見出し画像

秋のスイスからアイスランドの荒野を思う

(この文章は10月中旬に書いたものです。)

スイスの街にも秋がやってきた。

最高気温が15度を下回るようになったから、すぐにまた冬へと移り変わっていくのだろう。

僕はまだ冬を迎える準備ができていないというのに、季節は無情にも足早に変わっていく。


記憶というものは思っている以上に脆いものだ。

一生忘れない。

そう思ったものですら、徐々に細かい情報から朧げになってくる。

まるで落葉していく木のように。

記憶の幹は残っても、あの日あの時に感じた枝葉は、日々風に揺られて少しずつ落ちていく。

黄色に染まっていく街の木々を見ながら、僕は2ヶ月前のことを思い返した。

今のうちに文章に残しておかないと焦りながら。


2023年8月2日から5日にかけての4日間、僕はアイスランドのロイガヴェーグルというロングトレイルを歩いた。

アイスランドは基本的に沿岸部にしか街がない。

なぜなら、島の中心の大部分はハイランドという非常に険しい自然に覆われており、人の住めない環境になっているからだ。

ロイガヴェーグルは、そんなハイランド地方の中心的観光地であるランドマンナロイガルからソルスモルクまでの約60キロを結んでいる。


そもそも数ヶ月前までアイスランドのトレイルにいく予定はなかった。

今年の夏の目標はスウェーデンのトレイルであるクングスレーデンを歩くことだったから、それを達成できるように1年間準備を重ねてきた。

それが、無理矢理有休を取ればロイガヴェーグルにも行けると気づいたから、クングスレーデンを歩いた2週間後に再び1週間ほど休みをとってアイスランドに飛んだのであった。

クングスレーデンでの経験をまとめきれていない時だったから、正直アイスランドで詳細な日記をつけられる状態ではなかった。

極北での1週間を消化しきれていない状態であんな荒野に行ってしまったものだから、僕はまた圧倒されてしまって、全てを受け止めることができなかった。


ロイガヴェーグルの風景を一言で表すならば、どうしても「地球」という言葉になってしまう。

流紋岩で形成された七色に染まった大地、硫黄の匂いのする湯気の立ち上がる場所、ひたすら黒い砂が続く砂漠、遠くに望む巨大な氷河。

地球上の大自然の全てを一ヶ所に集めたような場所だった。


トレイルの前半と後半で大きく景色が変わることも、このトレイルの魅力だと思う。

最初はランドマンナロイガルの不思議な色彩が混ざった大地が広がる。

日帰り観光客も訪れる地帯を抜けていくと、徐々に大きな雪渓や氷河が望めるようになり、次第に黒い大地と白い雪のモノクロの世界へと移っていく。

最終的には、迫力ある氷河の近くまで迫り、トレイルが終わる。


幸い、僕が歩いている間はほとんど雨が降らなかった。

それでも序盤から、想像以上の夜の寒さに体調を崩した。

安いエアマットで寝ていたせいで底冷えがひどく、少し風邪気味になってしまったのだ。

毎日自分の体調をうかがいながら、少しでも早く街に降りるために先を急ぐか、体に負担を与えないようにゆっくり進むかを悶々と考え続けていた。

真夏でもブリザードになって死者が出うるようなところだから、もし悪天候に見舞われていたかと思うと、今でも少し身の毛がよだつ。


心に残っているのは、人生初めての渡渉の経験である。

渡渉とは、橋の架かっていない川を自分の足で渡ることである。

クングスレーデンにもそのような場所があったのだけれど、幸い水量が少なかったこともあって、靴を脱がずに渡ることができていた。

しかしロイガヴェーグルでは、膝上くらいまでの深さの川を何度も渡る必要があった。


それくらいの川を渡ることは簡単と思われるかもしれない。

しかし渡渉でミスをした場合、命の危険に関わる可能性が極めて高い。

まず、川の水は直接雪渓や氷河から流れてきている水のため、氷水のような冷たさである。

そこで水流に足を取られて全身の服が水に浸かれば、日中でも10度前後の環境では簡単に低体温症になりうる。

また、寝袋も水に浸かってしまった場合には、0度以下の夜を乗り切ることはとても厳しくなる。

そんな危険性が脳裏にありながらも、冷たさで感覚が麻痺した足を前へ動かしていくことは、かなり精神的にも疲労がくる。

幸い僕は渡渉の際に雨に遭うことはなかったが、雨に打たれながらの渡渉となればさらに精神的な負担が大きくなっていただろう。


アイスランドの自然は、僕に自然の厳しさを身をもって教えてくれた。

そんな状況の中でも、世界有数のトレイルの風景は、僕に生の活力を常に与え続けてくれた。

辛い状況の中見たあの美しい光景たちは、今も僕を支えてくれている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?