お花見
弥生の空は見渡すかぎり‥‥いざやいざや‥‥見にゆかん‥‥
三月末日、幼馴染の友人と今が盛りと咲きほこる桜に誘われるようにしてお花見に出かけました。
友人は高校卒業後、毎日朝早くからお勤めに出ています。お花見の日も昼頃までは仕事と聞いており、夕方の待ち合わせまで時間があった私は、つい先日、父の誕生日に贈った檜のお重のことが思い浮かび、ふと思い立って、急仕立てではありましたがお弁当を拵えました。
川のほとりの公園には思っていたほど人もなく、桜はしきりに枝を揺らし、花は夕日に照らされてちらちらと舞っています。
私たちは枝ぶりの良い木をえらんで腰を下ろし、ふろしきの結目をほどきました。
檜がほのかに香るお重の上に、花びらが吸い寄せられるようにひらひらとかさなります。
お弁当は「お花見弁当」と呼ぶには色どりに欠けるもので、少々もの足りない気もしていましたが、心優しき春風が思いがけずお弁当に桜の花を添え、檜のお重は特別な感じを漂わせてくれました。
急仕立てのお弁当はいよいよ華やぎ、私が思い描いていた以上の見事な「お花見弁当」になりました。
花びらが舞い込むたび、私たちは声を上げて喜びました。
遅き日を味わい尽くし、やがて月が出て星が輝くころまで、私たちはたくさん話し、笑い、春のひとときを過ごしました。
思えば、去年その公園で桜を見たころ、高校を卒業したばかりの私は学生でもなく、仕事も持たず、春の濃い霧の中を進んでいくようなおぼつかなさでした。好きなこと、興味のあることをたくさん学びたい、掴みたい気持ちに動かされ、急かされ。
本を読んだり、講演会に出かけたりして学んだことが私の何になっているのだろう、そんな気持ちになることも多々ありました。が、幸い、毎日欠かせない炊事や洗濯などは、本を読んだり講演会に行ったりして感じたことや思ったことを試すことのできる場として私には毎日の暮らしがありました。
季節を味わい、自然や気候により添いながら暮らす日本の文化を知り、その季節にしか味わえない旬の食材を選んで買ってみたり、出汁を引くことに挑戦してみたり、家の道具や家計を見直してみたり。読書や講演会で知ったことが、実感を持って生活のうちに生きることも多くなりました。
日々の暮らしがより良いものになるにつれ、文化や歴史、哲学、思想を学ぶことや知ることが楽しく、空虚なものでなくなってきたのだと思います。
春、夏、秋、冬。めぐる季節の中、桜の木は花を散らし、若葉が芽吹き、やがて枯れ、葉を落とす間にもずっとそこにあるように暮らしはその時どきの季節の色、味、香りを私にもたらし、いつも私を支えてくれています。
花は散り、そして若葉が繁る季節です。
青く、うるわしい若葉のように新しい季節を溌剌と進んでゆきたいと思います。
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