登校するとはどういうことか?
学校に来るということはどういうことなのか?不登校を語る上で欠かすことのできない視点であると思う。
これは大人の流行りで言えば、出社を強要するアマゾンやテスラのようなもんだと考えて差し支えがないと思う。報道が事実ならこれらの企業の経営者は間違いなく出社した方がパフォーマンスが上がると理解していることになる。パフォーマンスが上がるかどうかは関係ない。そう考えていることのみで捉えて差し支えない。それが経営判断というものであろう。それが原因で優秀な人材が流出しても構わないということである。それが原因で売り上げ、利益が落ちても構わないということである。労働者にはまことに申し訳ないが私はこの考えを支持する。もしかしたら環境を破壊する面もあるかもしれないし、通勤することで事故に逢う確率が上がるかもしれない。それでもである。
結果、労働者個人の価値とその充足がそれで満たされるならばそこは譲るべきではないか?可能性はあくまでも可能性であって蓋然性ではない。よってこの問いには個人的にはそう答えたい。それは怠け者気質であり、何でも形から入る私個人を俯瞰しての結論であるわけです。私なんかが家に居て誰にも監視されない状況で働くわけがないというだけの単純な話なんですが・・・。
大層なもの言いをしましたが、少なからず子ども一般にもそういう側面があるのではないかと思います。もちろん個別の事情を加味してもです。システムとしては学校に来ることと学ぶことが同義であるという寸法です。これは異論噴出でしょう。異論ついでに言っておけば、よく一斉授業を表す挿し絵があるんですが、私あれ好きなんですよね。狭い円形の台の上に書物を指す教師を中心に子どもがおしくらまんじゅうのようにかたまっている絵です。なんだか「学んでるぞ!」っていう感じがするんですよ。ロジカルなことを言っておきながらこういうとこが昭和なんだよなぁとつくづく思ってしまいます。でも今の来なくてもいい、学ばなくてもいい学校なんかよりそっちの方が何倍も愉しいんじゃないかと思うんです。母子分離できずに毎日学校についてくるお母ちゃんを見るたんびにこれで幸せなんだろうか?と思います。(たとえ相互依存関係であってもです。)でもそういうことを安易に受け入れる学校を作ってしまっているのは実は私たち学校の側なのではないかという反省も同時に生まれてきます。
しかし、学校は来るもんだ!勉強はやるもんだ!ということに対する懐疑は、事後にしかわからないやってみた結果による効能そのものをやる前から打ち捨てるという行動の矛盾を平然と受け入れる蓋然性を非常に高めていると考えます。
日本語としておかしいかもしれませんが、やった後にしか気づかないものを持ち合わせている行為の判定を子どもに委ねるということはアカンことではないかというありがちな結論です。経験が物を言うそうした判断には年長者の意見を聞くというこれまでのステレオタイプな経験主義を指示するというだけの話です。それはポストモダンやポスト・ポストモダンが暴き出した社会構造の欺瞞に対して家父長制丸出しの時代遅れが対抗するような老害行為の見本みたいもんですが、そうした角度から登校を掘り下げてみたいと思います。確実に時代逆行型です。
まず当然ながら登校を促す必要があります。
ありがたいことに日本はこれに対してまだまだ信頼感の方が強いです。初等教育の場合は全体的に学校にお任せにする方がおトクであるという発想がはたらいています。これについては、月並みながら学校側としてはやはり責任の重さを痛感するわけです。なんとかしてお子様の変貌した姿を保護者にお見せしなければならないという使命感に駆られます。この変貌はほとんどの場合学級担任にしか出せない味付けになります。教科担任として登校を推すやり方がなくはないですが、どうしても子どもにおもねった味付けの授業にならざるを得ない。面白さだけでは無理なので楽しさをマシマシしなければなりません。少なくとも経験上はそうなります。それではガツンとはいけないので学びの質は思いどおりにコントロールしにくいです。つまり射幸性を煽って学習による要望を著しく低下させていくことになります。そうしなくて済むのは学級担任の立場にあって学習の要望が強くあったとしても別の角度、教科、志向、視座からフォローできることが可能な場合になると考えます。
しかし他方教科担任制であるからこそ、その教科指導には自信があるから大丈夫という真逆のご意見があることを別の方のnoteにて知りました。全教科に自信を持つことなどできないという思考法なのだそうです。しかしそれは私の思考からは全く逆発想なので驚きを禁じ得ませんでした。私からすれば1教科の指導方法が絶対的に上手いなんて口が裂けても言えません。全教科で自信があるなんてとてもとても・・・いろいろな教科があり、指導のバリエーションがあるからこそ人間性の合う合わないを乗り越えていけると思うんです。一人の人間の一つの教科が指導法や指導の雰囲気として誰よりも勝っているというのは思い込みに過ぎないと感じます。合う合わない以前の問題として。
つまり登校のためには学習の要望のハードルを下げた方が良いのではないか?それは学級担任込みの話としてです。
ここで困ったことが起きます。
今の学校が主体的対話的で深い学びを学校に求めている。つまり学校は子どもにそうした学びの構えを求めざるを得ない。これを学習の要望を引き下げるという話とは真逆に行っていると考えます。この文言を使って実は非常に要望を下げている子どもにおもねった考え方があることは承知しています。イエナプランの採用をそうした主体的で(大人との)対話的であるとのたまう筋もそれに近いかもしれません。しかしそれではそうがんばっても深い学びにはなれない。このスローガンを3つが同時並列もしくは主体的対話的に先に深い学びを生み出すと読むのなら深まりを持った学習である必要があることになるからです。それはかなり高度な学習の要求ではないかと個人的には思います。
こうした股裂状態を容認している社会や政治そのものが学校を困難な状態にしてしまっているのではないか。そうした状態の放置が日本社会の形成に教育の悪い後味を残しているのではないかというのが私の登校に関する仮説であるということです。
しかしそこをオルタナティブスクールやフルースクール、イエナプランやドルトンプラン、ギフテッドやパブリックスクールといった別のスタイルの学校によって代替することは単なる子どもの分断であって解決方法の一助にはならないと思います。緊急避難的な選択肢ではあるけれども、登校を促す本道ではない。本質的な、そして公的な、平等な発想として初等教育には寄与しないと思います。どんな子どもも一律に登校できる学校を作ることがしょうがい児に限ったことではないインクルーシブだと考えるからです。それをインクルージョンというとかいうネーミングにはあまり興味がありません。
そういう意味では学習指導要領の拘束性を高めることはより子どもを学校から遠ざける効果を高めると思いますし、学校や教職員が学習の要望を高めるような取り組みに走ることは学校が自然に持つ魅力を減じていくことだと考えます。
通級指導や学びの多様化学校のように登校を個別化するのではなく、登校自体が一般化していてどの子どもも同じようなマインドセットで通えるようになるフラットなラインを学校の基礎とするようにしなければならないのではないでしょうか?それが登校のハードルの高さとして適切なのではないかと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?