
東京では、何かとエリートやバリキャリが賞賛されるが、このような地元に根付いて確り地方を支えてくれる存在も忘れてはならないと思う。
最近では、わざわざ地方から東京に出てくるノンキャリの若者も多いと思うが、学歴が無い中で東京に出てきても養分になるだけである。東京はお金がないと主人公になることはできない場所だ。

7.お財布事情

当然であるが、この地域にエリサラなんてものは存在しない。
年収も決して高くはないだろう。世帯年収400万あればいい方なのではないか。
それでも近所で困窮している家庭なんてものは存在しなかった。
むしろ先祖代々からの土地を守っている家庭も多かったので、暮らし向きはかなり良かったと思う。
食べ物は地元の畑で取れた野菜を食べることも出来るし、家はそもそも前述した通りで激安である。困窮する方が難しい。
専業主婦家庭が多いし、働いていても近所のスーパーくらいであった。
そのため時間的、精神的な余裕も当然ある。
何というか東京と比較して気楽だった。

これは前にも記載したが、地元で一番の名士は近所の町医者だった。当然こんな田舎にいる医者なので、京大、阪大の医学部のようなエリ―ト医学部を出ているものではなく、筆者も聞いたことがないような医学部を卒業していた。偏差値を見ても早慶よりも低く、恐らく東京にいたらFランと言われても仕方ないようなところだ。東大卒が再受験したら、殆ど全員が合格するだろう。
だが、その暮らしぶりはとても良く、家は東京の一等地では買えない、買えたとしても10億は下らないといった広さで、外車も何台も並んでいた。また、地域の皆がその病院に集まるので地元住民から多大な尊敬を集めていた。医師免許の凄さは、理三卒の都会の医師ではなく、このような地方のどこにでもいそうな町医者が体現しているような気がする。

8.夢の国イオン

地元のイオンでは全てが完結した。
食事も買い物も映画も勉強も。
筆者の地元ではイオンが王として君臨しており、その町の住民は全員車でイオンに集結していた。中学生とか高校生の中には自転車でそこに向かうものもいたので、駐輪場はいつも満杯だった。
そのイオンは地元民にとても愛されており、今でもかなり繁盛している。

筆者の高校時代の勉強法はもっぱらイオンに行って参考書を眺めることであった。一番好きな問題集は、英語の「ポレポレ」と数学の「プラチカ」である。当時は外部から情報が入ってこなかったので、我流で参考書をひたすら解くという勉強法を行っていた。
とても効率は悪かったと思う。あとはひたすら学校の勉強をしていた。数学、英語、世界史はこれだけで乗り切れた。東大日本史だけは、予備校の授業がなければ乗り切れなかったと思う。(とは言え殆ど差がつかない科目なのだが)

筆者は今でもたまに地元に帰りたいと思うことが年に数回はある。年を経るほど馴染めなくなっていった地元であるが、小学生の時に皆で遊戯王をしたこと、山奥の廃墟で鬼ごっこをしたこと、自転車でイオンに向かって爆走した思い出、高台の展望台から見えるきれいな星空、部活で大会に出て皆と喜びを分かち合った経験、皆でテレビを囲みながら阪神タイガースを応援したこと等、今でも忘れられない思い出がたくさんある。
どちらかと言うと東京に出てきてからの方が無機質な日々を過ごしている気がする。
もし筆者が、帰国子女ではなく、英語が話せなかったら、塾から期待されることもなく、積極的に自分から勉強しようとはなっていなかったかもしれない。発達障害を抱えていて地元に残った場合はどんな人生だったのだろうか。意外と生活苦には陥っていないが、それはそれで苦しい人生だったと思う。
「英語」と「数学」のたった2科目が出来たことによって田舎生まれの筆者の人生は幾分変わったように思う。(良い方向にも悪い方向にも)

以上が筆者が育った地域の話である。正直東京とは色々違いすぎる。
こんな感じでのんびり育ったので、東京の競走社会は本当に厳しかった。関西にいた頃は子供だったのもあるかもしれないが、全般的に気楽だった。
実は競争社会の程度がそこまで高くないJTCにいる今が一番、東京に出てきてから精神の安寧が保たれているかもしれない。
地方(関西も含む)から東大に出て来た勢の予後があまり良くないのはこういった育ち方の違いも起因しているのかもしれない。人生の価値観が違い過ぎるような気がする。
いつかは地元に帰って、地域に貢献したいが、筆者が身に着けたブルシットジョブのスキルでは、一生かかっても地元には貢献出来なさそうである。