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『フィッシュ・アイ・ドライブ』第4話:踊るスパイダー

「ほら、逃げて!」

 希虹(のあ)は助手席でふんぞり返りながら呑気な感じで言う。まるでこの状況を楽しんでいるかのようにも見え、アキラには苛立たしかったが、そんなことを言っていてもはじまらない。

 黒服の男が乗るタクシーが、猛スピードで追いかけてくる。タクシーの前を走っていた車の運命は最悪だ。背後から、耳を劈くようなクラクション音が鳴らされ、同時にハイビームが照射される。前の車は戸惑いながらも端に寄るのだが、タクシーは邪魔だとばかりに車体をぶつけてくる。

 大惨事になりかねない接触だが、タクシーは構うことなく、強引に前を突き進む。

「あいつ、やばすぎるぞ。イカれてるとしか思えねえ」
 
 アキラはアクセルをさらに踏み込む。タクシーがフェラーリに追いつくことなど不可能なはずだが、男の異常な執念に、こちらが呑み込まれてしまうのではという恐怖を覚える。

 ブルーにライトアップされた東京タワーが目の前に現れる。

「ほら、東京タワーも青ざめているよ」

 希虹はそう言いながら、自分の言葉に噴き出してしまう。

「呑気なこと言ってんじゃねえよ」

 アキラは語気を荒げる。ハンドルを握っていた腕に力が籠る。

「やべえ、信号が変わっちまう」
 
 東京タワー通りに入る交差点の信号が、黄から赤に変わろうとしていた。

「どうすんだよ」

「わかってるでしょ」

「風になれってか」

 アキラはアクセルをさらに踏み込む。

 信号が赤に切り替わり、交差車線の車が一斉に動き始めるところであった。
 
 360スパイダーはコンマ何秒かの間に交差点を駆け抜けた。途端にクラクションの大合唱が起こる。

 再び、アキラたちは風になった。

「間一髪ね。あいつは?」

 希虹は身を乗り出し、後ろを振り返る。

「げっ、信じられない。ついてきてる」

「あんた、あんなクレイジーな野郎と付き合ってたのか?」

「粘着質なストーカー。地獄まで追いかけてくるような奴」

「よっぽど恨まれることをしたとかじゃねえの?」

 アキラがチラと希虹の方を見ると、希虹は口を閉ざした。風のせいなのか、歯ぎしりをしているのか、その横顔は小刻みに揺れていた。

 東京タワーの真下までやってくる。

「ねえ、とにかくあいつを撒いてよ」

「簡単に言うなあ」

 アキラは何を思ったか、急にスピードを緩め始めた。男の乗るタクシーの距離が徐々に縮まりだした。

「ちょっと何してんのよ、追いつかれるわよ」

「見てろって」

 アキラは恐怖を押し殺し、覚悟を決めた。ほとんど、やぶれかぶれだった。

 再びアクセルを踏み込んだ。後ろ脚で地面を蹴る360スパイダー。

 タクシーは、馬の尻を逃さまいと、必死で追いつこうとする。

 射程距離に入ったと判断したか、男が窓から顔を出していた。サングラスをしているのでどんな面をした男なのかはわからない。黒ずくめの格好といい、まるで『マトリックス』のエージェントみたいだ。

「ねえ、何してんのよ。追いつかれるよ。あいつまた銃で撃ってくるから」

 希虹が身を乗り出し、唾を飛ばしてくる。

 何を今さら、さっきまでの余裕はどうした、とアキラは鼻で笑う。

「さあ、行くぜ」

 アキラはそう言うと、突然ハンドブレーキを上げた。

「わあ!」

 車体が急に浮き上がり、希虹は思わず声をあげる。

 闇夜にくっきりと浮かびあがる、ブルーライトの東京タワーを背に、アキラ自慢の、真っ赤な愛馬が跳ね上がる。

「踊れ!」

 アキラはすぐにハンドルを切り返し、反対車線に出る。

 宙を滑っていく感覚であった。

 タイヤと路面が擦れる音が、乾いた夜の空を鳴り響く。 

 アキラの思わぬ切り返しに、黒服のタクシーは対応しきれず、そのまま行ってしまった。

「凄いじゃん! ドリフトってやつ?」

 希虹は、目を丸くする。

「初めてやった」
 
 アキラの心臓はバクバクだった。一か八かであった。興奮のあまり、空に向かって雄叫びをあげる。

 しばらくして、アキラたちが進む反対方面から、何台ものパトカーが、けたたましい音を鳴らして過ぎ去っていった。
 
「これで安心だな」 

「駄目。きっとまた追いかけてくるから、もっと離れたところへ行って」

「今のパトカーの数見たろ? あいつ警察なぎ倒してんだぞ。指名手配だろ、時間の問題だ」
 
「あいつは警察ごときに捕まらないよ」希虹は言う。

「警察ごとき? あのイカれた男といい、あんたといい、一体何者なんだ」

「変質者」

 希虹は低い声でつぶやく。

 先ほど、車が回転した勢いで、バスローブが少しはだけたようだ。希虹は胸元を直している。

 アキラは、スパイダーで宙を舞った際、目の前に晒された、希虹の豊かにたわむ胸を目に焼き付けていた。そのことを想い出すだけで、顔がにやけてしまいそうになる。

「変質者同士の鬼ごっこか。いい迷惑だな」

 アキラは、にやつく思いを悟られないよう、取り繕った笑みで返す。

「お前もな」

 希虹がアキラの横顔を睨みつける。

 ばれていたか、とアキラは自分の額を叩く。


 芝公園から高速に乗り、北上する。

 どこまで行くつもりだ? とアキラが希虹に訊ねると、このまま北上して、行けるところまで行ってほしい、のだと言う。

「おいおい、俺はそんなに暇じゃねえぞ」

 男を撒いたことにより、アキラの気は抜けていた。落ち着きを取り戻し、軽口も叩く余裕ができた。360スパイダーの幌を閉じ、音楽をかける。

「何言ってるの、もうあんたは運命共同体。あいつは地の果てまで追いかけてくるよ」

「さすがに大丈夫だろう、あっちゅう間に東京抜けるぜ」

「あんたって、すぐに忘れてしまうのね。どんだけ単細胞なのよ。さっきまでの出来事を思い出して。東京のど真ん中で拳銃ぶっ放して、人を車でなぎ倒してまで追いかけてくるやつよ。どんな人間かわかるでしょ」

 希虹にそう言われ、アキラは、たった三十分前くらいに嵐のように駆け抜けていった出来事を思い出し、身震いする。

 いや、もちろんアキラとて忘れたわけではない。ただ、思い出したくなかったのだ。思い出すだけで、気がどうにかなってしまいそうだから、少しくらいは気を楽にさせてくれ、そう思ったまでのことだ。

「わたしたちだって、機動隊突っ切ってきたのよ。警察にだって追われることになるよ」

「そういわれても、俺は巻き込み事故のような・・・」

「あんただって、まだ死にたくないでしょう?」

 希虹が強い口調で言い放つ。

「だから、俺がなんでそんな心配しなきゃいけないのよ。もとはといえば、あんたたちの問題だろう。このまま千葉とかそのあたりまで連れて行ってやるから、そこからはあんたで何とかしてくれ。頼むからこれ以上、俺に関わらないでくれ」

 アキラもまた語気を荒げていた。

 そうだ、俺は何も関係がない。この女も、黒服の男も、この二人の間に何があってこうなっているのか、一切、関係がない。

 ただの他人もいいところだ。

「わかった!」

 希虹が突然、剣幕な顔で叫んだ。

 何だよ、逆ギレかよとアキラが希虹を振り返る。

「話すよ」

「へ?」

「わたしのこと、あいつとの間に何があるのか」

「ああ、ぜひともそれは聞きてえな。こちとら、まったく何も知らないまま、こんな目にあってるんだからな」

 アキラはなぜか喧嘩口調で返す。

「話すけど・・・」

 希虹は突然神妙な顔つきになる。それからまた、勝手にアキラの煙草を手に取り、火を点けろと促してくる。

 アキラは渋々、ジッポを着火する。

「話すけど、聞いたら、あんたなおさら後戻りできないよ」 

 希虹は、そうつぶやき、細く丸めた唇から、糸のような煙を吐き出す。


続く

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