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小説|腐った祝祭 第ニ章 17

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 睡眠時間が短かったにもかかわらず、サトルは翌朝7時には朝食の席についていた。
 目の前にはもちろんカレンがいた。
 外ではしっとりとした雨が降っている。
「久し振りね」
 お祈りのように組んだ手の上に顎を乗せ、カレンは少し淋しげな表情でそう言う。
「自分の家なのに、逃げ回っているのがバカバカしくなったんでね。まだ帰る気にはならないのか?いい加減うんざりしてきんだが」
「そうね。でも、このまま帰るのは心苦しいわ。せめてあなたと仲直りしたいの」
「余計な心配はいらないから、そろそろ飛行機のチケットを予約してくれ。金が足りないなら出してやる」
「本気で言ってるのよ?あなたに憎まれたままでは嫌なのよ」
「出てってくれれば、これ以上に嫌いになることはないだろう」
「どう言ったって、駄目なのね」
 カレンは泣きそうな表情になっていた。
 そして、すっと椅子から立ち上がった。
「あと一週間。約束するわ。来週には帰国する。約束するから、それまで仲良くしてくれないかしら?」
「約束は出来ない」
 カレンはナプキンをテーブルに置いた。
「そう。判ったわ。でも、一週間は居すわってやるわ。だって、何故だかそうしたいんだもの。一週間っていう言葉が、とても頭に響いてるの。どうしてかは判らないわ。でもそうしたいの」
「勝手にしろ」
「そうする」
 カレンはゆっくりとドアに向かって歩き、サトルのそばで立ち止まった。
「愛してる人から裏切られるのは、とてもつらいことね」
 サトルはカレンを見なかった。
 どんな表情をしているのか、知りたくなかったからだ。
「言ってる意味が判らないね」
「私には判るわ。ずっと傍にいるって言ったのに、急に消えてしまうなんて酷いわ」
 カレンはそう言うと、ゆっくり部屋を出て行った。
 サトルは食欲がなかったが、顎の痛みをこらえ、意地になったように出されたものを全て食べた。

 執務室で、クラウルが書類を見ながら言う。
「閣下」
「なに」
「警察からの確認なんですが……、おかしいですね。盗難リストに、その、婚約指輪が記載されていませんが」
「ああ。いいんだよ、それで」
「は?」
「もういいんだ。くれてやるよ」
 クラウルは何か言いたそうだったが、あきらめて口を閉じた。
「さて。仕事はこれで終わったね」
「そうでございますね」
「じゃあ、私はちょっと出かけてくるから、後はよろしく」
「閣下」
 クラウルは、立ち上がったサトルに厳しい口調でそう言った。
「なんだよ」
「教会に行っていただきますよ」
 サトルは眉をひそめる。
「まさか、本当に牧師に連絡したのか?」
「冗談です」
「クラウル……。いつからそんな冗談を言えるようになった」
「でも、冗談ではなく、もう飲み歩くのはおやめください」
「判ってる」
「返事はいつもよろしゅうございますね」
「今度は本当だよ。元来、私はひ弱なもやしっ子なんだ。さすがに懲りたよ」
「どうだか」
 サトルは適当に言葉をかけて部屋を出た。

 雨は降っているが、それほど寒くはなかった。
 じっとしていれば寒く感じるが、ジャケットを着て歩き回るっていると蒸し暑く感じるといった、ぬるま湯のような天候だ。
 サトルは部屋に戻って服を着替えた。
 春用のニットにストールをゆるく巻きつけ、傘を差して出かけた。
 大使館の馬車は使わず、途中で辻馬車を拾った。
 そして初めて、昼間のギリヤ街に降り立った。
 雨脚は弱く、雨雲は厚いものではなかった。
 そのせいで地上はそれほど暗くはない。
 晴れの日とは違う、ふんわりとした柔らかな明るさがあった。
 その明かりに包まれたギリヤ街には、夜の喧騒の欠片も残っていなかった。
 歩く人は少ない。
 時々すれ違う人の表情は、疲れ果てたような虚ろなものだった。
 サトルはゆっくりと、広くはない歩道を歩く。

  凄く可愛らしいベビーカーを街で見かけたの。
  綺麗なお母さんがそれを押していたわ。
  広い歩道をゆっくり歩いていくその姿を見ていたら、
  とても優雅で羨ましくなっちゃった。

 ここではそんな落ち着いた様子は見られないだろうね。
 それでもましだろう。国に比べれば。
 大した知識もなしに安直に造られた煉瓦敷き風の歩道なんかよりは、ここの石畳はずっとましだよ。
 強度や排水性をちゃんと計算してるんだから。
 実家の近くの歩道がそうだったんだよ。一ヶ月も経たないうちにガタガタになって、年寄りがつまずいて骨を折ったんだ。
 一ヵ月後に歩道は掘り返され、めでたく元通りの煉瓦敷き風の歩道に戻った。
 一ヵ月後にはまた凸凹になった。
 まったくおめでたいね。
 そんな小さな事でそうなんだ。
 大きな事になると、もう手が付けられない。
 車道を馬車がゆっくりと走ってきて、サトルを追い越していった。
 屋根のないリヤカーのような荷台に酒樽を乗せ、それに透明のシートをかけて紐で結び雨避けにしている。
 脚の短いずんぐりした馬が、一頭でそれを力強く引っ張っている。
 御者は雨用の紺色のケープを羽織っただけで、手綱を握る手は雨に濡れていた。
 車道には少し水溜りがあったが、歩くのに困るほどではなかった。
 サトルは車道を横切り、反対側の歩道を歩く。
 しばらくして横道に入った。
 馬車は入れない道だが、通れないほど狭くはない。
 何かの時には一方通行だが救急車も通ることが出来る、ポルティコのある路地だ。道の両脇の建物の一階部分がアーケードになって、歩行者は雨の日も傘なしでここを通ることができ、日差しの強い時は日除けになった。
 道に沿って建っているのは二階から三階建てのアパートがほとんどで、一階部分には偶に酒屋や雑貨屋の看板がぶら下がっていた。
 雨の小路に連なる、上部を弓状にくりぬいた列柱の佇まいは、心淋しいが美しかった。
 サトルは道の真中を歩いていたのを、脇に避けて傘を閉じる。
 アーケードを歩いた。
 途中にパン屋の看板を見つけた。
 玄関の上に真鍮の薄い看板がぶら下がっている。
 パン職人が丸パンでお手玉をしているようなデザインだった。
 ドアを開けて入ると、間口3メートルほどの小さな店舗だった。
 売り手と客の間の棚に、手の平サイズの白パンや胡桃入りのパンなどが並んでいた。
 棚の奥は作業場になっていて、ガラス張りの壁を通して様子が窺えた。
 オーブンの窓を覗いていた男が、客に気付いて奥から出てくる。
「いらっしゃい」
「どうも。一番人気のある商品はどれかな?」
「そうですね。売れるのは全紛粒パンだけど、人気なのはこれだな」
 主人は一つのトレーの端を指で叩いた。
 視線の動かし方が多少ぎこちなく、サトルを何者かと考えているようだった。
「中にクリームチーズとマッシュポテトが入ってる。美味しいよ」
「じゃあ、それをいくつかもらおう」
「はいよ」
 主人は紙袋にそのパンを入れていく。
 紙袋に納まる程度でサトルはストップをかけた。
 代金を払い商品を受け取る。
 店主は釣銭を探りながら言う。
「お客さん、どっかで会ったことありますか?見た顔のような気がするんだけど」
「そうかい。偶に向こうの通りに飲みに来てるからね」
「はあ。そうですか。なんか別のとこで見たような……。はい、お釣りです」
「ありがとう。ちょっと教えてくれるかな。ハリーランドに行くにはこの道でいいの?」
「はい。このままずっと西に行って、通り向こうの公園を突っ切ればハリーランドですよ」
 サトルは礼を言って店を出た。
 パンは焼き立てで、紙袋は温かかった。
 数歩進んだところで声をかけられた。
「サトルさん」
 サトルは立ち止まった。
 振り返らなかった。
 女の気配が近付いてきて、隣に並んだ。
「買い食いなんか駄目じゃない。ジョエルに怒られるわよ」
 ナオミが選びそうな春物の服を着た女が、クスクスと笑った。
「ねえ、どこに行くの?私をおいて散歩に出かけるなんてひどいわ」
 サトルはゆっくり隣に目をやる。
 ナオミのような口調でカレンは続ける。
「私も付いていく。いいでしょ?」
「いいよ。でも私から離れないようにね。あまり治安のいい場所じゃないから」
「ええ。離れないわ」
 二人は歩き出した。

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