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洪水のあとで虹 (短編小説) その1

大洪水の騒ぎがおさまった直後、
野兎が一匹、岩扇と揺れ動く釣鐘草の
茂みに来て立ち止まり、
蜘蛛の巣ごしに虹に向かって祈りを捧げた。    

アルチュールランボー「イリュミナシヨン」より

 


 山の頂から射し込む朝日の光があまりにも強すぎて、ケイタはいつもより早く目覚めてしまった。樹皮で編んだハンモックから起き上がると、土間に戻り、バケツに溜まっている生温い水を飲んだ。不味すぎて、吐き気がした。洗濯と料理用に母が川から汲んできたもので、母には絶対に飲むなと言われていたが、我慢できなかった。飲んでからすぐに、ケイタは後悔した。

 風が、ニジェール川の生臭い魚の匂いを運んでくる。遠くから、ドラムを叩く音や大地を踏む足音が聴こえていた。村は、明日の祭りの備えに余念がない。天上のシリウスの星が赤く輝く何年に一度かの日なんだそうだ。

 ケイタの父と兄は、朝から川へ漁に行っていた。早く、父が獲ってくる魚の肉を貪りたいとケイタは思った。口の中で、胃液のまじった涎が溢れた。

 ケイタは歩いて川に向かった。川に行くことは容易なことではなかった。太陽に焼かれた灼熱の砂の上を裸足で歩かねばならなかったし、蠍や蛇に噛まれる危険性があるからだ。母にも決して家を離れてはいけないと注意されていた。それでもケイタはいてもたってもいられなかった。川に行って、いち早く父と兄に会いたかったのだ。
 
 父は、ドゴン族の中でも最も勇敢な戦士であった。村の男たちが行う相撲大会では、何度も優勝している。村の他の子供たちからは、この村で一番強いのは間違いなくケイタのお父さんだと羨ましがられていた。
  
 ケイタにとって、父は誇りであり、憧れの存在であった。自分も父のようになるのだとケイタは思う。
「強くなるには、何よりも自分たちの弱さを知ることだ」と、父は言う。「弱さを知る者は、命という尊さを知るからこそ、強くなれるのだ」
 
 六歳になったばかりのケイタには、父の話は少し難しかったが、父が言うことはすべて正しいのだと、信じて疑わなかった。
 
 ケイタの父は、強いだけではない。村の誰よりも物知りでもあった。自分たちの村のこと、海や川の魚のことはもちろん、村を囲む山々や大地に存在するあらゆる動植物のこと、岩石や地層のこと、天上の星々のこと、そして自分たち人間のこと、それら全部を造ったという神様のこと。

 神様は、この世界で最も偉いお方で、人間を強くするために、試練を与えているらしい。だから、人間は働かなくちゃいけないし、家を護らなくちゃいけないし、時には戦わなくちゃいけないらしいのだ。誰も楽して生きることなんてできない。楽して生きようという人間は、神様の罰が当たる。父は、そんなことまで知っているのだ。

 父の話によれば、ケイタたちが住む村は、神様がこの世界で最初に造った、アフリカというサイの頭の形をした大陸の西側に位置していて、かつては「黄金の都」と呼ばれ栄えていたそうだ。王様という神様の次に偉い人もいたらしい。金という、とても高価な鉱物がいくらでもとれたからだそうで、金は植物の根のように生えてくるらしく、いくらとっても困らなかったのだという。

 ある時、アラブ人という異国の人間がこの地にやって来て、彼らが駱駝を使って運ぶサハラ砂漠の塩と、金の交換が始まったようで、そのアラブ人が金をほとんど持って行ってしまった。金が枯れ果ててしまうと、アラブ人は、二度とこの地に来なくなった。金を失った村人たちは、塩や食べ物と交換することができなくなってしまい、とても貧しくなってしまった。
 
 そんな父の話を思い出しながら、ケイタは川を目指して進む。途中、小柄な白蛇に出くわしたのだが、ケイタは勇ましく足で蹴り飛ばし、白蛇を追い払った。太陽の光を浴び続け、真っ赤になってしまった砂丘を越えると、ようやく川岸に辿り着いた。
 
 泥や砂利の混じった焦げ茶色の川の上を、村の漁師を乗せた木の小舟がいくつも浮かんでいた。漁師たちはみな、短パン一丁だ。褐色の肌が日の光で輝いている。 筋肉という鎧をまとっているかのような大人たちの体躯に、ケイタはいつ見ても惚れ惚れする。その漁師の中に、ケイタの父の姿もあった。父は、屈強な漁師たちの中でもひと際体が大きいから、ひと目見てすぐにわかった。

 ケイタが川辺へと降りて行くと、男たちの漁を眺める長老の姿があった。長老は、杖を持って、小さな椅子に座っていた。体は、川エビのように曲がっている。父から聞いたのだが、長老は100年近くを生きているらしい。
 
 ケイタは、まさかここに長老がいるとは思わず、長老を見るなり、「わ」と驚いた声をあげた。長老もケイタに気付き、白髪の頭で、ゆっくりとケイタの方を振り返る。
 
 長老のことは、この村の人間であれば、もちろん誰もが知っている。ケイタの父は物知りであったが、長老はその何倍、いや何十倍も、この世界のことを知っている。知り過ぎているあまりに、「呪術」というものが使えるらしい。父みたいに体が大きくなくても、子供でも相撲で勝てそうな弱々しい体でも、力では決して負かせない、不思議な力が、長老にはあるのだという。
 
 世界をありのままに視れる人。ケイタたちが感じているこの世界とは、まったく別の世界を知る人。それが、長老である。
 
 大抵の人間は、神が造った世界にいる。だが、長老のような人は違うのだという。本当の神は、世界を造らない。世界そのものが、神であり、長老はその神のすぐ傍にいる、唯一の人間なのだそうだ。
 
 が、ケイタには長老の話が難しすぎてよくわからない。

(続く)





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