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いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑬


 母親が出掛け、あらかた食事も済ませた僕らは、定位置である窓辺のソファーでライルが眠ったのを見届けてから、いつものように彼女の部屋に移動した。
 新しい薔薇をベッドサイドに飾った彼女は「花を見てると気持ちが安らぐわ」と咲きかけのつぼみを見つめた。
「ごめんなさい。あんなことして」
 僕に背中を向けたまま言った。
「自分でもよく覚えてないの。あの日、どうしてあんなに薬を飲んでしまったのか。死にたかったわけじゃないの。ただ色んなことを忘れたかったの。
とにかく深く深く眠りたかったのよ。なにも考えないでいいように。そう思ってるうちに量が増えてしまって、気が付いたら病院にいたのよ。だから自殺未遂じゃなくて、ただの人迷惑な失敗なのよ。健太郎君にも心配掛けちゃったわね。病院まで来てもらって、ほんとにごめんなさい」
 彼女は振り向き、肩越しに僕を見つめた。嘘だと分かっていたが、黙って頷いた。言いたいことは山ほどあるが、喉まで競り上がって崩れてゆく。僕も彼女を追い詰めたひとりだからだ。
 あのメールが「忘れたい」を加速させた原因なのは明らかで、彼女も取り消しの言葉を待ってるのかもしれない。けど僕はどちらも言いたくなかった。そんな卑怯な弁解したくなかった。同じく卑怯な手段を使った彼女を許したくなかったからだ。
「運んでくれる?」
 僕は彼女の方に回り体を持ち上げてベッドに移した。離れようとした刹那、シャツの袖をぐっと掴まれた。
「好きよ…」
 彼女はじっと瞳を開いた。抱きあげた体は軽く、手首も折れそうに華奢なのに、握り締める力は似つかわしくなく強かった。ベッドの上で口唇を重ねた。どんなに痩せ細っても口唇はまだ柔らかい。それが妙に悲しかった。
「してあげる…」
 彼女は僕のジーンズに手を掛けた。どの感情か判断しえぬ笑みだった。
「いいよ。今日は。汗掻いてるから」
 僕は手を掴んだ。全くそんな気にはなれなかった。
「じゃあ流してきたら。シャワー使って」
「いいって。借りた靴を返しに来ただけだから。あとバス代も」
 起き上がってベッドから降りた。白いシーツに横たわる彼女は瞬きせず僕を見ていた。だが次第に瞳が潤みだし、ぎゅっと拳を握った。
「―いやなのね」
 息を止めて顔を逸らした。
「分かってるわ。みんな私のことが重いんでしょ。私を捨てたいのよ。厄介者と思ってるんでしょ」
 彼女は枕に顔を埋めてしゃくりあげた。僕は茫然とした。これが彼女の発言なのか。こんなことを言う人ではない。僕は間違えてるのか。ここにいるのは本当にみんなの憧れだった星野朱里なのかと疑いたくなった。
「そんなこと思ってませんよ。どうしてそんなこと言うんですか」
「嘘よ。お母さんに言われて嫌々来たんでしょ。本当はもう私に会いたくないくせに」
 子供のように指を噛みながら涙を溢した。壁まで染みてゆきそうな泣き声がしばらく続き「…帰っていいわ」と呟いた。
「もう会わないわ。電話もメールもしない。今までありがとう。もう…迷惑かけないわ…」
 背中を丸めて咽び泣いた。立つ尽くしていた僕の目にスカートの裾から覗くシリコンの足が飛び込んできた。よくできた偽物の足。軽そうに重そうに投げ出されていた。途端、何かが弾けた。僕は思わず手を伸ばして足先に触れた。形容しがたい肌触りだった。冷たいのか暖かいのか分からぬが、指に吸い付くことなく滑る質感は本物の皮膚とはまるで違っていた。
「止めて!」
 彼女は上半身を上げて叫んだ。恐ろしい場面に遭遇した目付きだった。奥底にあったやるせなさが突然膨らんだ。僕は再びベッドに飛び乗った。仰向けの彼女の手首を強引に掴んで頭の上で押さえ付け、服を脱がそうとした。彼女は激しく抵抗して身を捩った。それでも馬乗りになってボタンを外そうとすると、彼女は側にあった枕を掴んでバシバシと叩いた。僕はその枕を取り上げて放り、抗う肩を押さえ付け「愛してるなら…」と彼女を凝視した。
「本当に僕が好きなら、それが本心なら、全部見せてよ。服を着たままなんていやだ。なにも受け入れようとしないのは先輩の方じゃないか。あなたが誰も信じないから、あなた自身を不幸にするんだ。足がないことを恥のように思って、醜いと決めつけて周りにいる人達を撥ね付けてる。なぜだよ。僕がこんなことで心変わりするはずないじゃないか。あの事故を恨んだよ。本当に辛かった。自分だったらよかったのにって何度も思ったよ。代われるなら代わってやりたい。僕なら耐えられるから、乗り越えられるからって。けどできないから。代わってあげられないから、僕なりにできる限り先輩の力になりたいと思った。同じ境遇の人の本やブログを読んだり、義足についてもたくさん調べた。それは全部、もう一度先輩と一緒に歩きたかったからだよ。あなたの走ってる姿は本当に綺麗で、憧れてたから、あの頃と同じようには無理でも、今は義足の技術も進歩しているし、努力家の先輩ならきっと克服できるって信じてたんだ。今だって、ずっとそう思ってる。だってそうだろう?見掛けだけの足でなにができるんだよ。あなたはひとりじゃどこも行けない。僕がこの車椅子を外に出したら、先輩はずっとそのベッドから動けないんだよ。お腹が空いてもトイレに行きたくてもじっとしてるだけ。それでいいわけないよ。そんなの赤ちゃんと一緒じゃないか。けど赤ちゃんは成長する。抱っこされてるなんて数年だけだ。でもその足を装着してる限り先輩は0歳児のままなんだよ。お父さんやお母さんだって年を取ってくるんだし、ずっと抱っこはできない。自分で歩かないでどうするんだよ。それはあなたにとって苦しい一歩かもしれないけど、痛みや怖さが付きまとうかもしれないけど、今より素晴らしい景色が見られるはずだよ。光や風を感じられれば、きっともう一度走りたくなるよ。だって人生なんか一回きりで、すぐ終わっちゃうんだよ。車椅子に乗っててなにが見えるの?あなたは左足を失ったけど、ちゃんと生きてるじゃないか。みんなが先輩に憧れてたのは、明るくて優しくて、手本になる人だったからだ。ただの綺麗な女の子じゃなく、その振る舞いが素敵だったからだよ。先輩に出会って毎日が変わったよ。僕がいたから部活が楽しかったって言ってくれた言葉、そのまま同じように思ってた。なんの取り柄もないただのカエルを好きになってくれて、どんなに嬉しかったか。こんな僕でも役に立つならなんでもしたかったのに、先輩は僕を信じてくれなかった。僕だけじゃない。あなたを心底支えたい人達を信じられないでいるんだ。自分だけが不幸だと思ってる。それはみんなの気持ちに気付こうとしないからだよ。あなたこそが周りを悲しませてるんだ。薬なんか飲んだってなんにも解決しないし、こんな花だってもう役に立たない。花は枯れることを恐れてないから美しいんだ。時なんか止められないし、僕だって先輩だってずっとこのままじゃない。少なくとも僕は来年にはここにいない。東京の大学に行く。今日はそれを伝えに来たんだ。こんな風に別れたくなかったけど、僕にできることはもうない。先輩ともっと色んなとこに行きたかったよ。アドリア海を一緒に見たかった。服を脱がないままなんて恋人同士のすることじゃない。どんな姿になったって先輩が綺麗だってこと、僕が一番分かってるに決まってるじゃないか」
 涙が止まらなかった。「ごめん」と彼女にブランケットを掛けて離れた。背負ってきたリュックから袋に入った靴を出して床に置き、テーブルの上に五百円玉を返した。ベッドで震える彼女の切ない嗚咽がエコーする。堪えながら帰り支度をした。とどまるな、と自分に言い聞かせた。
「じゃあ行きます」
 息を飲んで告げた。
「僕はきっと残酷で、薄情で、人でなしなんです。だから僕への怒りや憎しみを忘れないで下さい。僕はここを離れて遠くに行きます。あなたが追い付けない場所まで。でももし先輩がどうしても許せない、なにかしてやらなきゃ気が済まないって追いかけてきたら、その時僕は決して逃げません。なにがあっても、絶対に先輩を受け止めてみせますよ」
 扉のノブを掴み「さよなら」と部屋を出ていった。階段を降りて廊下を歩いて行くと、応接室からライルが出てきた。彼は激しく舌を垂らしていた。皿に残っていたローストビーフがほしいらしく、けれど彼はもらえるまで我慢強く待っていたのだ。僕は皿から一枚取ってライルにあげた。嬉しそうにしゃぶりながら食べるふさふさの毛を撫でた。
「先輩のこと頼むね」
 ライルは潤む目で僕の鼻をペロリと嘗めた。優しいこの子がいれば大丈夫だろう。そう思った。そしてもう一枚ローストビーフをあげてから、星野家を後にした。

 二学期からは猛勉強した。煙草を止めた最初の一ヶ月は苛々との闘いだったが、そのうち慣れて平気になった。初音ちゃんからも星野先輩からも連絡は途絶えていた。正直少し寂しかった。猛烈な欲情を覚えて勉強が手に付かず、携帯を握りながら部屋をうろつくも一度や二度ではなかった。だがどちらにも電話せず、深呼吸して熱を覚まし、また机に向かう。おかげで成績はどんどん上がった。
 十二月初めの県内模試では前回より上位の九位になり、初めてトップテンに入った。両親は常に協力的だった。予備校の帰りは父が迎えに来てくれて、母は毎晩夜食を作ってくれた。産婦人科に行ったことはちらとも噂にならなかった。母が懸念していた事態は起こらず、遠くなった学校につつがなく通えた。心配は想像力のベーキングパウダーでどこまでも膨らむが、みんな自分のことで精一杯だから、こんなに小さい町でもその辺の高校生が誰とどこに行こうと、たいして関心はないのだった。
 この先はもう受験だけと思っていたが、クリスマスイブの前日に初音ちゃんから手紙が届いた。サンタの帽子を被った猫のどアップのカードと一緒に、手作りらしい緑色のカバーの中に合格祈願のお守りが入っていた。学問の神様で有名な湯島天神のものだった。わざわざ買ってきてくれたんだと、手のひらがじんとした。
『メリークリスマス 受験頑張ってね!あたしは元気だよ』
 らしいメッセージにホッとした。母と伯母は今も仲直りしておらず、連絡も一切とってない。廃棄物問題に加えられた禁句の話題となっていて、以前はあんなに約束していたのに、僕が東京の大学を三校受験することになっても、宿泊の依頼はしていなかった。
 僕も連絡しずらくなっていたので、初音ちゃんからこんな風に気にかけてもらえると嬉しくなる。すぐに返事を送った。
『お守り届いたよ。ありがとう。これで受験頑張ります』
 数分後には手に旗を持ってる絵文字だけ返ってきた。まだ本格的なやりとりをするには早い。もう少し冷却期間が必要なんだなと思った。
 翌日には星野先輩からもプレゼントが届いた。開けてみると白い箱に手袋とマフラーのセットが入っていた。手触りのいいカシミアの、有名ブランド物だった。飾り付けられたもみの木のカードが同封されていた。

『お元気ですか 
 しばらく連絡しないでごめんなさい
 この前先生と偶然会って
 健太郎君が東大を目指していると聞きました
 すごいですね
 でも健太郎君ならきっと合格しちゃうんだろうなって思ってます
 いつだって努力を怠らなかったものね
 私は今少しずつ歩く練習をしています
 工房に通って自分の足に合ったものを作ってもらってる最中です
 歩けるようになったら仕返しに行くから待っててね
 健太郎君のおかげで私は目が覚めました
 ようやく左足を見られるようになり
 この障害と向き合って前に進んで行こうと思います
 このマフラーと手袋はお店に行って私が選びました
 似合うといいな
 多くの時間を無駄にしてしまったけど
 今はやる気で一杯です
 ライルもいつも応援してくれてます
 これから大変だけど無理せずに勉強頑張ってね
 よいクリスマスを
 本当にありがとう
 あなたが大好きです
            星野朱里』
 
 文字がぼやけ、自然と涙が溢れた。こんな贈り物がもらえると思わなかった。一番ほしかったもの。諦めていたのに、彼女は届けてくれた。
 早く来いよ先輩。直接ありがとうを言いたいから、早く僕のとこまで来てほしかった。負けてられない。やんなくっちゃ。会いに来てくれた先輩に僕はダメでしたなんて絶対言えない。みんな応援してくれてる。これが僕にとって人生で最後の「やる気」になるかもしれないが、全力を注ごうと自分に火をつけた。その日から家の中でもマフラーを巻いてる僕を両親は気味悪がったが、それも次第に慣れた。予備校から帰った後も毎日三時間は勉強していたが、マフラーと手袋のおかげで一度も風邪を引かずに受験日を迎えた。
 三月。僕は東大に合格した。みんなが祝ってくれた。母は泣いて喜び、父は工房の職人さんたちも招いて、ホテルの高級中華料理店で合格祝いの食事会を開いてくれた。さんざん自慢の息子として拍手喝采を浴びたが、数日すると急に行きたくなくなった。これは挑戦だっただけで別に東大に行きたいわけじゃない。エリート街道を進む気なんかない。せっかくの大学生活なら楽しい方がいい。多くの好きな作家を輩出してる東京の私大にも合格していたので、そちらに行きたいと言った。
 両親は驚愕した。「バカじゃないの」僕を賢いと褒めていた母からの第一声だった。多分そうなんだろうと自覚していた。勉強ができるのはあくまで特技。本質的な人間偏差値はかなり低いのだ。二人がかりで説得されたが、そこに行けないなら大学も行かないと言うと渋々諦めてくれた。
「色々協力してくれたのにすいません」
 母が立ち去った後に父に頭を下げた。そうしたいならしゃあねえよと父は煙草に火をつけ「よくも悪くも頑固な奴だ」と僕を見て笑った。だがこの親不孝息子の決断が思わぬ幸運をもたらすことになった。
 
 都内の私立に通うとなれば入学金や授業料でそれなりの金が掛かる。それで父が気休めに宝くじを買ってみると、なんと一等の八千万が当たったのだ。我が家は揃って叫んだ。何度も何度も代わりばんこにネットに表示された当選番号やくじの名称、開催数字を確認した。そして何度確かめても当選していた。「すげー!」と僕も家族も東大に合格した時より興奮に満ちた。普段なら十一時には解散になる居間で八千万の使い道について一時過ぎまで喋りまくった。車を買い換えるだの、庭を綺麗にするだの、新しい携帯に代えたいだの、各々の希望をとにかく言い合った。
「これであんたの学費の心配はなくなったわね」
 僕もそれが一番よかったと思えたことだった。真面目で健康な両親におかげで生来一度も貧乏の経験がない。衣食住で困ったことはなく、小遣いも十分にもらってる。でも有り余るほど裕福ではない。わがままを言った分、経済的負担は掛けたくない。私大に進学するなら奨学金を申請するべきかなと思っていた矢先だったからだ。けどこれで心置きなく進学できるのだ。
 なにより母の機嫌がすこぶるよくなった。僕の受験と進学先の変更。初音ちゃんの一件。心労の尽きなかった母にも元気が戻った。ずっとここから出たがっていたので、もしかしたら引っ越すことになるのかなと思ったが、当選したのは父なので、ともかく父に託すことにした。だが換金した後に父が最初に買ったものは、仕事で使うノミのセットだった。しかし次に父が取った行動が大きくことを動かした。
 例の廃棄物は僕が卒業するまでそのままだった。ようやく山の持ち主の遠い親戚が見つかったが、相続を放棄したためゴミは残った。すると父はその人から山を譲り受け、専門業者に委託して廃棄物をすべて撤去させたのだった。十ヶ月間放置され続けた黒い塊は、わずか四日で綺麗さっぱり姿を消した。
「ずっとなんとかしたかった」
 新聞の見出しにもなった父のヒーロー的行動は町長からも表彰を受け、地元のニュース番組やネットでも報道された。元来目立つのが苦手な父は、インタビューでも相当緊張したらしく、そうですね、これで、生徒さんが、学校生活を、楽しく、過ごせれば、と相変わらず句読点ごとに答えていた。僕と母はテレビに映る父にゲラゲラ笑ったが、内心ではとても誇らしく、めっちゃかっこいいじゃんと感動していた。思っていた通り、やっぱりこういう形で解決に至った嬉しい半分世間に失望もしていた。しかし数日後にまた別の話題で父はネットの記事になった。
 山を買い取った経緯で宝くじに当選したことが明るみになると、くじを買ったときに自作の靴を履いていたことが取り上げられ、息子の僕も父の作った靴で受験に望み、東大や他の大学にも合格したと記事になると、瞬く間に父の手掛ける靴は「強運の靴」と呼ばれて、全国から注文が殺到した。
 それまでは修理の依頼の方が多く、オーダーメイドはひと月に数十件前後だったのに、日中問い合わせの電話が鳴り止まず、制作作業に手が回らなくなるほどだった。困った父に相談された僕は、パソコンが得意な友人と一緒にホームページを開設して、そこで依頼を受け付けられるようにした。
 僕は本当はどっちの受験も履き古しのスニーカーで行ったのだが、そんなこと誰も覚えてないのでそのままにしておいた。一応宝くじは当たったし、父のおかげで勉強もしたからだ。狭い町で父は一躍時の人となったが、注文が来れば黙々と作り続ける。そういう人だった。
 この地によってもたらされた幸運で母の気持ちも変化した。父の工房が忙しくなったので、当選金で傷んだ家を改修し、両親はここにとどまることを選んだ。そうしてほしかったから僕の賛同した。山と田園だけの田舎だけど、やはりここが僕の故郷だからだ。


⑭へ続く https://note.com/joyous_panda989/n/n93d992acd36a


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