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真弓

 
 昭和三十五年  
 河原をとりまく青々とした木々のうちがわに降り注ぐ光が薄茶色の小石に反射して、あたりを一層明るく輝かせている。

 暖かい陽の光に包まれて、ちょこちょこ移動してはしゃがんで遊んでいる。
 上流から水が流れて来る。
 ちょろちょろでもなく、ざーでもない。
 丁度いい感じの流れ。
 手首まで入れなくても川底に触れられる。
 指先でかき混ぜると透明だった水がたちまち白く濁る。
 茶色ではなく真っ白に濁る。
 浅い川底に溜まっていたのは泥ではなくて、湯の花だ。

 温泉は温かくて面白い。

 しばらく遊んで飽きると家に帰る。家までは子供の足でも五分とかからない。

 ここは有名な温泉地だ。
 
 河原を出ると左右に店が並んでいる。左側は写真屋さん、その先に焼きまんじゅう屋さん、右側は先ずお土産屋さん、そしてまた写真屋さん。その先が我が家。
我が家の斜め上の家も写真屋さん。何でこんなに写真屋さんばかりあるのかと言うと、多分観光客が河原の奥にある露天風呂を背景にして記念写真を撮ってもらうからだと思う。
 

 ある日突然、母に近くの保育園に連れて来られて、そして置いて行かれた。新学期の4月ではなく、多分秋頃。砂場で遊んでいる子達、遊具で遊んでいる子達、鬼ごっこをしている子達。園庭に子供達の輪がいくつか出来ていて、その輪の子達が、誰?と言う顔をして私を見て、そしてまた何事も無かったように遊びを続けた。
 ワ―楽しそう!一緒に遊びたい、なんてこれっぽっちも思わず子供ながらに疎外感だけを覚えた。
 
 それからどうやって園を抜け出したか覚えてないけど、割烹着を着て洗い物をしている母の脇にしっかり立っていた。
 家から保育園までは近く、なだらかな一本の坂道だった。
 
 次の日もその次の日も保育園に 
 置いて行かれた。
 だけど、
 次の日もその次の日も抜け出し
 て家に帰った。
 
 大人達は観念して私はまた自由
 の身になつた。



 「行ってきまーす」と言って家を出る。ちょっとだけぶらぶら歩くと写真屋さんに着く。
 「真弓」と言って写真屋のおじさんは嬉しそうに私を抱っこする。おじさんは太っていて、大柄な人だった。にこにこ抱っこして、私の顔を見ると直ぐ降ろして「はい」と言って、十円玉を私の手のひらの中に置く。
 大きくて厚くて温かい手。
 それがおじさんの日課だ。
 滞在時間五分。「ありがとう」と言って店を出る。店の戸はいつも開けぱらっている。おじさんの家には子供がいない。子供が出来なかったのだ。
 十円あれば駄菓子屋さんで何か好きな物が買えた。にこにこ顔のおじさんを背にして、今日もまた河原で遊ぶ。

 河原は相変わらず明るくて
 温泉は温かい。

 そのうち一人遊びに飽きて帰る。
 我が家のちょっと手前のおじさんちにも顔を出す。このおじさんの家にも子供がいない。顔を見せるととても喜んでお菓子をくれる。父の友人だ。
 
 私の姉達をはじめ、近所の子供達はみんな学校に行っていた。
だから、一人昼間ちょこちょこぶらぶらしている私をおじさん達もおばさん達も可愛がってくれた。
 
 寂しいと思った記憶がない。
 自由で明るくて暖かい場所。

 
 下校時間になって姉や近所のお兄さんお姉さん達が帰って来ると
私も途端に忙しくなる。
 置いていかれないように、遊びにまぜてもらえるように必死に付いてまわる。
 
 昼間のゆったりした時間は遥か遠くに行ってしまっている。

 夕方になると子供達はみんなそれぞれ自分の家に帰って行く。
 暫くすると夕闇の中、街灯が灯され暗いオレンジ色の道路は旅館の浴衣を着た大人達だけのものになった。
 

 夕食を済ませると姉達は多分宿題でもするのだろう。机に向かって教科書とノートを開いている。
 私はその間、何をしていたんだろう。多分ゴロゴロ?家の中をウロウロ?テレビはあったけど、体中ぐるぐる包帯を巻いたミイラ男が出てくる怖い話のドラマはとても一人では見れなかった。
 寝る前に姉達とお風呂に入る。      
 我が家は小さな旅館だ。
 お風呂は大きくはないが姉達と入っても余裕の広さで、しかも何と岩風呂で足もとは細かい石でじゃりじゃりしてて温泉が湧き出ていた。
 姉達と入る温泉は私をとても気持ち良く幸せにしてくれた。
 そして幸せのまま布団に入って寝た。
 

 家の隣はバーだった。昼間何度か入った事がある。親に回覧板を置いて来るように言われたからだ。
 昼間なのに薄暗く長いカウターとくるくる回る背の高い椅子があった。そしてカウンターの奥の棚には色々な瓶がびっしり置かれていた。どれも暗い色の瓶ばかりで、それが辺りを一層暗くしていた。
 誰もいなくてシーンとしていて不気味だつたので、声も掛けず回覧板をカウターに置くとそそくさと帰った。

 ある日、近所の子供会の行事がそのバーで行なわれる事になった。そのバーに小学生の子供が二人いたからだ。もちろん昼間。
 姉の情報によると、何とチョコレートパフェが子供達に振る舞われるそうだ。当時チョコレートパフェなんて洒落たものは、すごく珍しくテレビか雑誌でしか見た事がなかった。
 私も行きたいと全身全霊でお願いしたけど、姉は小学生になってないから、子供会に入ってないから駄目と言って、連れて行ってくれなかった。
 わんわん泣きながら走って子供部屋に行って姉の机の上の教科書を手当たり次第破いた。

 そとは土手も木も道も真っ白だった。

 六十年以上たった今でも覚えてる。酷い妹だ。
 いつだったか勇気を出してその時の事を覚えているか姉に聞いてみたら覚えていないとさらりと言われた。
 私は今でも時々ごめんなさいと
 心の中で謝っている。
 今でもチクリと痛い。



 四歳下の弟が生まれた。
母は産後の肥立ちが思わしくなく、そののち生死を彷徨った。
 就学前の私の面倒を父の姉である叔母がみてくれる事になった。
 母の見舞いに来た叔母は私を連れて帰った。
 バス、電車、バスと何時間もかかった。
 初めて見る海。
そこからまたバスに乗ってどんどん海から離れて行く。

 初めて見る広くて平らな場所。 
 ずっと田んぼが続いていて、道路の端にある電柱が真っ直ぐ高く等間隔でずっと向こうまで綺麗にならんでいた。
 凄い、絵みたいだと心の中で呟いた。
 自分の住んでいる町にはこんな所、何処にもない。平らな道があってもその両側には色んな建物が所狭しと並んでいる。
 観光地だから、お土産屋さんとか旅館とか食堂とかごちゃごちゃ並んでいる。
 見上げなければ空は見えないけど、ここは見上げなくても空が見える。
 青い空がずっと向こうまで広がっている。   
 空に包まれているみたいだ。

 
 平らな道を叔母と二人で暫く歩いた。右側は一面田んぼで、左側には民家がぽつんぽつんと建っていて、その間になだらかな坂道が延びていてそこにも民家がぽつんぽつんと建っていた。坂道の途中に叔母の家があった。
 家に入ると叔父がにこにこ出迎えてくれた。
 自分の家、自分が知っている家とは全く違っていた。
広い土間があって、土間から階段を三?四?五段?(記憶が曖昧だ。)上がると居間があった。
 その続き部屋の奥の襖を開けるとまた部屋があって、壁際には大きな仏壇があった。薄暗くて怖い部屋だったのでそこには一度しか行かなかった。
 トイレは土間の向こう側。台所とお風呂が土間に続いてあった。 見たこともないつくりの家にわくわくした。
 叔母の家には高校に通ういとこのお姉さんがいた。だから夕方にならないと帰ってこなかった。
 温かい夕飯をみんなで食べて、初めて見た薪のお風呂にいとこのお姉さんと入った。いとこは優しく私の体を洗ってくれた。さっぱりした気持ちのよさと長旅で疲れた体で布団に入ったら、あっと言う間に明るい朝になっていた。

 床に付している母の事はすっぽり頭から抜けていた。
 子供だからかなのか、私が馬鹿なのか、わからない。

 朝ご飯を済ますと叔母は私を連れて近所の家に挨拶に廻った。
 小さい姪を連れて来た事情を伝え、それから宜しくお願いしますと頭を下げた。
 斜め上の一番近い家。その家には私と年の近い男の子と女の子がいた。男の子は多分一歳か二歳年上で女の子は年下だった。
 珍しそうに私を見てそして直ぐ受け入れてくれた。その家のおばさんが山羊のお乳、飲んだことある?と言うので無いと言ったら、飲んでみる?と言うので「うん!」と言った。
 オオー、山羊を見るのも初めてだけど、何とお乳まで飲めるのか。内心ドキドキしながら口に含んだ。生温かくて、味は普通だった。子供達とは直ぐ仲良くなって遊んだ。
 ある日上の男の子が一番下の兄弟が赤ちゃんの時、お便所に落ちて死んだんだと言った。そんな恐ろしい事があるんだと思って、その家の便器をのぞいたら、とても深くて一瞬でお便所から逃げた。
なのにおばさんは普通にしてて優しくしてくれて凄いと子供ながらに思った。
 次の日、川遊びにその兄妹と行った。川幅は広く大きな石が両側にゴロゴロあって歩きづらかった。川の土手の所に麦わら帽子を被った大人が二人、子供達が怪我をしないように監視をしていた。 
 泳いで良い日は土手に大きな旗が立っていた。遠くから旗が遊んでいいぞ、こっちにおいでと言っているように見えた。
 近所の子達があちこちで泳いでいる。川は浅く流れがその辺りだけとまっていた。こんな広い川は初めてで、こんなに暑い日差しも初めてだった。
 泳げない私は浮き輪でばちゃばちゃ水を弾いたり、体をぐるぐる回したり、ぽかんと浮いたりしていた。
 旗が立てられた日は欠かさず川に行った。
 大きな岩がこんなに熱いなんて知らなかった。

  叔母の家の裏庭には小さな小屋があった。小屋の中には畑で使う道具みたいなものが色々置いてあった。ふと見上げると天井の梁に蛇のぬけ殻が何本も干してあった。叔母の家は不思議なものだらけだ。
 ある日道の下の方から音がした。その音を聞いた叔母は小屋からなにやら大きな袋を持ち出して音のする方に行った。すぐさま私も付いて行った。
 何だろうと思っていると、バンバンと大きな音がして、あっと言う間に大きな筒からポップコーンがボコボコ出て来た。
 此処は何て面白い所なんだ、と感動しながらポップコーンを抱いて帰った。
 ある日いとこのお兄さんが帰って来た。私より十五歳以上上で仕事がお休みで帰って来たらしい。その日は旗が立っていなかったけど川に遊びにいった。川に水がほとんどなくて大きな石がゴロゴロしていて歩きづらかった。
そしたら川を歩きながらいとこのお兄さんがこの石のなかに金が入っている石があって、それを見つけて集めればお金持になれると教えてくれた。
 凄い!と感動して歩きながら適当な軽そうな石を見つけては大きな岩にぶつけて割ってみた。金らしきものは見つからなかった。
 疲れたけど体は軽かった。つくづく不思議な事ばかりだと思った。 
 一ヶ月以上いて、私は真っ黒に日焼けして叔母と自分の町に帰った。



 昭和三十八年
 小学校一年生の時に新しい旅館に引っ越した。
 新しい旅館は勿論前の旅館と同じ町内だけど、だいぶ離れた。
 前の旅館は観光名所の直ぐそばだったけど、今度は駅の直ぐそばで、町のシンボルからも近かった。前の場所よりもっとごちゃごちゃしてて賑やかな所だ。
 木造三階建て地下一階。ぎゅうぎゅう詰めで九十人ぐらい入った。
 九十人と聞くとさぞかし大きな旅館だと思うかも知れないが部屋数は十五室だ。十畳に十人入れられてもお客様は皆当然のような顔をしていた。
 一階は厨房と小さい休憩室、宴会場とトイレと家族用の居間、両親の寝室、子供部屋。2階、3階は客室。地下に男湯、女湯。
 近県の農家のおじいちゃん、おばあちゃんが春から稲刈り前までに五泊六日とかで団体でやって来る。次から次とやって来る。秋は会社の慰安旅行が多い。冬はスキー目当ての若い家族連れやグループでごった返していた。

  
 一年生の初めての国語の授業の時、度肝を抜かれた。
 先生が黒板に大きく日曜、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜と横一列に書いていった。カレンダーの上段を書いたのだ。その一列を手のひらで指しながら「一週間は何曜日から始まると思いますか?」と言って教室を見渡した。「日曜日から始まると思う人」と言ったら「はい」「はい」と何人も直ぐさま手を挙げた。「月曜日から始まると思う人?」私は、はたと考えた。学校が月曜日から始まるんだから月曜じゃないのか?先生は何でこんな質問をするんだ?
 そもそも私の生活の中にカレンダーは存在しなかった。
 次にあいうえおの勉強が始まった。ノートの四角い大きなマスの中に「あ」と書くのだ。
 私以外の多くの子が五十音を読めて、ひらがなを書く事が出来た。凄い!何で皆知っているんだ?学校で初めて教わるんじゃないのか?
 その時の衝撃は今でもはっきり    
 覚えている。
 その時の自分に教えてあげた    
 い。
 皆保育園か幼稚園に毎日通って曜日も認識して、年中、年長さんになれば皆多少なりとも勉強するんだよ、と。
 保育園にも行かず毎日ぶらぶら自由に過ごしていたあんたとは違うんだよ、と。
 一番始めの授業から皆が私の知らない事を知っている事に感動と尊敬をおぼえた私はそれから必死に授業を受けた。



 毎朝何時に起きていたか覚えていないけど、朝起きて身支度をして洗顔をして、ささっと髪を梳かす。
 「おはようございます」と言いながら旅館の厨房に入る。厨房にはすでに女中さん達が忙しそうに働いている。
 高級旅館ではないので板前さんはいない。夕食に出るお刺し身は専門の魚屋さんから綺麗な刺身鉢にもられて時間になると届けられる。串を通され尾にたっぷり塩を塗られ美味しそうに焼かれた川魚も専門店から届く。揚げた鶏もも、カツなんかはお肉屋さんから届く。
 旅館では煮物や酢の物、御浸しとか、洋皿に使うキャベツを刻むとか、御吸物や味噌汁を作れば良いのだ。
 母は相変らず体調がすぐれないので床に伏している。父も厨房にはあまり顔を出さない。
 お客様が大勢いる時は手がまわらないので特に家族用の食事は作らずお客様用の料理から取り分けて済ませている。
 お客様が少ない時は家庭料理が作られる。
 挨拶を済ますと丈夫な金属製の大きなお盆に自分の白ご飯、味噌汁、おかずを女中さん達の邪魔にならないように適当にさっと乗せて居間にもって行って食べる。
 誰と食べたかまったく覚えていない。 
 不思議だ。
 多分姉達のほうが早く食べて先に登校していたのだろう。


 父は大正四年生まれで四十二歳の時に私が生まれた。
 シベリア抑留生活五年を経て日本本国に引き上げて来た。
無事我が家にたどり着くとそれから三日三晩友人達と町に繰り出して飲み明かしたらしい。
 父は左足の膝裏辺りを撃たれたのでほんの僅か足を引きずり、歩くと両肩が僅かに上下に揺れる。
 右手の甲は焦げ茶色になっている。目の前で爆弾が破裂した時思わず手の平で目をかばったために火傷を負ったのだ。
 それでもこうして五体満足で帰って来れたのだから運が良かったのだろう。
 帰国後産まれた姉にはよく戦争の話をしたらしいが六歳下の私は一度も聞いた事がなかった。
 聞けた方がよかったのか、聞かされない方が良かったのか。
それは考えても仕方の無い事なのだろう。
 ただ時々眼光の鋭い父の顔を見た時、子供ながらにその向こうに戦争が見えた気がした。

 
 我が家は夕飯だけは家族全員揃って食べた。
 日暮れまで友達と外で遊んでいる弟を呼びに行くのはいつも私だ。
 たまたまなんだろうけど弟の同級生、しかも男の子が近所に沢山いた。だから弟は遊び友達に事欠かなかった。すぐ近所の路地に行くと案の定、当時流行っていた“べー駒”をやっていた。「ご飯!」そう言うと弟は慌て止めて付いてくる。
 日没前の薄っすらとした影の中で遊んでいる弟を探し、見つける事は嫌ではなかった。
 穏やかで温かい時間。 
 家族全員揃って食べる夕食の時間は好きだった。
 食べている時の父は概ね機嫌が良く、母は大きな声を出す事もなく家族の会話を楽しみながら食事をしていた。
 そんな有りふれた一家団らんの時間を過ごした数時間後、父はお酒を飲みにしょっちゅう出かける。何時に帰って来たか分からないが朝にはいた。
 ある時は酌婦さんを二人連れてべろんべろんに酔っ払って帰って来た。子どもながらに母が居るのに、と思った。父を送り届けると長居せずに酌婦さん達は帰って行った。
 またある朝、いつまでも寝ている父を起こそうと掛け布団をはいだら野良犬が父と一緒に寝ていた。嘘のようで本当の話だ。

 だから父の夜はでたらめだ。

 父には世間でよく言う“飲む打つ買うの三拍子”がそろっていた。自分の妻は病弱で子供達は小さくはなかったけど、大人でもないのに。
 子供には早寝早起き、家の手伝いを必須とした。
 子供達の学校の成績には全くと言っていいほど興味がなく、”読み書きそろばん“が出来れば良いと思っていた。
 だから友達がそろばん塾に通い始めたのを聞いて興味本位で私も通いたいと言ったら直ぐ様許可してくれた。
 さしたる目標も無かった私は飽きては辞め、また別のそろばん塾に誘われれば通うといった有り様で、最終的には三箇所そろばん塾めぐりをした。そのかいあってか計算はクラス一速くなった。

 お客様が皆帰って次のお客様が来るまでの旅館はしーんとしていて、その時間帯の宴会場は特に静かだった。
 小学校四年生くらいになるといつの間にか私は読書好きな少女になっていた。
 学校の図書室から本を借りて来ては誰もいない宴会場の隅で毎日本を読んでいた。
 ”アルプスの少女ハイジ“を読んでは一人干し草のベットを想像したり、その本に出てくる山羊の挿し絵を見て、昔叔母の家の近所の山羊を思い出して、そのついでに宝箱の中の宝石のようなあのひと夏の暮らしを一つ一つ思い出したり、クララとハイジの友情に涙したり、“ああ無情”を何日もかけて読んで、ジャン・ヴァルジャンに同情して嗚咽をもらしたり、ジャヴェール警部を心の底から憎んだりして、甘美なひとときを過ごしていた。

 十歳の少女にも甘美な時間はあるのだ。

 
 長い夏休みは私にとってはあっと言う間だ。
 早朝のラジオ体操は欠かさず行ったという記憶はないが、旅館の手伝いは朝から晩まで夏休み中目一杯した。
 十歳でも出来る事、役に立つ事は山ほどあるのだ。
 朝食のお膳に生玉子や焼海苔を八段ぐらいづつ綺麗に横一列に並べられたお膳の一番端の上から順番にセットしたり、漬物ののった皿や小鉢をセットしたり。
 金属の長方形の大きなお盆にお味噌汁のお椀を並べてそこの中に戻したワカメや刻みねぎを入れたり。
 朝は大忙しだから私ももたもたして居られない。
 皆自分の仕事をテキパキとこなす。見事な連携が取られている。「桔梗の間、行きまーす」と一人の女中さんが言ってお膳を客室に運ぶ、それを聞いて直ぐ様叔母がお鉢にご飯を詰める。(夏になると叔母が手伝いに来てくれるようになっていた。)それと一緒にお味噌汁を運ぶ人。
 バンバン運ばれあっと言う間に積み重ねられたお膳はなくなる。
 
 お客様が食事をしている間に私達もさっと朝食を取る。食事の最後に皆湯呑み茶碗に軽く一杯お茶を啜るとさっさと自分の使った食器を洗い場に持って行き、2階の客室に行ってお客様が食べ終わったお膳を下げて来る。
 下げられたお膳を片っ端から崩して、食器を洗い桶の横の台の上に置くのが私の仕事だ。台の上が一杯になると、その食器を一枚づつお湯で流して洗い桶に入れる。
 集中してさっさと片付けないと九十人分のお膳で厨房の床が一杯になって身動きが出来なくなってしまう。必死だ。
 次は空になって積まれたお膳をまた片っ端から布巾で綺麗に拭いてまた積んで行く。 
 この作業の中盤くらいになって来ると流石に嫌になってくるけど、そこは大人の目があるから頑張って最後まで終わらす。
 十歳なのに一人前に扱って貰いたい自分がいる。
 子供なりに仕事を終えると達成感もあって清々しい気持ちになるし、周りの大人に褒められるとやっぱり嬉しい。
 子供が一生懸命家業を手伝っているのを見ると、お客様も微笑ましく思うらしくたまにお小遣いをくれる。
 お昼休みになると今度はとうもろこしの皮を手の空いている者が剥き、それを叔母が大きな蒸しがまで蒸し、出来上がったら大きな金属製のお盆に並べて塩をふる。  
 二段、三段に積み上げられて湯気のたっている美味しそうなとうもろこしを両手にしっかり持って各部屋に売りに行くのは私だ。
 一本いくらで売ったかは覚えていないけど、「失礼しまーす」と言って「とうもろこしはいかがですか」と言うと我もわれもとお盆の上のとうもろこしに手がのび、二、三部屋でお盆は空になる。「ありがとうございました」と言って部屋を出る。直ぐ様駆け足で階段を降りてまたお盆を持って売り歩く。              
 今みたいにコンビニがある訳ではないので、ちょうどおやつの時間辺りに持って行くとお客様も喜んでくれる。高原のとうもろこしは格別に美味しいのでなおさらだ。
 加えてお客様の帰りのお土産の温泉まんじゅうの注文も姉か私がとる。温泉まんじゅうは小の八個入りから始まって大まである。一人のお客様が色々なサイズの温泉まんじゅうを何箱も買う。一緒に来られなかったご近所さん、身内に配るのだ。
 今の世の中では到底考えられない生活スタイルだ。注文の数の集計をして、いついつの何時までに何個届けて下さい、とお饅頭屋さんに連絡する。 
 お饅頭の売り上げの利益も、チップも皆で貯めて皆で分ける。私も平等に貰える。余禄としてはかなりの額になる。
 こうして私は体を動かして働いて稼ぐ喜びを小学生にして得てしまったのだ。だから夏休みの宿題の事などすっかり頭からなくなっていた。
 一年中で一番の稼ぎ時の夏に私の宿題の事など気にする大人なんているはずもなかった。
 二学期の最初の授業で夏休みの宿題をやって来なかった人は立ちなさいと先生に言われ、何人かがそれぞれ自分の席の横に立った。次にワークをやって来た人は座って良いですと言われ、何人かが座り、次に読書感想文をやって来た人は座って良いですと、言われ、結局何一つ宿題をやって来なかったのは自分一人だけだとその時はっきり分かった。
 自分一人だけが立たされていた。
 その後どうなったかあまり覚えていないけど、下校後必死に宿題を終わらせて提出ぐらいしたのだと思う。その事で友達に何か言われた記憶もないので皆寛大だったのだろうと思う。

 その頃、NHKの朝ドラで八時十五分からハ時半まで“おはなはん”が放送されていた。
 毎日毎日”おはなはん“を見ている娘に流石の父も通知表に書かれていた遅刻の件を思い出したのか、「学校に間に合うのか?」と聞いて来た。すかさず「うん、大丈夫!八時四十五分からだから」と答えた。
 本当は、八時半からだった。ホー厶ルームが八時半で、授業が確か四十五分から。
 家から学校までは大体早足で十分くらいだった。だから結局毎日遅刻していた。先生も相当飽きれていたと思う。
 学期末の通知表の各教科の成績表の外枠下段に小さな字で遅刻が多すぎる。百何回とか書いてあった。御家庭でも指導してほしいと言うような事が書かれていた。
 しかし父は”読み書きそろばん“が人並みに出来て早寝が出来て、家の手伝いを一生懸命する娘を疑わず学校の始業時間を確認しようとはしなかった。
 女中さんの中には私と同級生の娘がいる人もいたのに。
 学校の先生は家庭の事情か?と結論づけたのかもしれない。
 そんな訳で私は”おはなはん“を最後まで一年間見る事が出来た。
 満足した私は深く反省し、五年生からは朝ドラを見るのをやめた。
 読書好きは卒業まで変わらず図書室にあった伝記物はほとんど読んでしまっていた。

 父は子供にも自由に稼がせたがその反面、余計な小遣いはいっさいくれなかった。
 女中さんの子供や、近所の子供にはかなり気前が良かった。だから知らない人は私達子供が小遣いに不自由しているとは考えもしなかっただろう。
 何か買って欲しくて頼むと不機嫌になる。だから私は勉強で必要な物でも自分で貯めたお金で買った。 
 小学校一年の時、始めて買った物は近所の電器屋さんで売っていた電気鉛筆削りだ。その店で一番高い電気鉛筆削り。
 誰にも文句は言わせない。なんとも言えない充足感だ。
 大切に使った訳ではなく、普通に使って六十年経った今でも使える。
 あの時自分で貯めたお金で買ったんだという誇らしい気持ちが使うたび甦る。 その後勉強机も、電気スタンドも自分で買った。

 
 父は昼間、会社員でもないのにいつも背広を着ていた。その背広は田舎の旅館の旦那さんとしては高価なものだったと思う。
 何せわざわざ東京から仕立て屋さんを呼んで、勿論旅館に泊まっていくのだが、背広の生地だけでも当時で四十万円ぐらいしていた。
 父は背も高くなく、肩幅は広くてどちらかというとがっしりしていて、ぜんぜんスマートではなかった。だから、既製品の背広は合わないとしても、高価過ぎるだろうと思っていた。
 そして、太くて地黒の指に、よくその頃年配のおじさん達がしていた四角くて分厚い金の指輪をはめていた。
 旅行にも、しょっちゅう出掛けていて、旅行から帰って来たある時、いつもの指輪をしていなかったので、指輪はどうしたん?と聞いたら、何処かで落とした、と言っていたが、恐らくそれは嘘で、旅先で賭事か何かで負けて取られたのだと思う。
 そんな事を父に尋問するかのように聞くのは私だけだった。
 旅行好きな父は知り合いの何人かで、よく中国とか東南アジアにも行っていた。
  お土産の綺麗なレースのハンカチや和紙じゃないかたい綺麗な扇子や刺繍が施されたお財布は嬉しかったけれど、反面上の姉は旅行も行かずその間もずっと早朝から夜遅くまで旅館で働いていて、結果病気にもなったりしていたので内心は複雑だった。
 ある時父の東南アジアの旅行の記念写真の中に、ホテルのベットに向こうの女の人が腰掛けているものを見つけた時は心底頭に来た。
 いつも床に伏せっている母はまだしも、身を粉にして働いている姉も父には何も言わないのだ。と言うか、言えないのだ。父が怖いのだ。暴力を振るうわけではないが、今でいうパワハラ、モラハラだ。
 どうしてもの時は姉達は私に言わせる。私は多分、父のアキレス腱だ。女では末っ子で、顔もよく似ていて父には生意気で、憎たらしいけど多分可愛くてどうしようもない子。
 私は私で、父には弱音を吐かず、威圧的な態度には負けないぞ、と常に思っていた。
  

 
 中学生になった私は親友に誘われるままにスキー部に入った。   
 体を動かす事が好きだったから必然的にスポーツ全般好きだった。
 中でもスキーは広いゲレンデを思うがままのスピードとコースで降りて行くのがたまらなく面白かった。
 天気の良い日のスキー場は最高だ。盛り上がっている斜面がきらきら光っていて、それを斜面の一番上から見下ろすとわくわくする。
 冬山にしかない冷たく澄んだ空気を深く吸い込んで、吐いて、光の斜面を降りて行く。
 転ばないように神経を研ぎ澄ませて右に左に弧を描きながら一気に降りる。
 斜面の一番下に着いて、さっきまで自分がいた山のてっぺんを見上げるとなんとも言えない満足感で心が一杯になる。
 それを何回も何回も繰り返す。   
 飽きることがない。
 同じ山のてっぺんから滑っても同じ斜面はない。時間と同時に雪質は変化する。
 太陽に長く照らされれば斜面の雪は重くなるし、日が陰れば固くなる。人が沢山滑れば同じく斜面は固くなったり、削られたりして少しづつ形を変える。
 同じじゃないから飽きない。
 
 体力の限界が来てやっと帰る決心が着く。
 
 一口でスキー部と言っても、ジャンプ、クロスカントリー、アルペンと分かれている。
 私は勿論アルペンに入った。アルペンの女子は私を含めて同級生三人しかいなかった。
 上級生は一人もいなく、多分私達が珍しかったのだ。
 同級生の一人は体育教師の娘で、私を誘った親友の親はスキー連盟のお偉いさんだった。
 スキー部のオフシーズンはかなり過酷だった。冬に備えての体力づくりが大きな課題だった。納得だ。
 足、腰、腕等を鍛えておかないと怪我をするし上達もしない。
 毎日腹筋何百、腕立伏せ何十回、スクワット等、しかも毎日五キロ、十キロと走らされる。相当な根性と体力はつくけど、女子向きではなかった。
 入学当初の私はスラーとしていたのに、どんどんいろんな所に筋肉がつき、顔の輪郭さえも変わってしまったような気がする。
 少子化の令和と違って生徒数も今の四倍以上はいたから部活の種類もそれなりに沢山あったが全国レベルで活躍しているのはスキー部だけだった。
 冬本番になると、合宿やら大会やらで県外に行って連泊する事が多かった。
 欠席にはならず公欠扱いだった。学校を何日も堂々と休めるのは嬉しかったが、合宿からもどるとクラスメイトが知らぬ間に転校してしまっていた時はかなりショックだった。
 授業面でもそうだ。帰って来ると特に数学は何ページも進んでいて、すっかり三学期でやる図形が苦手になった。
 高校入試でも困ったし、その後も数学に限らず中学の三学期の範囲が頭からすっぽり抜け落ちていて高校の三年間、その範囲の授業に付いて行くのに苦労した。

 中二の時、給食の牛乳瓶が入った箱を友達と運んでいたら、廊下で遊んでいた上級生の男子の一人が転んで思いっ切りぶつかってきて、その弾みで私も転んで牛乳瓶が割れて、辺り一面真っ赤になって、手のひらを何針も縫う大怪我をしたことがあった。
 後日、父が学校に行って、担任を怒鳴り倒したらしく、大人になってから当時の担任に会った時、真弓の父ちゃんに怒鳴られて怖かったとしみじみ言っていた。
 
 中学校生活は楽しかった。それまでもそれなりに楽しかったが中学生という事で小学生の時より行動範囲も活動時間も増えた。
 皆同じ服、つまり制服を着るようになったら、同じじゃないから、と言いたげに、そのぶん自己主張がどんどん強くなつて、教室内も小学生の時とは違った感じで賑やかになって行った。
 ある日次の授業はある教科の授業だという時、担当の先生が気に入らないから授業は受けないと言って数人の男子が教室を抜け出して体育館に向かった。
 そうしたら、我も、我もと抜け出し結局クラス全員体育館に移動してしまっていて、ドッチボールでもするかと言うことになった矢先、担当の教師と教頭先生が呼び戻しに来て仕方なくぞろぞろと教室に戻って行ったなんて事もあった。
 中一でそんな状態だったから中三にもなると気を使う先輩もいなくなり箍が外れたようにみんなそれぞれの形で益々自己主張が強くなっていった。
 私のは多分自己主張なんて上等なものじゃなくて幼稚なただのわがままだった。前述とは別の、ある教科担当の先生がなんとなく嫌で、その教科自体は嫌いではなかったが、一限目の授業だっりすると時々エスケープして女子の更衣室に友達と隠れたりしていた。
 結果遅刻と見なされ職員室前の廊下に放課後親友と立たされたりしていた。
 その後本当の遅刻をすると放課後自分から職員室に出向き「先生、廊下に立ちます」と告げた。「そうか、全くお前は変わっているな」と担任が不機嫌でもなく普通に言った。暫く一人で立っていると、担任が職員室から出て来て「もう、いいぞ」と言って来る。「はい」と言って頭を下げ帰って行く。
 内心、自分は変わっているのか?
 遅刻イコール職員室前の廊下に立つ、じゃないのか?
 それが当然の罰じゃないのか?
潔く罰を受けようと思っただけなのに。
 先生の言葉が頭の中でぐるぐると回り続けた。
 
 またある時はなんでだか全く原因は覚えていないのだが、授業前の休み時間に教室を抜け出して裏山に向かって一人で歩き出していた。
 その裏山への広い土手は校舎の二階のどの窓からも良く見えていた。
 そんな事もお構い無しに歩きはじめていたら、二階の教室の窓から一人の教師が私の名前を大声で呼びながら戻って来いと手で合図をした。
 私はくるりと向きを変え直ぐ様戻った。自分は何をしたかったのだろうか。その時の光景だけが何十年経った今でもふと脳裏に浮かぶ。
 本当に私は馬鹿だ。
 自分が人からジャジされるなんて事は普段あまり意識せずに行動していた。
 多分、両親や姉達から人の悪口や評価を聞いた事が全くなかったからじゃないかと勝手に分析している。

 

 “読み書きそろばん、早寝、家の手伝い”の両親も流石に時代の流れに逆らえずと言うか時代の流れに乗って、四歳上の姉の希望にそって英語塾通いを許可していた。
 なので私も流れに便乗して中学入学と同時に英語塾通いをはじめた。
 塾は月、水、金で、八時から九時までだった。部活から戻ると慌てて夕ご飯を食べて塾に向かった。
 八人ぐらいはいたと思う。一時間はあっと言う間に過ぎ、「ありがとうございました」と挨拶をして薄暗い夜道をみんなで帰っていった。
 夜の九時過ぎに正当な理由で堂々と温泉街を、しかも友達とおしゃべりをしながら歩けるなんて小学生の時には考えられなかった。
 夜の街は大人の雰囲気で訳もなくわくわくした。塾の勉強は退屈しなかったし、それ以上に夜道が面白かったから三年間通い通した。
 塾通いですっかり夜道に慣れてしまった私と親友はもちろん親から許可を貰ってからだけど、親友の家に泊まりに行って来ますと言いながら、飽きるとやっばり今日は私の家にしよう、とか言って、夜自由に二人で移動したりしていた。さすがに夜といってもせいぜい十時くらいだった。
 なんで中学生にそんな事が出来たのかと言うと、答えは一つ。旅館だったから。夜玄関に鍵をするなんてことはあり得なかった。お客様が自由に夜遊べるようにだ。
 夜そおっと玄関を開け忍び足で子供部屋に入って行く。おしゃべりして、眠くなると今度は二十四時間掛け流しの正真正銘の温泉に二人で入る。そして、寝る。

 父も母も家の手伝いさえしていれば後はあまり細かい事は何も言わなかった。
 良く言えば子供を信頼して自主性を重んじていたと言うことになるし、悪く言えばあまり関心がなく放任していたと言うことになる。

 私は親に言われたからしぶしぶ家業を手伝ったと言うことは一度もない。単に大人に混じって仕事をするのが面白かったし、自分が手伝えばその分姉や叔母が楽になると思っていたからだ。大袈裟かも知れないが私なりの優しさが原動力だと子供ながらに自負していた。
 ある時、比較的姉弟にははっきりものを言う私に対して母が、真弓は気が強くて困る、と言ったことがあった。びっくりした。自分では自分のことを気が強いなんて思ったことが一度もなかったからだ。確かに人前で泣いたりするのは嫌だった。弱いと思われるのも確かに嫌だけど、泣いてまわりの人に心配をかけるのが一番嫌だった。だから、泣きたい時もあったけど我慢した。自分なりに家族のことを思いやって行動してきたと思っていた。特に病弱な母のことを一番大切にしていたのに、その母に言われて、はっとなった。
 確かに物言いがやんわりと優しい人はいる。だけど真実思いやりの行動をその人はしているのか?瞬時にそんなことが頭に浮かんだと同時に、父が一生懸命働いている私の方を見て、真弓はこんなに優しいじゃないか、と母に言った。
 父は私のことを理解していた。
  全てじゃないけど。
 ちょっと嬉しかったけど、次の瞬間、“自分も少しは家族を思いやれば“と心の中で父に言った。


 高度経済成長期の日本は凄かった。
 その凄さは温泉地の滞在客のお土産にも顕著にあらわれていた。
 前述の温泉饅頭もしかり。その他、孫のおもちゃやら、誰かにあげるスカーフやら財布やらあらゆるジャンルの物がお土産として買われていった。
 緑の唐草模様の見たことも無いような大風呂敷に土産用品を詰め込んでお土産屋さんが担いで一部屋一部屋売りに回る。
 なんでも、沢山売れる。絶好の稼ぎ場だ。
 ある時、お土産屋さん同士がバッティングしてしまい大騒ぎになってしまったことがあった。
 またある時は出張“ストリップ劇場”がやって来た。
 そして宴会場に一番近い私達の子供部屋が着替え部屋として提供されたのだった。
 びっくりするような黒くてふさふさの長いつけまつ毛を付けた踊り子さん達がシースルーのガウンのような物を羽織ってかわるがわる部屋を行き来していた。
 好奇心旺盛な私は一人子供部屋の隅に残り、踊り子さん達の様子を眺めていた。
 踊り子さん達は一瞬ちょっと嫌な顔をしたが、その後は平然と仕事をこなしていた。
 お土産屋さんもストリップのお姉さん達もみんなエネルギッシュで、圧倒された。
 みんな前しかみていない。留まることさえしない。
 そんな時代が持つエネルギーの中で、さらに熱を帯びて行くエネルギーを肌で感じながら、私は育った。

 
 
 高校入学を控えた春、スキーに明け暮れていた私の顔はゴーグルの所だけ白く、あとの部分は日に焼けてかなり黒くなっていた。
 その上入学式直前にスキーで思いっきり転んでエッジで切った跡が上唇と鼻の間にまるで猫の髭のように一本のすじとなってくっきりと入っていた。
 入学式の後、クラスメイトの一人が早速”猫さま“とあだ名をつけて面白がっていた。
 四百五人の新入生の中でこんなバンダのようなおかしな顔をしていたのは多分私だけだったのだろう。
 暫くすると、そのあだ名は傷が消えるのと同時に自然消滅した。
 
 
高校は女子高だった。通うには不便なので下宿するしかなかった。 
 中学の同級生では私を含めて二人がその高校に通うことになった。
 家族と離れ、旅館の手伝いからも開放されて自由になったけど、それと引き換えに別の不自由を与えられた。
 先ずはお風呂だ。好きな時に源泉掛け流しの温泉に入っていた自分にとって、普通の家庭の沸かし湯はかなり堪えた。
 下宿には女の子ばかり六人いて、入る順番は公平に決められていたが、浴槽の七分目あたりまでためられたお湯はその後一度も足されず追い焚きもされなかった。だから最後の方になると、湯ぶねに浸かるなんてことは到底できず、湯ぶねの残り少ないお湯を汲んで体や頭を洗うしかなかった。
 食事もつつましい物だった。カレーは肉の代わりに小さく切られた赤いウインナーが申し訳無さそうにはいっていて、ルーはまさにカレー粉で汁は片栗粉でとろみをつけたものだった。後は覚えていない。多分覚えていられないぐらい質素だったのだと思う。
 お昼ご飯はもちろん三年間購買のパンだった。種類も少なかった。よく飽きずに食べたと思うけど、それ以外食べる物がなかったから耐えるしかなかった。友達のお弁当が羨ましくて仕方なかった。
 一度だけ友達が同情して私の分もお弁当を持って来てくれた。すごく美味しかったのに、その友達の名前を忘れてしまった私は大馬鹿者だ。
 下宿生活でもう一つ辛かった事がある。それはテレビがなかったことだ。部屋に置くことは禁止されていて、食堂にもなかった。
 その頃のテレビは面白い番組だらけで、学校でも休み時間になると友達がドラマや歌番組の話で盛り上がっていると羨ましくてならなかった。
 一度だけ平日に黙って家に帰ったら家族に物凄く驚かれて、どうしたんだ、と聞かれたので、どうしてもテレビが見たかった、と正直に言ったら呆れられた。
 呆れられたけど、怒られなかった。私の顔をみれてみんなちょっと嬉しそうだった。
 他の下宿のみんなは我慢できているのに、相変らず私は馬鹿だ。
 
 クラスで下宿しているのは私一人だけだった。
 小さい時から常に他人がいた環境で育ったためか、人馴れしていた私はすぐ友達が何人も出来ていつもワイワイしていたものだから、下宿生とわかって驚くクラスメイトもいた。
 しかも電車通学のクラスメイトからしたら私は相当地元ぽかったらしい。
 学区内では最奥だったけど、観光地育ちだったから雰囲気がちょっと田舎で育った電車通学のクラスメイト達とは少し違っていたようだ。
 
 二年生になった頃にはすっかり学校と下宿生活になれていた。
 そしてみんなにとっては長く、私にとってはあっという間の夏休みがやって来た。
 旅館の仕事、旅館の娘の暮らしに興味のあるクラスメイトが夏休み中交代交代アルバイトがてらやって来た。
 すっかり馴染んで面白がって働く子もいれば、ハードな仕事に音を上げて途中リタイアした子もいた。
 旅館の仕事は体力勝負だ。みんなそれぞれ色んな感想をもって帰って行ったのだと思う。
 夏休み最終日の一日前に下宿に帰った私は大急ぎで課題を終わらせなくてはならなかった。
 二学期が始まると私の家にアルバイトに来なかった友達がアルバイトに行って来た友達に熱心に旅館の仕事や、町の様子やらを聞いていた。
 
 田舎の女子高の進学校の日常は驚くほど平和で刺激的なことは何も起こらなかったし、誰も起こそうとしなかった。
 確か男女交際は禁止だった。普段下宿と学校の往復しかしない私には男子高生と知り合う機会なんて皆無に等しかったし、交際したいとも思わなかった。
 今から思えばなんて不自然な環境で暮らしていたんだと悔やまれる。
 あの頃漫画で“ベルサイユのばら”と”ポーの一族“が私達の周りでおおはやりしていた。みんなでまわし読みしては感想を言い合っていた。
 それと、知り合いにこれは読んでおいた方がいいからと、“ジェイン・エア”をプレゼントされ何度も読み返したりしていた。
 その知り合いというのは、私よりもひと回り以上も年上で男性だった。
 一度だけ、私が不在の下宿に訪ねてきて、プレゼントを置いていってくれた。
 けれど、その人の心のうちを推し量ることはしなかった。
 
 クラスメイトは概ね気が良さそうで居心地が良かった。
 男子高生と付き合っている子も知る限りいないし、恋話も皆無で、休み時間は遊びで漢字の問題を出し合ったりしているようなクラスで、面倒な事は何一つ起こらず平和で過ごしやすかった。
 おしゃれとか、美容とかに全く興味が持てなかった自分にはクラスの雰囲気はぴったりだった。
 目標のある子はその目標に向かって突き進んでいたし、目標のない子は目標を探していたし、適度に干渉せず、つるまず、さっぱりした関係の中にも友情は確かに育っていて、良いクラスだった。


 大学は女子大はもちろん、お坊ちゃん、お嬢様の雰囲気の学校ではなく、堅実な校風の大学を選んだ。
 田舎者の私にとっては洗練されているような所はすごく居心地が悪いからだ。
 さしたる目標も無く、消去法で選んだ学部は経営学部だった。
 十一クラスあって、一クラス六十五人でそのうち女子はまさかの四人だった。たった四人とはびっくりしたけど、すぐ団結した。
 私だけが一人住まいで、後の三人は自宅通学だった。
 
 遠縁で二歳年上の大学生の勇君が先に吉祥寺に住んでいて、隣の部屋が空いたと言うので勇君を頼って隣に引っ越した。
 アパートではなく、間借りだ。平屋で年寄りのお婆さんが大家さんで、大家さんと同じフロアに勇君と私が間借りしていた。古い家で外壁は板張り、窓はサッシではなくて木枠のガラス窓、トイレは共同、風呂無し、台所は無く、廊下に極小の流しと極小のガス台が備え付けられていた。
 まさに昭和の貧乏学生が住むのにぴったりな下宿だった。
 勇君は三畳間だった。ひとり親家庭の勇君には仕送りがなかった。
 勇君は公立大学の二部に通っていた。生活費、授業料、全て自分のアルバイト代で賄っていた。
 片や私立大学で仕送りもしてもらっている自分は恵まれていて、なんだか申し訳ないような気持ちがあったけど、態度には出さなかった。そんな事を意識する方が勇君をみじめな気持ちにさせると思ったから。
 引っ越しの際に姉が大家さんに、勇君と私は兄妹みたいなものなので、どうか宜しくお願いします、と挨拶していた。
 小さい時からよく一緒に遊んでいたので、なんの気兼ねもなかったし、気も合った。勇君は妹分が隣に越して来て嬉しそうで張り切っていた。
 勇君はアルバイトを二つしていた。
 一つは荻窪駅に繋がっている昔ながらの商店街の中の果物屋さん。
 木造の小さい商店がいくつもつながっていて、通路は外と同じ土の通路で、どの店も古く天井も低く薄暗かったけど、物凄く活気があった。
 そこで働いている人も、買い物客もまさに庶民と言う感じで、私にぴったりだった。
 店にレジスターなどなく、売上金は直径十五センチ程の小さなざるに無造作に入れるのがその店のやり方だった。
 勇君の妹分として私もアルバイトをさせてもらえる事になった。果物屋さんの真向かいはお肉屋さん、その隣は魚屋さんで、その魚屋さんは広くて従業員の男性がたくさんいて、いつも誰かしら威勢の良い声を発していた。
 魚屋さんもざるにバンバン売上金を入れていた。流石都会だ!と感心した。
 果物屋さんの仕事にもたちまち慣れ、両隣、向かいの商店で働く人達とも顔見知りになり、楽しく働かせてもらった。
 ふと気付けば、若い女の子の大学生のアルバイトは私だけだったような気がする。みんな、もっと洒落た今風な所でアルバイトをしていた。
 だけど、私にはこの古い時代を感じさせる商店街とそこで働く人達が、たまらなく魅力的だった。
 もう一つは目黒にある建設会社で、設計士を目指していた勇君にはぴったりの会社だった。
 この会社には東大卒をはじめエリートが沢山働いていた。
 ここでも、勇君の妹分として働かせてもらえる事になった。仕事は主に雑用で、たまに家の模型のような物を作ったり、トレースまがいな事もした。
 今思えば苦学生の勇君は相当信用されていて、しかも可愛がれていたのだと思う。なにせ、右も左もわからない小娘を採用してくれたのだから。
 その後、勇君は無事大学を卒業して、アルバイト先の会社に就職した。
 そして、りっぱな一級建築士になって家族と家を持った。

 吉祥寺に越して来た頃、近所を歩く時いつもサンダルではなくて、実家の旅館の下駄で歩いていたものだから、行きつけの喫茶店のオーナー夫妻に“下駄子ちゃん”とあだ名をつけられてしまった。
 私としては別に奇をてらった訳もなく小さい頃からちょっと近所にお使いに行く時などは下駄を履いていたので、極々自然な行為だったのだが、かなり面白がられてしまっていた。
 普段スカートなどはほとんどはかず、ジーンズばかり好んではいていた。
 ある時、うっかりジーンズと下駄で電車に乗って大学に行ってしまったことがあった。社内でサラリーマン風の人達にジロジロ見られて、流石にこれは不味い!と思った。

 ある時、偶然高校の同級生にあった。同じクラスになった事は一度もなかったがお互いなんとなく顔に見覚えがあったのだ。
 どういういきさつでかは覚えていないが、彼女の暮らすアパートに行った。彼女は女子大だった。入学して間もないのに、どこどこの男子大学生と、今で言う”合コン“をして、彼等の話がどんなに面白かったか身振り手振りで話してくれた。次はどこどこの男子大学生に会う予定だ、とか。化粧や服装にも気を配っていて、それがまた楽しそうだった。
 へえー、そうなんだー、とか相槌をうったものの、自分にはまったく興味が持てなかった。
 結局、彼女とはその時会って以来一度も会わなかった。
 しばらくして、 興味本位で、その頃流行っていた“ディスコ”に一度だけ友達と行ってみたが、全然楽しくなかった。
 
 大学に入れば遊んでいられる、なんて誰かが言っていたけど、実際はぜんぜん違う。遊んでいられる大学もあれば、遊んでいられない大学もある。
 一流、有名大学に在籍していて、将来一流企業に就職したい人、何者かになりたい人は必死に勉強している。
 勉強に費やす時間が大学受験の時と変わらない人なんてザラにいる、ということを入学当初に知った私は気付けば高校生の時よりも勉強に費やす時間が多くなっていた。
 女子の人数があまりにも少なかったために、各教科の教授に顔を覚えられ、代返はおろか、授業中の態度もすぐ把握されるという事がなおさら私をそうさせていた。
 
 
 私とは別の大学を卒業した同郷の同級生は、入学してから卒業するまで試験は全て学生運動で潰され、レポート提出ですんだから楽だったと言っていた。
 それに比べうちの大学は、学生運動に予定していた試験日を潰されても、何が何でも別の日に試験を行なった。一日二教科で済むところが、三、四教科になり尚更試験勉強が大変なことになっていたが、その事が後に殊更我が大学の誇りに思えた。
 卒業の時点でクラスの二割が留年か退学ということになっていた。



 就職活動が自分にもやって来た。
 此処に就職したいと強く願う会社は無く、大学受験とまたしても同じく、消去法で大手ゼネコンを受ける事にした。
 二次面接まで進めたが内定はもらえなかった。その時たまたま知り合った同じ大学の女子は二次面接後に実家のつてで、代議士に頼んだと言っていた。もちろん彼女はその後内定をもらえた。
 私もその後どうにか別の建設会社から内定をもらえた。
 なのに、実家の親、姉達から帰って来いの電話攻撃が一斉に始まった。嫁いで他県に住んでいる姉からもだ。
 どうせ二、三年も働けば結婚して会社を辞める事になるのだから、親も年だし、実家の旅館を手伝ったほうが良いと説得しまくられた。
 観光地で都会のような企業が無いから、都会の会社員の一生みたいなものが、ほとんど想像出来ないのだと思う。
 生涯年収や、都会の会社員の暮らしとか、細かい事がさっぱりわからないのだ。
 そんな暮らしとはまったく違った環境で生活しているから、簡単に帰って来いとか言えるのだ。
 どういう訳か、うちの一族に会社員は存在しなかった。他県に暮らしている姉夫婦も商売をしている。親戚もしかり。
 高度経済成長期にどっぷり浸かってきたものだから、会社員は給料が低く、自分達経営者の方が羽振りが良く豊かだと勘違いをしている。
 全くもって視野の狭さには閉口する。なんの為に高額な授業料を四年間も払い、仕送りをしたのか、家族中誰もその事を斟酌しないのだ。
 しかも、そこそこ有名な大学を卒業するというのに。

 
 内定を頂いた会社は丸の内にあった。用事があって初めて朝の通勤のラッシュアワーに乗った。大学の午前の授業開始時間も、アルバイトの開始時間もラッシュアワーに重なったことが一度もなかった。
 ぎゅうぎゅうで、お尻の辺りをずっと何かに押されていた。痴漢かと思い、まわりの男の人をじっと睨んで立っていた。駅に着いて降りる時に、隣に立っていた男の人が手に持っていた傘の柄が私のお尻に当たっていたということがわかった。
 やれやれ、と思ったと同時に、自分はこの先何年、何十年も毎朝こうして会社に通うのだと思ったらぞっとした。


 内定から数日後、私は内定辞退の電話をその会社に入れていた。
 

 やっぱり自分は大馬鹿者だ。

 
    


 





















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