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小説|腐った祝祭 第一章 30

前 腐った祝祭 第一章 29|mitsuki (note.com)

 一等車輌の席で、車窓を眺めるナオミを見ていた。
 既に街を抜け、郊外の牧草地の中を走っている。
 牧草地とは言え、今は一面雪に覆われて雪原になっていた。
 幸運にも空は青く晴れている。
 ナオミは時々曇るガラスをタオルで拭きながら、風景を楽しんでいた。
「積もっている雪が増えてきたみたい」
「これからもっと深くなるよ。でも良かった。この二、三日、天気はいいみたいだから」
「そう」
「ココアでも飲みに行こうか?これは寝台列車じゃないけど、食堂車もあるんだよ」
 目的の駅に到着するまで後3時間は必要だ。
 都心へ向かう列車は盛況のようだが、逆に郊外へ向かう列車は空いていた。特にサトルたちがいる一等車輌には、他の客は二人だけだ。一人ずつ、離れた席に座っている。
 サトルとナオミはゆったりとしたシートに並んですわっている。
 その前にも向かい合わせにシートがあり、その座面にはナオミの小さなバッグとストールが折りたたんで置いてあった。
 ウィリアムは通路を挟んだ隣のシートに座り、大人しく本を読んでいる。
 しかし時々、始めて乗ったという一等列車の内装や、その窓からの眺めを楽しんでいるようだった。
 二人の荷物はすぐ後ろのクローク車に預けたが、ウィリアムの小さな旅行鞄は彼の前の席に置いてある。
 ナオミはサトルを見上げて言った。
「ねえ、トランプをしましょうよ」
「トランプ?」
 ナオミは楽しそうにサトルの腕をつかまえて身を乗り出すと、ウィリアムに声をかけた。
「ビリー。出かける時にカードを持って行くって言ってたわよね?」
 急に呼ばれたビリーは、慌てて本を閉じた。
「あ、はい。はい、持っています」
「ね、サトルさん。三人で何かしましょうよ」
「いいよ。もちろん。だけど」
「なに?」
 ナオミを軽く睨む。
 怒っているわけではないが、少し拗ねるような感じで。
「ビリーだって?それは初めて聞いたよ。君たちはいつの間にそんなに親しくなったんだ」
 サトルは二人を見比べる。
 ナオミは笑っていたが、ビリーは緊張しているようだった。
「知らなかったの?そうね、あなたの前で話す機会がなかったのね。もうずいぶん前からそう呼んでるのよ。ね?ビリー」
「あ、はあ、その……」
 ビリーはすっかり恐縮している。
 ナオミは臆せずに話を進める。
「サトルさんは自分の馬の名前を知ってる?」
 少し考えて首を振る。
「知らない。名前がついてるのか」
「そうよ。私はレオンと一番相性がいいみたいなの。黒い馬よ。額に白い縦長の模様のある。あの子に乗る時は少しも怖くないの。だから最近は、」
「ちょっと待った」
 サトルはナオミの手を握って言葉を遮る。
 今度は少し怒っていた。
 ビリーは更に小さくなった。
「馬に乗る?最近は?どういうことだ。私は聞いていないよ」
 ナオミはじっとサトルの目を見て答えた。
「駄目なの?私、乗馬を習っちゃ駄目だった?ビリーたちの手が空いている時に頼んだの。あなたが出かけている時に。だって、国では馬を近くで見ることなんかほとんどなかったもの。ましてや乗せてもらえるなんて。一緒に高原に行ったでしょう?あの時、馬に乗れたらどんなに楽しいだろうって思ったの。だから、駄目かもしれないと思ったけど、思い切って頼んでみたのよ。ビリーたちはちゃんと、私が危なくないように注意して傍についてくれてたわ。もし駄目だったんなら、悪いのは私よ。だって、みんなはあなたの為に、私の言う事を聞いてくれてるんだもの」
 真摯な瞳でそんなことを言われると、怒るわけにはいかなくなる。
 自分の為に仕方なく、ナオミの言うことを使用人達が聞いているとは決して思わないが。
「駄目じゃないよ。ただ、何も聞いていなかったから驚いただけさ。でも、怪我のないようにしないといけないよ」
「ええ。大丈夫よ。レオンは優しいの」
「もし本格的に習いたいのなら、乗馬クラブに入っていいんだよ」
 ナオミは、それはやんわりと断った。
 ビリーたちとの方が気兼ねがなくていいようだ。
 それから三人はカードゲームを楽しんだ。
 ビリーはサトルとカードをすることになるとは思っていなかったようだが、だとすれば誰とやるつもりだったのか?この短い旅行中に。
 サトルはナオミの前に席を移動し、ビリーは借りた椅子を向かい合ったシートの間に置いて座った。
 こんな形でカードをするのは学生時代以来だなと思ったが、思った以上に楽しい一時だった。
 ゲームに飽きると、ナオミはこれから行くアーサー卿の別荘の様子を聞きたがった。
 ビリーは元の席に戻ろうとしたが、サトルが止めて、三人は三角形の位置で話を続けていた。
「きっとナオミが想像しているより小さな家だよ。客室が一つしかないんだから」
「ビリーはどうなるの?」
「それは大丈夫。他に泊まる場所はある」
 教会堂には住居用の建物が付随している。
 牧師にはすでにビリーの宿泊を頼んでいるし、ビリーも了解済みだ。
 ナオミには結婚式の話はまだしていない。
 年末年始の単なる小旅行だと思っているだろう。
「屋敷の近くにサライ・レノ・トゥーダ教会堂というのがある。あの集落の中心的な存在の教会だ。着いたらそこに行ってみよう」
「教会?」
「ああ。小さな教会だよ。あそこは避暑地だから、普段住んでいるのは、各別荘の管理人たちと近郊の農場主くらいなんだ。今の時期は農場の働き手も休みで帰るから、人はさらに減っているだろう。年越しの説教があるって言っていたけど、それほど人は集らないだろうね。でも歴史はある古い教会堂だよ。建物自体は築200年を越えている」
「そう。サライ・レ…」
「サライ・レノ・トゥーダ。サライの哀しみを癒す、っていう意味だ。語源で言えばトゥーダは古語で涙。それが転じて哀しみの意味になった。レノは月。月には癒すっていう意味が含まれている。けど、月で表す癒しにはその対象が特定されていて、公ではあまり取沙汰されないもの、陰に隠れているもの対して使われる」
「限られた事物に対して、動詞として使うってこと?」
「うん。事物に対してわざわざ『隠れた』、『陰の』と乗せなくても、そういう意味になる。だから、ナオミのケーキを私が食べてしまって、君が大声で泣いて悲しんでも、月では癒せない」
「どうしてそんな例えを出すの?私そんなことで泣かないわ」
「そうかい?」
 ふくれたナオミに、サトルは笑いながら言った。
「でも、ナオミがそこでは静かに我慢して、部屋に戻って一人で悲しんだり泣いたりするのを癒すには、月が活躍する」
「あ、判った。ケーキを食べられて誰かが慰めてくれた事で、月を使えば、それは私が陰でひっそり悲しんでたってことになるのね」
「うん」
「月を使わなかったら、私がみんなの前で嘆き悲しんだってことね」
「そうそう」
「例えには納得いかないけど、判ったわ。サライの涙を癒すための教会堂」
「サライが誰かは牧師に聞いてみるといい。勉強になるよ。ルル国教会の解釈は独特なんだ。牧師に聞くのが一番理解しやすいだろうね」
「そういえば、クリスマスの催し物はあまりなかったみたい」
「ルル国教会ではキリストの誕生日は不明のままだから、我々の国のように一般的なクリスマスの行事はないんだ。政教は分離していないけど、個人の宗教の自由は確保されているから、お祝いする人はしていただろう。だが、ルル国教会の教会堂では何もなかった筈だ。まあ、年末の時期をクリスマスと呼んだりする人もいるよ、割とね」
「そうなんだ」
「国民の85パーセントはルル国教会の信者だと言われてる。会員登録はないからこれはアンケートの結果だ」
 話はルルの言語について、に移行した。
「でも、ルル語以外に英語も普通に使われるから平気だろう?」
 ナオミは驚いて首を振る。
「平気じゃないわ。私の英語なんてやっとよ。大使館の人たちは私が上手くないことが判ってるから、広い解釈でやっと通じてるんだわ」
「そうか。だけど、最近はルルの言葉をよく話しているね」
「そう?そうね。既成概念がそれほどなかった分、素直に覚えられるのかも。必要性もあるし。ただきっと、かなりいい加減な文法になってると思うの。それに、いろいろ言葉が混ざっているでしょう?」
「通じればいいよ。この国の人は寛大だから」
「本当、よかったわ。そうでないと、恥ずかしくて一言も話せなかった気がする。この間、パン屋さんに行ってパンを買ったのね。ちゃんとセアラたちと一緒だったのよ。だけど、自分でこのパンには何が入っているのかって聞いてみたの。そうしたら、店員さんの方から、『慌てなくていいですから、もう一度ゆっくりおっしゃってください』って言われちゃった。すごく恥ずかしかったけど、その人は本当に親切で言ってくれているのが判ったから、ちゃんと言い直すことができたのよ」
「君はルル語で早口になるのかい?」
「緊張するとそうみたい。でも最近は、少しは上手くなってると思うの。どう、ビリー?私が話しているの判る?」
「はい。英語とルル語が混ざっているのは判ります」
 サトルは笑った。
「でもナオミ、君は気付いてないようだけど、時々母国語も出てきているよ。単語でね」
「本当?」
 ナオミはビリーにも聞いたが、時々わからない単語が出てくると彼は白状した。「でも、前後の文脈を考えれば、大抵は判りますから」。
 ナオミは「寛大だわ」と、溜め息混じりに言った。
「もっと勉強しなくちゃいけないわね。話す方は、ビリーみたいに寛大な人が相手なら平気だけど、文章を書くのはまだ全然できないわ」
「ルル語の特徴は、聞いた通りの音を文章化するところにあるから、その点では、我々は返って使いやすいんじゃないかな」
「クラウルもそんな風に言っていたわ。でも、どういう事なのかよく判らなかったの」
「つまり、判りやすい例で人物名をとってみようか。同じ名前が国によって読み方が変わることがあるだろう。例えばテレサという名前は、ドイツではテレジアと呼ばれ、フランスではテレーズになる。でもルルの場合は本人の発音のままに文章化される。だから、フランスから来たテレーズはテレーズだし、ドイツから来たテレジアはテレジアと書く。でも、スペイン語では二人ともテレサだね」
 ナオミは真面目な顔で聞いていた。
 そして言う。
「言ってることは判ったわ。とにかくルルの文字を早く覚えろっていうことね」
「そうだね」
 ナオミは肩をすくめて笑った。

 驚いたことに、準備を済ませて挙式のために教会堂に入ると、別荘の管理人夫婦とビリーの他に、皇太子とモルガ女史もその場にいた。
 教会堂は小さいながら三廊式の造りになっていて、列柱に挟まれた身廊と呼ばれる中央部分に二列に七つずつのベンチが設置されている。
 その間の絨毯敷きの通路に足を踏み入れると、最前列の左側に皇太子たちが、右側に三人が座っていた。
 サトルとナオミは、部屋の奥の半円形になったアプシスの前で待ち構えている牧師のもとまで歩いていき、そこで誓いを立てた。
 望み通りのシンプルな式を終え、牧師に礼をして、近付いてきた皇太子と女史に頭を下げる。
「ナオミをびっくりさせるつもりが、私まで驚くことになりました。ありがとうございます。でも、宮廷の方は大丈夫なんですか?」
「これからすぐ帰るんだ」
 二人は笑って言った。
「こっそり来たのよ。馬車を裏手に待たせてるんだから」
「君の結婚式を見逃す訳にはいかないからね」
「でも、春の結婚式と披露宴は私に任せてね。ナオミさんもいいでしょう?悪いようにはしないから」
 ナオミは微笑んで頷いた。
 モルガは改めて感激したように胸に手をあてて言う。
「ああ、本当におめでとう。お幸せにね」
「ありがとうございます」
 二人はそんな簡単な挨拶を交わしただけで、あっという間に帰っていった。
 それから管理人夫婦も家で食事の用意をして待っていると言って帰った。
 ビリーは牧師に連れて行かれた。今夜の説教の準備を手伝わされるらしい。
 そして、ナオミは怒っていた。
 教会の一室を借りて、ナオミの着替えを手伝っているところだ。
「酷いわ。何も教えてくれないなんて」
「びっくりさせたかったんだよ」
 ウェディングドレスの背中のホックを外してやると、サトルはすぐに部屋から追い出された。
 仕方ないので自分も別室で着替え、戻ってくる。
 ナオミの機嫌をこれ以上損ねないように、一応ドアをノックする。
 許可が出た。
 普段着のワンピースに着替えたナオミは、白いドレスを大きな衣装鞄にしまって、蓋を閉めていた。
 サトルは横に立って、蓋の金具を留めるのを手伝う。
 完成すると、ナオミを抱きしめる。
「本当に怒ってるの?」
「怒ってるわ。だって、自分の結婚式を知らない花嫁なんて、聞いたことないわ」
「困ったな。びっくりさせたかっただけなのに」
「びっくりしたわ!」
 興奮気味のナオミの顔をじっと見つめた。
「それなら、先刻の結婚式は無効かい?」
 ナオミは唇をきゅっと締めて、それから諦めたように言った。
「本当は怒ってなんかいないわ。びっくりしただけよ」
「じゃあ、指輪を突き返したりしないね?」
「しないわ」
「よかった」
 指輪は、いつか受け取ってもらえなかった金とダイヤのリングだった。
 その手をそっと持ち上げる。
「これは本当は婚約指輪なんだよ。君は今まで、これさえつけてくれなかったんだから」
「結婚指輪は、春の結婚式までお預けね」
「何だか、ややこしいな」
「ややこしくしてるのはサトルさんでしょ?」
「そうだった。でも、これは確かなことだと思っていいよね?君は、ナオミは私の妻だ」
「ええ。でも、本当にびっくりしたのよ。それは判ってね?私、呑気に旅行してる気分だったんだから。何の覚悟も出来てなかったんだから」
「判ってる。けど、今から覚悟してもらうよ。もう、私から離れられないからね。君は神様の前で私に約束したんだから。書類がないのをいい事に、逃げたりしたら罰があたるぞ」
「やだ、怖いこと言うのね。逃げたりしないわ」
 ナオミは笑って、サトルの頬にキスをした。
 ナオミの方からそうしてくれるのは初めてだった。
 アーサーの別荘では、ナオミが食事は大勢の方がいいと言うので、管理人夫婦を交えた四人で夕食をとった。
 夜には四人で雪の道を歩いてサライ・レノ・トゥーダに戻り、牧師のありがたい説教を聴いた。
 沢山の蝋燭で照らし出された教会堂の中、荘厳な雰囲気で新年を迎え、ビリーと少し話をして別荘へ帰る。
 行きも帰りも雪は降らずにいてくれた。
 雪道でも、ナオミと歩けば少しも面倒な気分にはならなかった。
 二人は始めて雪の降った日に買った、揃いのコートを着ていた。
 グレーのトレンチコートだが、素材がウールでウェストの位置が高く、細身で美しいラインに仕上がっている。もちろんナオミが選んだ。サトルのコートの方が丈は少し短めになっていた。
 管理人夫婦に就寝の挨拶をして、二人は二階の客間に引き上げる。
 アーサーの部屋の隣の部屋でスウィートルームの客間だった。
 アーサーの部屋も同じような感じだろう。
 広い部屋だが、二階にこの部屋が二つあるきりの、小さな可愛らしい別荘だ。
 教会では、サトルは澄ました顔で牧師の説教を聞いていたが、真実を言えば頭の中にはナオミのことしか浮かんでいなかった。
 新年を告げる鐘の響きを聴いて、ナオミが「おめでとう」と言った時も、微笑んで言葉を返しながら、彼女を抱くことばかりを考えていた。
 そしてサトルは、彼女の衣服を一つずつ丁寧に剥いでいった。

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