落ちこぼれ東大卒が考える人生のレールに乗ることの重要性

今回は、人生のレールに乗ることの重要性に関して考えたい。
まず大前提として、あくまで筆者の考えに過ぎないのだが、人生のレールに乗ることはとても重要であるし、またレールに乗った方が圧倒的に楽であるというのが筆者の主張である。
また逆に現在の日本では人生のレールから脱落することは激しい痛みと苦痛を伴うのでなるべく回避した方が良いというのも付け加えたい。



1.レールに乗った人生を定義する

人生のレールを一概に論じるのは難しいのだが、少し抽象的に書くと、
1.「概ね適切な年齢で適切な場所にいること」
2.「この道を進めばある程度どのような将来が待ち受けているのかを見通すことが出来る」
3.「そのポジションにいることで、社会的な信用が得られ、どこかに居場所を確保できる」
ようなポジションにあることを人生のレールに乗っていると定義したい。
ここでは敢えて具体的にどのような道が「人生のレールに乗っている」のかに関して言及することは避けたいが、概ね皆さんが想像するような人生プランであろう。

2.なぜレールに乗ることが重要なのか

人生のレールを外れることを推奨するようなネットの論調があるが、筆者は全く持ってこれをおススメしない。筆者自身は浪人や留年、社会人生活での挫折、転職等様々なドロップアウトを経験し、何度も人生のレールから外れたタイプの人間であるが、外れている瞬間が一番辛かったし、余暇も楽しむことが出来ず、結局人生で与えられた限りある時間を有効活用出来なかった。
「貧すれば鈍する」と言われたりするが、あれは本当だと考えており、少し拡大解釈すると何らかの要因で躓くとそれ以外の生活にも悪影響が及んでしまうという事であろう。次の進路が見えず、恐怖に苛まれている瞬間は脳のリソースがどうしてもそちらに取られてしまうので、思考力が鈍るし、アウトプットの質も下がってしまう。筆者の場合は、浪人中に抱いた社会から疎外されたような恐怖、経済学部を目指して一人で過ごした駒場時代に味わった恐怖や孤独そして社会人になってからもいつ梯子を外されるか分からないといった恐怖が筆者の脳そして心を壊し続けてきた。
医学部を目指して何度も浪人生活を送る受験生がいるが、あれは実は悪手なのではないかと言うのが色んな受験生を見てきて筆者が抱いた感想である。
とりあえず、一浪か二浪くらいでどこかの工学部に進学し、再受験と言う形で在学中に再受験する方が頭もよく働くし、大学でより進んだ数学や物理も勉強出来、また何より脳が恐怖から一時的に解放されるので結果的に良いパフォーマンスが出せるのではないか?と言うのがあくまで筆者個人としての持論である。これは会計士受験や司法試験も同じかもしれない。(とりあえずどちらも在学中に合格出来ればベストであるが)

その意味で、博士課程進学者等は強靭なメンタルを持っていると思う。
博士課程を出ても就職先や進路が無い可能性も十分にあると分かりながら、研究活動に従事できる時点で一種の才能だと思う。筆者であれば、きっと恐怖に怯える中で良いアウトプット(研究成果)を出せそうにない。
筆者は学生時代と社会人になってから、二度知能テストを受けているが、実は社会人になってからの方が遥かに高いスコアであったし、今の方が勉強していてもすんなり頭に入ってくることが多い。明確な原因は分からないが、学生時代の方が心配事も多く、そちらに脳のリソースが取られていたのではないかと考える。やはり心配事がない方が頭は冴えわたると思う。

普段の生活において、「明日とりあえず飯が食える、どこか居場所がある」ことの安心感は半端ない。何度も医師免許ばかりを例に挙げてしまい恐縮ではあるが、明日とりあえず禿げ上がった頭を観察したり、他人の脇を嗅いだり、脱毛前の契約書を朗読することで少なくともおいしい飯が食える、きちんとお風呂に入れる、社会的な身分が確定されるということがどれだけ価値があり、尊いことであるかということに多くの日本人は気づいていなさ過ぎる。
筆者は全然貧困家庭の出身というわけではなく、むしろ平均的な家庭で育ち、金銭的に苦労した訳ではないのだが、これまでの辛かった人生経験から、社会的身分つまり自分の座る椅子が明日も確実にあるという事実に普通の人の何倍もの価値を置いていると思う。
普通の凡人にとってはアップサイドを目指すよりもダウンサイドリスクを抑制することの方が何倍いや何十倍も価値があることだというのがあくまで筆者の持論である。
特に日本においては、レールから逸脱しないことの重要性はかなり高い。依然として労働市場の流動性は高くないし、また一度離職してしまうと、その「離職した」と言う事実だけで次の採用活動において決定的に不利になってしまうからだ。
都内のメンタルクリニックがあれだけ繁盛しており、初回の予約が困難なのはこの労働市場の途中退出の厳しさがあると思う。
一度脱落したら激しいペナルティーを食らうことになるので、労働者は何としてでも休職等の手段を講じて「さも自分は働き続けていましたよ」とアピールせざるを得ないのである。
そしてこれは女性の社会進出も妨げている要因でもあり、少子化にもつながってしまっている。また昨今医学部の男女比が5:5に近づく一方で一向に理工系の女性が増えないのにもこのことが背景にある。
ライフプランのためにこれだけ激しいペナルティーを食らうことになるのであれば、最初からそのような罰則が緩い医学部に進学しようと考えるのはある意味当然だし、自分が保護者であれば、間違いなくその選択を勧める。
たまに「女性は制度をハックしようとするから~」と言った発言を耳にすることがあるが、違うのである。日本の労働市場が途中退出に厳し過ぎることが背景にあるのだ。

こういった経験があるからこそ、筆者は解雇規制に守られ、滅多なことではクビにならないJTCで時に心を殺しながら、文字通り「ライス」と「人生のレールから脱落しない」ために日々、普通の心健やかな人生を送ってきた人であれば忌避するようなブルシット・ジョブに従事してきた。
日々このブルシット・ジョブが筆者のライスに変わると考えると、むしろブルシット・ジョブに感謝の気持ちさえ湧いてくる。「ああ、このブルシット・ジョブのおかげで筆者は飯が食えるんだな」と。ブルシット・ジョブありがとうって。

3.憧れる人生や仕事の在り方


次に筆者が憧れるタイプの人種を挙げてみたい。それはアップサイドを享受しているタイプの人間よりも、ダウンサイドが限定され、無理に働かなくても良い待遇を享受できるような椅子に座っているタイプの人間であり、筆者はそのような人種に対して強烈な羨望を抱いてしまう。
まず新卒で入った会社には、特段苦労もなく内部進学で大学に進み、そのまま就活で筆者が入社したJTCに入ってきた同期が何人もいたが、彼らのことが心底羨ましかった。
当然内部進学であるので、浪人もしていないし留年もしていない。いや逆にする局面に陥っていないだろう。彼らの持つ瞳には、少しも濁ったところが無く、とてもナイスガイばかりで、東大にこんな奴いたっけ?と言うのが率直な筆者の感想であった。特段競争に晒されず、人生で大きな失敗をしていない人はこんなにも一緒にいて気分が良いものなのかと当時は感じた次第だ。それと比較すると同じ都内出身者であってもどうしても東大生・卒はどこかひねくれているし、それは京大とか一橋の学生も同じであった。
京大はまだ純朴そうだが、一橋の学生は明らかに競争的な感じがした。(あくまで偏見です)
大体慶応とか早稲田とかMarchの内部進学者であったのだが、本当に皆ナイスガイばかりであった。当然肩書はとても綺麗で、筆者はそれだけであの時受験等はせず、高校から大学までエスカレーター式で大学に行けるところに行っておけば、、、、と何度も後悔した。そうしておけば高校時代に部活にもっと打ち込めたかもしれないし、きっと浪人も留年もすることなく、周りと歩調を合わせて社会人になることが出来たのになあと考えたこともあった。(まあ、筆者がこのルートを辿っていれば、新卒で入社した会社にはきっと引っかかっていなかったが)
私が今受験生を抱えているのであれば、間違いなく中学受験や高校受験で大学の付属校に行かせると思う。正直、自分のような苦労はさせたくない。
苦労は買ってでもせよと言う言葉があるが、人格形成の観点では、やはり受験での失敗とかレールからの逸脱はデメリットしかないと思うのだ。

次に憧れるのが、新卒でプラチナ優良資本集約型企業に入り、特段苦労せずとも好待遇を享受できているようなタイプである。
これは22~24(院卒であれば26までか)の人生の限られた期間に就職活動を行い、人生で特段大きな失敗をしていない人間のみが手にすることが出来る特等席である。
代表的な例としては総合商社や不動産デベロッパー、金融のマーケットインフラ系などが挙げられる。(但しフロントではなく、あくまでコーポレート部門に所属していることが条件で、海外駐在もないようなコースを想定したい)
特にフルリモート、フレックス、有給は消化し放題、残業は今月ゼロ近かったとか、暇すぎて在宅中何もしていない等と聞くと本当に羨ましくてしょうがなくなる。逆に何かを仕事で達成したと聞いても「そうなんだ、良かったね」くらいの感想しか出なかった。(ちなみにあくまで筆者の意見であり、世の中の大半の人は筆者と逆の感想を抱くという事は重々承知している)
なぜ自分はその「特等席」に座ることが出来なかったのだろうかと考えてしまうことも多い。従前の記事でも書いた通りで、転職活動の際にはどうしたらそのような「特等席」に座れるだろうかと言ったことに脳内が支配されていた。

そして最後が、前述したような何かしらの国家資格を有しており、明日の飯の種を心配しなくても良いタイプである。これはここで敢えてここで言及する必要は無いだろう。

4.東大生・卒はレールに乗った人生ではないかのか?

最後に東大生・卒ってレールに乗った人生ではないの?という疑問が上がるかもしれない。
筆者の答えはNoであり、そしてその理由はその都度で要求される能力が異なる、つまり毎回異なるタイプの競技に参加しないといけないからである。
社会人前半までで考えてもパッとこれだけ必要な能力は多岐に亘る。

東大受験:ペーパーテスト試験能力
進学振り分け:ペーパーテスト試験能力∔レポート提出や授業への出席などの内申点獲得能力
研究生活:ペーパーテスト試験能力∔研究室での人間関係能力∔内申点獲得能力∔研究活動への適性
就職活動:人柄、大学時代の経験、家庭の文化資本、容姿等
社会人生活(前半):基礎的な社会人スキル(報連相、身だしなみ等)、対人能力、即戦略的なスキル(会計、プログラミング、英語)、体力

毎回ペーパーテスト試験能力だけが人生の各種局面で問われるのであれば、東大生・卒は人生のレールに乗った存在だと言えるだろう。だが現実はそうはなっておらず、それゆえにあれだけ大変なペーパーテスト試験を乗り越えたとしても途中でレールから脱落してしまうものが現れるのだ。
東大卒のプライドはペーパーテスト試験での成功ゆえに肥大化してしまうが、実際にはペーパーテスト試験能力が問われる局面は人生のほんのわずかであり、「仕事」を手に入れることにすら繋がらない。
肥大化してしまうプライドとその実態の無さが東大進学の最大の危険性と言えるだろう。
結局、そこそこでも良いので、ダウンサイドリスクが限定され、細く長く活躍できるような人生が至高なのではないかと言うのが筆者の結論である。