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ギャング映画考:家族主義かウルトラ個人主義か、変容するマフィアの描かれ方

愛すべきギャング映画たち

 
 私はアウトローを描いたギャング映画、マフィアものには目がない。食指が動かされるというか、無条件で飛びついてしまうジャンルなのである。これは私に限らず、賛同してくれる世の男性は多いと思う。組織同士の覇権争い、その中で勝ち抜く強さ、タフさ。あるいは一般社会のルールをはみ出していく破天荒さ、自由奔放な振る舞いへの憧れ、というものが、きっと本能レベルで存在しているのだ。

 これらは、暴力や武力的な争いというものが禁じられている現代社会において、とりわけ、人と「違わない」ことが正しい道と教育される日本においては、なおさら、己に隠されていた「男性的、野性的なものへの願望」として発動するのだろう。

 まさか自分で実行、具現化するわけにはいかな衝動=欲望を、映画や漫画、あるいは音楽といった表現に投射し、バーチャル体験することで、その世界への没入と、興奮や刺激といった形で、その快を味わっているのではないだろうか。

 そんなギャング映画の中でも、とりわけ古典中の古典とされるのが、フランシス・フォード・コッポラ監督による『ゴッド・ファーザー』シリーズであろう。ギャング映画の人気ランキングでも不動の上位作品である。むろん、私もこのシリーズは、何度も繰り返し観ている。歳を重ねるごとに、作品の受け止め方が変化していて、その変化もまた楽しかったりするものだ。

 この『ゴッドファーザー』に次いで挙げられる作品でいくと、ハワード・ホークスの『暗黒街の顔役』をリメイクした、ブライアン・デ・パルマ監督、アル・パチーノ主演の『スカーフェイス』も不動の人気作品だ。

『スカーフェイス』はもう何度観たか数えられない(笑)ほどの、私にとってのバイブルである。ブライアン・デ・パルマ作品でいくと他にも『アンタッチャブル』『カリートの道』がある。

 それから、『タクシードライバー』や『レイジング・ブル』で有名なマーティン・スコセッシ監督の『グッド・フェローズ』。スコセッシ作品ではお馴染みのロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシというコンビの出演と、主人公はこの作品で出世したレイ・リオッタ。

 スコセッシ監督はギャングものがお好きなようで、他にも同じくデ・ニーロを起用した『カジノ』、初起用してから以来、スコセッシ監督のお気に入りとなったレオナルド・ディカプリオの『ギャングオブニューヨーク』『ディパーテッド』、そして最近ではまた『アイリッシュマン』というデ・ニーロとアル・パチーノという、かつてのギャング映画二大スターを共演させ、老いたマフィアの郷愁を描いている。

 他にも、クエンティン・タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』『パルプ・フィクション』も当然入ってくる。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『フェイク』なども名作に挙げられるし、ジョニー・デップが演じる『ブラック・スキャンダル』、『ブロウ』なんかも、ジョニー・デップがはまり役すぎてよい。

ギャング映画に見出せる社会学

 
 しかし、古典中の古典とされる『ゴッドファーザー』と、他のギャング映画には、同じ裏社会を描いていながらも、決定的に異なる要素がある。

 前者の『ゴッドファーザー』は、ニューヨーク五大ファミリーの一角で、最大の勢力を誇るイタリア系マフィア「コルレオーネ・ファミリー」の歴史を、壮大な叙事詩として描いており、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のような一族のサーガで、「ファミリー」「血縁」という要素が大きい。

 マーロン・ブランド、アル・パチーノという個の耀きも、もちろん異彩を放っているのだが、『ゴッドファーザー』の主語はあくまで、ファミリー、一族だ。この誇り高き支配者たちもまた、内部のごたごたにより、「血で血を洗う闘争」の中に引きずりこまれていくのだが、一族を護るために手段は選ばない。一族の中で、唯一裏社会に入らなかったマイケル(アル・パチーノ)も、ついには父(マーロン・ブランド)の意思を受け継ぎ、一族の王たる「ドン」の称号が、父から子へと引き継がれていく。

 それに対し、『グッドフェローズ』などによって描かれているマフィアは、故郷を同じにする同胞ではあっても、血縁関係にはない。だらかこそ、「グッドフェローズ」=「気の置けない友達」、マフィア界の隠語で「自分と同じ組織の所属にある者」である。彼らを結び付けるものは、組織への忠誠であり、血縁ではない。組織のルール(法)を破るものは、裏切り者として処刑されるか、破門されるか、何らかの排除が行われるであろう。

 これらギャングたちは、血も異なり、信用関係も脆弱な、バラバラの「個」として描かれるのではあるが、「組織」や「掟」への忠誠において、かろうじて繋がりを保っており、「組織」「仲間」という単位は依然色濃い。

『スカーフェイス』などが描いているものは、「組織」「仲間」ですらないのかもしれない。そこには、トニー・モンタナ(アル・パチーノ)という徹底した「ウルトラ個人主義」ともいうべき、強烈な「個」の、私利私欲の描き方であり、ここに、資本主義社会、格差経済社会を生きるわれわれが好んでみてしまう「成り上がり」という要素が加わるのである。

 1980年のキューバから反カストロ主義者として追放され、フロリダ州マイアミへとやってきた犯罪者トニー・モンタナは、難民の隔離施設へと収容され、その施設において同じ施設送りのマニー・リベラ(スティーブン・バウアー)らと共にマイアミの麻薬王の依頼をこなしたことにより、莫大な報酬を得る。裏社会で成り上がることを決めたトニーは、マニーと共に、あれよこれよとのしあがり、新たなマイアミの麻薬王として君臨していく。

 だが彼らの間には確執が起き、トニーは、誰も信じられなくなり、自身もまたクスリに溺れていくのだが、仲間内で悲劇を起こし、破滅の道へとひたすら向かっていく。成り上がりも壮絶だが、落ちるのもあっという間というジェットコースター的な展開だ。

 あまりにも有名なラストシーンと、"The World is Yours"(世界はあなたのもの)と書かれた像。ここで描かれるウルトラ個人主義は、金で世界のすべてを手にれるという、ホッブズの自然状態という「原理」が、資本主義における「個」の熾烈な競争社会の中で正当化されていくような潮流を、象徴的に描いているようにも見える。1983年の作品である。

 実際に、この『スカーフェイス』は、「成り上がりもの」の典型として、まさに古典ともうべき作品となっているが、このパターンは、のちにマーティン・スコセッシが、ディカプリオ主演の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』という作品で反復することだろう。

 そこに描かれているものは、もはや血と血で争うギャングたちの成り上がりストーリーではなく、文字通り、ウォール街というビジネス界における「狼」が、人を食い物にして、尋常ならざる収入で、尋常ならざる浪費と快楽に身を投じていくという現代の「成り上がり」ストーリー、資本主義経済の勝者らの姿である。そこにあるものは、闇社会を生きる者と、ウォール街の覇者たちの行動原理に、根本的な違いは見当たらないということだ。

日本映画でアウトローものといえば?

 
 日本映画のことについても触れておきたい。日本の場合、ジャンルとしてはギャング映画、マフィア映画とはいわずに、ヤクザ映画というようだ。このヤクザ映画の中において、ピックアップすべき作品としては、間違いなく北野武監督の『ソナチネ』や『BROTHER』『アウトレイジ』シリーズを挙げなければならない。

 ただし、北野作品の場合、純粋にアウトローものとしても楽しめるのだが、上記に紹介してきたような海外作品とは異なるベクトルで、「暴力」の問題が、自覚的なまでに主題化されており、これについては、他で論じるべき内容と思うので、ピックアップだけにとどめておこう。

 純粋にヤクザ映画ということでいくのなら、私は残念ながら『仁義なき戦い』シリーズがまだ見れていないのだが、『孤狼の血』はよかった。昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島の架空都市・呉原を舞台に、刑事、ヤクザ、女の、生き残りをかけた熾烈な争い。主演は役所広司、松坂 桃李。

まとめ

 ギャング映画は、たんにエンタメとして見るだけでなく、どの国の、いつの時代を背景として描かれているかにより、その時代のアウトローが重んじてきていた価値観というものが見えてくる。『ゴッドファーザー』はファミリー、一族への忠誠。『グッドフェローズ』は同胞としての組織への忠誠、『スカーフェイス』には忠誠はもはやなく、ウルトラ個人主義の争い。そういった観点で作品を捉えると、この映画がどのタイプのものに分類できるのな、というので楽しみを見いだせたりするのではないだろうか。

 
 


#ネタバレ

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