アーバン・ダッシュ~90年代回顧録~ Vol.2 地球の掌で戯れる(3話完結)
地球の掌で戯れる
友人Jの一言で、ぼくらは波乗りを始めることになった。
いきなりサーフィンをやるには、少しハードルが高そうな気がしたので、ぼくらはボディーボードから始めることにした。
波乗りデビューである。まずは、ムラサキスポーツへ駈け込んで、道具を揃える。ボード、フィン、ラッシュガード、水着・・・。
本格的にやるのであれば、季節ごとのウェットスーツが必要とのことだ。いろいろと種類がある。スプリング、シーガル、フルスーツ・・と、波乗りを始めるには、とかくお金がかかる、ということがわかった。
最初のうちは、ウェットスーツは買えなかった。福沢諭吉が6枚、8枚、10枚と必要そうだったので、まずは、短パン水着一丁だけでいける、夏のビーチに乗り込んだ。
ぼくと友人のJは、海なし県の埼玉に住んでいたので、親の車を借りて遠出をする必要があった。車もしょっちゅうは使えないので、ボードを担いで電車で移動することもある。
まずはサーフスポットといえば湘南でしょ、ということで、鵠沼、辻堂、茅ケ崎、平塚といろいろ行ってみた。鵠沼なんかは、ぼくらのようなビジターで溢れ返っていて、週末となると、人人人で海が大渋滞だったので、すぐに嫌になってしまった。辻堂は、ローカルの常連が集まっているイメージがあったので肩身が狭い思いをした。
そこでぼくらが辿り着いた場所が、辻堂や茅ケ崎からさらに西へと離れたところにある、平塚であった。
平塚は、なぜかサーファーが少なかった。サーファーどころか、海に来る人も少なかった。だが、場所的には茅ケ崎のすぐ隣である。にも関わらず、いつ行っても混みあうということはなかった。どちらかというと浜辺でビーチバレーをやる人たちの方が多かった。
おそらく、波の具合が他のエリアと比べてよくないとされていたのかもしれない。サーフィンといえば、鵠沼、辻堂というイメージも大きいのかも。
ともかく、ぼくら初心者にとっては、人の目を気にすることなく練習できる、格好の場所であった。
ぼくも友人のJも、すぐに波乗りにはまった。学校がある平日は、海に行くことはかなわなかったが、週末になると、毎週といってよいほどに平塚に通うことになった。波乗りが終わった後に必ず行くお気に入りの定食屋もあった。
陸(おか)サーファーというのが流行していた時代であったが、ぼくらは陸サーファーのように夏だけ海に入るというスタイルではなく、春夏秋冬、海に入っていた。アルバイトをして貯めたお金で、オーダーメイドのウェットスーツを買い、それこそ冬は歯をガチガチ言わせながら、刺すような寒さに耐えながら海に入っていたものだ。
サーファー男女向けのファッション誌『Fine』を読んだり、『サーフィンライフ』を欠かさず読んだりと、ぼくたちは波乗りライフを楽しんでいた。プロサーファーのケリー・スレーターが、当時のぼくらの憧れの存在であった。
海にいると、自然そのものを遊び場にしているという感覚があった。
ぼくらがやっていたのはボディボードであったが、サーファーと同じようにボードの上に跨り、海面でゆらゆらと揺られながら、沖から突き上げるようにして迫ってくる波を待ち構える。
今度こそは、あの暴れ馬を乗りこなしてやるぜ、
という思いで、パドルを漕ぐ。両足をキックしながら自分の身体を波の動きに重ね合わせる。隆起する波のパワーで、そのままてっぺんまで持ち上げられると同時に、上半身を反るようにしてボードを構え、あとは一気に波の斜面を、垂直落下するように滑り降りていく。身体を進みたい方向に向け、波の腹の上を滑走する。波が突き進む力と、自分の身体が連動し、一体化する瞬間である。
このテイクオフの瞬間こそが、波乗りの快楽である。この快楽を味わうために、ぼくらは街で遊ぶことより、海という自然の中で遊ぶことを選んだ。
波は、地球という生命体があちこに生やしている手や腕のようなものに思えた。ぼくらはその掌の中で、時間が経つことを忘れ、日常生活を忘れ、ずっとずっと戯れていた。
それは、かつてアルチュール・ランボーが表現した「永遠」そのものに、ぼくには思えた。ランボーはこんな詩をうたっていた。
だが、「永遠」という時間は束の間であった。今考えると、永遠とは、「一瞬」だからこそ、永遠と思えるものなのかもしれない。
卒業という季節がついに近づいてきたのであった。オプティミズムに満ち溢れていたぼくらの前に、進路という剥き出しの現実が、顔を覗かせてくる。
だがその前に、相も変わらずアーバンダッシュをしていたぼくらに、この学校生活史上最大の事件、ピンチが訪れる・・・。
続く
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