学校課題解決の視点

 少し読みやすくしないといけないと思い始めた今日この頃。元来文章が理解不能になってしまうことは大学時代からずっと指摘されてきました。今までお読みいただいた方々申し訳ありません。
 子どもにはできるだけ短く、でもわかりやすくとして文章指導、要約指導をするのですが、大人向けには気にもしてませんでした。反省して少しでも伝わりやすい努力をしてみます。

学校教育現場の無限拡張地獄

 少し前に書いたように学校現場はスケールやターゲットによって平気で結論の方向性が変わる不思議な空間です。教育学に連字符が多いと言われる所以だと思います。〇〇教育学というやつです。そもそもそんなことを意識している大学教員もあまりいません。狭い研究分野のさらに狭い自分だけの研究領域でサバイブすることが彼らの到達目標だからです。それが悪いとは言いません。学問の発達形態としての細分化は当然のことだからです。方法序説だったかな?しかしどこかでその細分化された成果を橋渡ししてまとめていく作業が必要なはずなのですが、日本の学術研究はここを著しく阻害する力が働いていることは実は中で働いている人間が一番よくわかっているはずです。だからこそ内側でのサバイブに腐心せざるを得ない。成田悠輔さんや東浩紀さんなどが外側から指摘しようとしているのはこの阻害要因の部分だと思います。内田樹さんはそもそもこうしたこととは正対しないで、その問題自体を街場化(一般人にわかりやすく表現すること?)することを仕事にされているんだと思います。
 さて私はいまだサバイブに腐心している方の方々が作った研究成果(?)が学校教育のハウルの動く城的な無限拡張に一役買っていることを指摘している文章に出会ったことがありません。これが大きな問題だと思うんです。

「お仲間」で話すときの礼儀としての定義

 日本の学術界は、仲間内で話す礼儀としての定義を知らない人間を仲間外れにします。それはわかる。仕方ない部分もある。生半可な知識と思いつきで話す人とまともに付き合っていたらいくら時間があっても足りないからです。ちなみに学校はそんなことばかりです。特に小学校は。ルールやレギュレーションが行き渡っていないからです。でも教員同士で話していても同様のことが多くてこの部分はなんとかしなきゃいかんと思っています。それが教育の共通言語化という方向性なんですが、note書いているうちに果たしていいことなのかどうかは不安になってきました。
 とりわけ文系の学術界においては個別に真偽や違いが定量的に示されない定義化が非常に多く行われています。同じ言葉が別の意味で相当数定義されていたり、同じ意味が別の言葉で定義されていたりするんです。でも定義についての良し悪しや運用方法を吟味することが業績に繋がりマネタイズできるから研究者にとっては大変便利です。排除して稼ぐ機能を無限ループさせる。定義は学術界においては既得権益化していると主張する所以です。

ハウルの動く城は教育現場の様相

 「ハウルの動く城的な」は私の個人的な指摘の方法だと思うのでマネタイズ抜きでご説明させていただきます。ハウルの動く城はちゃんと目的に向かって動いています。動力および最終目的地は謎です。おそらくどこかが損傷してもとにかく動き続ける。一個一個のパーツはちゃんとそのものとして成立してますが総体としてはつながり方や見た目は明らかにおかしい。だが乗っている人にはその奇妙さがわからない。これからさらに無限に拡張可能しそう。おそらく宮崎駿さんは意図してると思うのですが、この奇妙さは現実世界に起こっている様々な事象を揶揄しているではないかなということ。あまりジブリ本を読まないのでもしかしたらどこかで語られていることの焼き直しかもしれません。私が自分の知識の中で最も詳しいと思っている教育現場の諸々の事例と噛み合うことがとても多いので、よく使わせていただいています。価値観は右でも左でもどちらでも構わないので(少なくとも私は)この前提を踏まえて学校の課題を議論できる人ばかりだと非常に助かるのですが、どうも議論が噛み合わず時間ばかりかかってもどかしい思いをよくします。

個別の視点からではなく大きな枠組みの側から学校課題を見る

 もちろんドメスティックにこだわり突き詰めていくことも大切なのですが、学校全体の視点からの取りまとめていく方が結果的には良いと思います。本来は教師がドメスティックに突き進み、学校教育目標や学校経営方針の方から学校や地域の現状を踏まえて意味付けしながら取りまとめていく方が最も効率的だと思うのですが、残念ながらそうはなっていません。先出しだから仕方ないのもあると思いますが、基本的に目標と活動、課題と解決が連動していない学校教育目標や学校経営方針の文章しか見ません。支配、調節能力はあっても経営能力のある管理職が一人もいないということです。しかも地方公共団体には教育経営のプロとして指導主事を配置していない。個別問題調整型(解決はしない先送りは得意)を重用して吉本興業のマネージャーみたいに短期的に異動させて全ての課題を有耶無耶にしていきます。如何ともし難い状況です。
 さてどうするか?なるべく多くの教員が個別の視点ではなく、学校全体を見る視点から議論を作り、広めていけばというすごい安易な結論に到達していきます。情けない。しかし、学校課題に対する最優先事項へのアクセスはとても大切ですが実際には誰悪い?のハナシになっちゃうのでみんなが口をつぐみます。そしてテレビ的な誤魔化しの綺麗事コメントで溢れかえるわけです。人前で綺麗事言う人をあんまり信用しません。言わなさすぎて嫌われているからこそ、なおさらそういう文化を重視したい。実は私心を捨てて学校全体の本音をバカみたいに出す生活を職員会議なんかで続けていると、多数から嫌われますが同時に何故か少数から異様に信頼される経験をよくするわけです。私は変な親衛隊を作りたいわけでもないし、表立って私を支持すればいじめに遭うことくらい教員ならわかるので常に一匹狼なのですが、そう振る舞っているとそこそこ良い方向に動き始める経験が存在します。本当に少しずつでいいからメタに見て動くことに力を振れる人へのコミットを増やす意識を持とうということです。効果の出ないくらい遠回しの行動がいい距離感だということを文章化してみました。五条悟風に言うなら「強く聡い仲間を増やす」行為だということです。

結局見出しつけただけでわかりにくくなってしまった。

 本当は学校現場の心理的安全性について書き始めた文章が壮大に話が逸れたので、反省して短くわかりやすくなるようにハウルの動く城的な学校教育現場課題への対処方法についてに変更したら、いつもの如くとっ散らかってしまいました。しかも長文。申し訳ありません。ニュアンスだけ感じ取っていただければ幸甚です。

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