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第七回 『現代美術』

京都芸術大学 2023年度 公開連続講座


第七回 『現代美術』

今回の講師は森美術館の館長、キュレーターの片岡真美さんでした。
キュレーターとは、美術館や博物館の資料や作品を収集したり管理したりする職業です。

片岡さんは、現代美術の作品を展示する際、その作者の生まれた国や、その作品についての解説を付けることが多いそうで、その際、世界の地理や情勢についても勉強されていらっしゃるそうです。

日本の芸術は明治維新ののち、欧米中心の近代美術と出会い、国内にはさまざまな価値観が混淆します。
片岡さんは、お雇い外国人、フェノロサやモース、ビゲローらが残した日本についての記録を引きながら、近代美術について説明してくださいました。
当時、近代化を進めていた日本人には分かり得なかった日本文化の価値をしるし、文化の急速な近代化に警鐘を鳴らした彼らの言葉は、現代にも響くものだと思います。近代から現代の歴史を知るためにも、彼らの本や言葉を学んでみたいです。

各国の近代化とともに、世界規模の戦争が始まります。
第二次対戦中、芸術家たちがパリからアメリカに亡命し、芸術の拠点はパリからニューヨークへ移り変わりました。
そこから、現代美術は発展してゆくことになるそうです。
六十年代以降は日本の芸術家でも海外移住する人が多く、また日本にも、ちらほら近代美術館が設立されます。が、お話を聞き、これは純粋な芸術の発展というよりも、戦後、日本が国際社会に認められるための流れを作るものだったのではないかと思いました。
芸術は政治と密接なつながりを持つもの、芸術家自身がそのように意図していなくても、つながらざるを得ないものだと思います。よくいえば、人と人、国と国の橋渡しになるものですが、それは往々にして権力の思惑に利用され、動かされるという危機をも孕んでいます。

現代美術の底流を成すものに「コンセプチュアル・アート」というものがあるそうです。コンセプチュアル・アートは「レディ・メイド既製品」を唱えたことでも有名なマルセル・デュシャンをはじめとし、展開されます。ここではアイデアやコンセプトが第一に大切にされ、このことはデュシャンの「便器」の作品に象徴されていると感じました。

現代美術の作品に、私は、突然何かの「破壊」を突きつけられた不快感、哲学的な問題を投げかけられ、その答えが見つからない不安感を覚えます。これは、現代美術がものの造形美よりも「観念を第一にする芸術」であり、そのように私たちに問うための芸術だからなのかもしれません。

私が(現代)美術家の篠田桃紅さんの作品や人生に共鳴するのは、古いものへの心遣いを忘れず、いつも新しい表現を希っておられたところです。文化という古い大きなものに包まれて、新しい表現を重ねていかれたところに、どっしりとした重みと安心感を覚えます。

今、アジアの近現代美術館で、注目されている地域が香港、シンガポール、ジャカルタなどだというお話も聞きました。そして、その写真を見て驚いたことはどの町も大都会で、高いビルがいくつも立ち並び、同じような姿をしているということです。果たしてそれは多様性を認める芸術の姿であるのだろうかと疑問に思わざるをえませんでした。

講義を通して、戦後、現代美術に携わる方々が取り組んできたことの一つに「世界における日本の美術の位置づけを見つける」ということがあるように思われました。が、世界の中での位置付けを探ることにどう言った意味があるのでしょう。世界の中で、認められない国や民族の文化とは一体どういうものなのでしょうか。こういうところに、戦後の、現代の政治的な国家間の問題が強く絡み合うのだと思います。

そして、現代美術において、今日的な視点で日本文化の再評価をすることが大切だということも課題の一つに挙げられているようです。けれど、現代美術と同じように、伝統的な美術というものも、私たちが「再評価」できるようなものではないと思います。長い長い時間をかけて築かれてきたものに向かって、私たちができることはそのものがもつ文化や歴史を感じる、観じることだけです。

現代美術にあまり関心のなかった私は、この講義が楽しめるか不安でしたが、現代美術と向き合って新しいことに気づいたり、自分自身の考えを発展させたりすることができ、充実した講義でした。


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