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小説|腐った祝祭 第一章 17

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 その腕時計の文字盤には小さな窓が二つある。
 一つには日付が見えている。
 もう一つには太陽の絵が見える。
 午前6時になると太陽が現れ、午後6時になると三日月が現れる仕組みになっていた。
 残念ながら月の形は変化しない。
 満月でも、闇夜でも、6時になれば三日月が出るのだ。
 細めのベルトには、深いグリーンに着色された鰐皮が使用されていた。

 サトルはナオミのベッドに腰かけ、その時計を眺めていた。
 針は6時半を示していて太陽が出ていたが、窓の外はまだ暗かった。
 ベッドや床に差し込んでいるのは日の光ではなく外灯の明かりだ。
 ナオミは窓に向けた肘掛け椅子にゆったりと座り、静かな寝息をたてている。
 早くに起きて着替えてから、椅子に座っていたら眠ってしまった。
 そんなところだろう。
 自分で施した化粧はシンプルで、髪もストレートだった。
 セアラが起こしに来るよりも早くに起きて、どういうつもりで朝の仕度をしたのかは判らない。
 セアラにはミリアを通して指示を出したので、仕事を始める6時半を過ぎても今日はこの部屋に来ることはない。

 すぐにでも帰るつもりなのか?
 君って女はよく判らないな。
 私もこの暮らしも気に入っている筈のくせに。

 ナオミの首がわずかに動いて、髪が揺れた。
 自分の動きで目が覚めたようだ。
 少し顔をしかめ、ゆっくりと目を開いてゆく。
 季節はずれの朝顔のようだった。
 バラ。ダリア。ツバキ。フヨウ。
 いろんな女に出会ったが、目覚める姿が朝顔のような女なんか初めてだ。
 素朴で、清廉な風情が美しかった。
 サトルは曲げた右手に左の肘をつき、左手の親指で自分の下唇を触る。
 面倒な女は嫌いじゃない。
 簡単に手に入る女じゃつまらない。
 しかし、これで帰ってしまわれたら私はどうしたらいい?
 ゲームを途中でストップされたら誰だって面白くはないだろう。
 一時休止って訳にはいかないんだ。
 結果は今日ださなければならない。
 君の後を本国まで追って行くなんてことは私はしないよ。
 そんなことはしない。

 ナオミの目が開いた。
 サトルは右手に持っていた時計を両手で持ち直した。
 ナオミはサトルへと顔を向けると、驚いたが、微笑んだ。
「ああ、びっくりした。でも、何となく、あなたがいそうな気もしてたの」
「おはよう」
「おはよう」
 言って、ナオミは自分の首にかけてあるマフラーに気付いた。
 シルバーのファーに手を触れる。
「今日は雪が降るかもしれないって言うくらい冷えるそうだ。君の首を眺めているのは好きだけど、風邪をひかれては困るからね」
「サトルさんがかけてくれたの?」
「ああ。フェイクファーだけど、暖かいだろう。この国じゃ、毛皮や皮革のみの目的の狩猟は禁じられているから、街で見かけるものはほとんどフェイクなんだよ。輸入にも厳しい制限がある」
「そう。暖かいわ」
「その分、加工の技術は優れている」
 立ち上がると、ナオミの傍に歩く。
 そして、その細い手首に腕時計をはめた。
 ナオミはじっとその様子を見つめ、時計を見つめる。
「可愛い」
「そのベルトは本物の鰐皮だ」
「本物?」
「そう。肉は誰かが食べてしまった。食べればいいんだ。ウサギでも、食べれば毛皮を使える」
「ワニを食べるの?」
「うん」
「美味しいの?」
「料理は料理人の腕次第だろう。私も一度しか食べていないけど、その時は美味しかったよ」
「そう」
 ナオミはベルトの部分を触りながら言った。
「食べられちゃったのね」
「気に入ってくれた?その時計」
「ええ」
「良かった。ルルには巨大な産業はないけど、時計や家具、服飾類なんかの小さな産業は盛んだし、技術も優れているんだ。大型船を造る会社はないけど、ボートを作る会社はある。その時計もルルのブランドで、私も好きな店のものだよ。もらってくれる?君が帰っても、君の時間を刻むのは私の贈った時計だ。君はこれを眺めながら、帰らなければ良かったと後悔するのさ」
 ナオミは肘掛部分に手をついて立ち上がり、サトルの胸に寄り添った。
「こんなこと言うと、変に思うかもしれないけど」
「心配いらないよ。君は既にじゅうぶん変わってるんだから」
「意地悪ね」
 ナオミはふっと笑った。
「私、男の人の言葉って、なかなか信用できないの。自分の国のこと、まだ覚えてる?ほとんどの男が威張りん坊よ。仕事のできない男も、仕事のできる男と同じように威張ってる。自分が男ってだけで、恥ずかしげもなく威張ってるの。きっと女が優しすぎるんだわ。優しいと言うより、許容範囲が広いって言う方がしっくりくるかもしれない。去年、従兄弟が結婚したの。でも、夫はすぐに浮気をして、それもすぐにばれちゃって、一騒動起きるかもしれないって事態になったの。でも、妻は言ったわ。浮気の一つやニつ覚悟はしていたから平気。それに、夫はもてた方が自分も嬉しいって。みんなは妻を褒め称えた。出来た奥さんだ。立派な妻だ。みんなに褒められて、妻は嬉しそうに笑ってた。夫は頭が上がらないって言いながら、やっぱり笑ってた。私、そんなのウンザリだと思ったわ。結局、ずっと昔からその繰り返しで変わらないんでしょうね。浮気くらい大目に見てやれって事になってるのよ。そうやって夫を甘やかして、浮気相手の女を軽視して、褒められていい気分に浸って、さらに息子を甘やかして、それが繰り返されて、自分勝手で弱虫な男と、許容範囲の広い女ばかりになっていくの」
 サトルはナオミの腰に手をまわし、抱き寄せた。
「君の周りには、余程ろくな男がいなかったんだね」
「ええ、いなかったわ。でもサトルさん、あなたは素敵よ。優しくて、楽しくて、意味もなく威張ったりしない」
「私も時には、威張ることはあると思う」
「必然性があるなら気にならないわ。私の周りにいた人たちは、他にすることがないから威張ってたのよ。もしかしたら、威張る以外に能がなかったんだわ」
「なかなか手厳しいね」
「あったとしても、下品でくだらないジョークを誰彼構わず言えるってくらいの才能よ。昨日も言ったけれど、私、帰りたくなんかないの。本当よ。サトルさんの傍にいたい。でも、それは簡単なことじゃないわ。仕事も家族も向こうにあるのよ」
「会社を辞めるのは難しいことじゃない。君が仕事をしたいのなら、この国で探せばいいんだ。私も手伝うよ」
「辞めるのは簡単よ。だけど、その気になってここに留まって、サトルさんが私を嫌いになってしまったら、簡単には戻れないわ。あの国に戻って、ゴチャゴチャした街の中を仕事を探して回るなんて、考えただけでも嫌だもの。でも、今ならまだ……」
「また、そういうことを言うんだね。終わることばかりをどうして気にするの?」
「だって、私は知ってるの。愛って永遠じゃないわ。まして恋なら、そんなのはシャボン玉みたいなものでしょう?いつ消えてなくなるか判らない」
 サトルは少し驚いた。
 ナオミがそんなことを言う女だとは思っていなかった。

 愛って永遠じゃないわ。

 その通りだ。
 君は賢いよ。
 そんなものを持っているのは、神様だけなんだ。
「今ならまだ、私は確かなものを持ってるの。今日、飛行機に乗れば、仕事も家族も待ってるの」
「結婚しよう、ナオミ」
 言って、ナオミにキスをする。
 君は契約書が欲しいんだ。
 今までで最も強欲な女だ。
「君の言葉を借りれば、私という男が不確かでも、家族になれば確かなものになれるんだろう?それなら結婚しよう。そうすれば、愛が永遠じゃないとあきらめている君にも、私の愛は少なくとも半永久的であることを証明できると思うよ」
「ねえ、待って。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、私は普通の家の子よ?父は中小企業のサラリーマン。母は専業主婦。ここの生活が夢のようにしか感じられない生活をしていた人間よ。あなたにつりあうと思うの?」
「私を何だと思っている?君と同じ国で生まれた普通の人間だよ。背中に羽が生えてるわけでもなければ、頭に角が生えてるわけでもない。この国みたいに階級制度でもあれば多少の困難は生じるかもしれないが、それもない。その状況で何に問題を感じているの?」
「環境よ。生活していた環境よ」
「そんなもの、すぐに慣れる」
 強く抱きしめすぎて、ナオミは痛いと言った。
 体を離すと、ナオミの頬に胸ポケットのペンがあたっていた。
「ごめん」
 頬を親指で撫でた。
 クリップが蛇の形になっているシルバーの万年筆で、ボディーにも蛇柄の型押しがしてある。
 貴金属への爬虫類柄の型押しは、リアルが手に入りにくいことの反応としてルルでは頻繁に用いられる。
 元は下向きの蛇の目にルビーが入っていたが、その目だけが気に入らず、宝石の入っていないものを作ってもらった。ナオミはその蛇を見ているようだった。
「サトルさん」
「なに?」
「この国は素敵だわ。あなたが連れて行ってくれた場所もとても綺麗だった。リディア湖も、高原も、そこに行くまでの鉄道も車窓の景色も素敵だった。それなのに、どうして国外に広く知られていないの?」
「ルルは変化を怖れているから。観光地として広く紹介すれば利益は得られるかもしれないが、そのせいで土地が踏み荒らされたり、異文化の過剰な流入で街並みが変わることを嫌っている」
「そう。判るわ。外国人の私でも、この街が変わるなんて嫌だもの」
「君の気持ちは変わった?話をすり替える気なのかな」
 ナオミは言った。
「手紙を書くわ。この国に住みたくなったって」
 サトルはもう一度キスをした。
 蛇が力を貸してくれたような気がしていた。
 朝日は冷たい空を、薄く染めはじめていた。


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