漂流教室 No.13「再び これからの国語教育?」
高等学校の国語が変わりつつあることは、以前お伝えしました。
たとえば、1年生ではこうなります。
今までは「国語総合」のなかに現代文も古文も漢文も入っていた。
新年度からは「現代の国語」と「言語文化」という二科目に分けられます。
「国語総合」は標準単位が4単位。週あたり4時間の授業をおこないます。
「現代の国語」も「言語文化」も2単位。
ということは、従来の現代文が「現代の国語」で、
古典(古文と漢文)が「言語文化」ということになる・・・のではないんです。
「現代の国語」では小説などの文学的な文章を除いたものを扱うことになっています。
つまり、評論文や解説文などを含む、いわゆる“実用的”な文章を教材とする。
これが2単位。
古文、漢文に加えて明治以降の小説や随筆、そして短歌や俳句を「言語文化」の2単位で扱う。
従来の区分けと比べると、“実用的”文章に重きが置かれているようです。
“実用的”文章の重視といえば悪いことには聞こえないかもしれませんが、
要するに“文芸的”文章と古典の軽視ということです。
私は現時点においてでさえ、文芸的文章の扱いが少なすぎると思っています。
漱石・鴎外はもちろん、江戸の戯作も自然主義も白樺派もプロレタリアートも読まない。
短歌や俳句、現代詩なんか触りもしない。
何が「高等」学校か!
加えて、今の学校教育ではペアワークやグループワークをすることが是とされる。
小説を読んだ後で感想を話し合う、なんていうことが授業の目標の一つにされちゃう。
あまつさえこんなお題が出されることだってある。
「(『羅生門』を読んで)下人のその後を考えてみよう」
「下人の行方は、誰も知らない」んですよ。
芥川が「誰も知らない」って書いたんだから、誰も知らないんです。
知ってちゃいけない。
こんなことしてるから、ただでさえ時間不足の授業が圧迫される。
それに、グループワークって真っ先に発言した者の意見に引きずられてしまうことが多い。
声の大きいのがろくに考えもせず、思いつきだけでものをいうと、リーダーになっちゃう。
人前で発言するのが苦手でじっくり思考するタイプの人間には苦痛な時間でしかない。
私は自分の授業ではグループワークなんかしません。
古典でも現代小説でも作品の解説はしますが、細かい解釈はしません。
解釈は自分でするもの。
だいたい、人前でしゃべるのが嫌な人間がいないことを前提とする授業なんてやってたまるか!
おっと、興奮しないように。
さてさて、「現代の国語」どうなることやら。
もうすでにこんな問題が起きている。
教科書検定で合格した第一学習社の「現代の国語」教科書に『羅生門』などの文芸作品が載せられていました。
びっくりしたのは他の教科書出版社の方々。
批判、避難の嵐だったとか。
そりゃそうです。
文部科学省が「現代の国語」では文学的な文章を除くと明言したんだから。
第一学習社以外の出版社の方々のお気持ちはよくわかる。
と同時に、第一出版社の教科書を編集された方のお気持ちもよくわかる。
だいたい、文部科学省がでたらめなんだよ。
あーあ、言っちゃった・・・
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