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短篇小説/『鏡』

『鏡』


異変に気付いたのは朝起きてすぐ、顔を洗う時だった。

「無い」

洗面所に立ったら、いつものように顔に石鹸を塗りたくり、蛇口をひねって、顔をすすぐ。石鹸の泡の残りを確かめるために鏡を見上げた。その時だった。

無い、自分の顔が無いのだ。

〈頭部の前面。目・口・鼻などのある部分。つら。おもて。〉

まさに辞書にある通りの自分の頭部の前面が、洗面所の鏡に写っていなかった。
正確に言うなら、頭頂部、側頭、耳、顎という一連の顔の輪郭はしっかりと映っている。しかし、その中心にあるべき、目、鼻、口、さらに眉毛や頬といった各パーツは、滑らかで半透明の曲面に変わってしまっていた。まるでターミネータ―みたいに背景のすべてから浮き上がったその曲面は、この世にあらざるものの存在を示すオーパーツを想起させた。

最初の驚きが覚めると冷静さが戻ってきて、自分の置かれた状況について整理しようと思いたった。手始めに手で顔に触れてみると、鼻や口などの起伏も含めてその感触がしっかりと伝わってきた。「透明な」自分を覗く、その「眼」もまた、覗き見ることが出来ない。まぶたを閉じれば視界はさえぎられ、開けば透明な顔と自分の全身が鏡に写る。では、それを見ている自分はいったい誰なのか、分からなくなる感覚があった。

これらのことを試し終えるまで、この姿がどのように他人に見えているかということに、まるで思い至らなかった。
一度そのことに気づいてしまうと、今ここで、誰かが洗面所に入ってくることがそら恐ろしくなった。急いでタオルをかぶって頭を隠し、自分の部屋に駆け込んだ。
「足音がうるさい」
扉の外から、今起きて来たのだろう妹の声がしたが、一言も返さずに無視した。
その日はずっと、部屋から一歩も出ず、家族の誰とも話さなかった。

深夜になって、家族が全員寝静まったのを確認すると、再び洗面所に向かった。
今回もやはり、鏡に顔は映っていなかった。それどころか、髪の毛も、耳も、顎も見えなかった。首から上が、まるごと透明になっていた。
今の自分のありさまに思わず笑いがこぼれた。もうこれで、ニキビを気にする必要も、髪をセットする必要もない。何故かそんな風な考えが浮かんで、今度は落ち着いた気分で部屋に戻っていった。
けれどもその晩はひたすら泣いていた。何度も自分の目をこすり、口元を抑えて、頬を触った。手に伝わる感触は、そこに確かに自分(であるはず)の一部が存在することを示していたが、自分がどうなってしまうのか、どこに行ってしまうのか、ひたすらに不安だった。

「透明化」現象は、時間が経つにつれて悪化していった。だんだんと透明な部分が増えていく。顔が無くなり、頭が無くなり、上体の次は腕、下体、そして脚と、数日のうちに全身が透明になった。
この間、家族の誰とも顔を合わせず、口も利かないで過ごした。合わせる顔が無かった。
両親は、数日のうちに部屋にこもる自分に愛想をつかして、声もかけてこなくなった。かろうじて夕食だけは用意されて部屋の前に置かれた。彼らは、自分よりもこの事態への適応が早かった。見て見ぬふりを決めているのだ。
一方で、妹は何度も反応を求めてきた。
今日も、気分が優れないので半分以上夕食を残したら、「ねえ、ほんとに大丈夫?」と声をかけてきた。
「ねえ、聞いてるの?起きてるんでしょ。返事くらいしなよ」
ゴンゴンと扉をたたくので、壁を思いきし蹴ってやったら、帰って階段を下っていく音が聞こえた。

自分でも、このままではいけないと分かっている。でも、どうしたらいいというのだろう。体が透明になるなんてそんな訳の分からない状態に陥ったら、誰だって困惑するはずだ。けれども、今回の事件の原因を考えていると、これが自分の望んだ姿であった気がしてくる。ずっと自分が嫌いだった。将来自分がずっとこのままでいることに、心のどこかで絶望していた。こうなるべき運命だったのだと納得する自分がいた。

妹と廊下で鉢合わせた。トイレに行っている間に、部屋の様子を探りに来たのだ。口を開けてこちらを見つめるが、何も言わない。何か初めて見るものを見るような、そんな視線を外そうとしない。このまま見続けられるのは耐えがたいことだと感じた。
「あのね、私はこれから出かけて夜は外で食べてくるし、パパとママも帰るのが遅いらしいから、夕食は自分で用意して食べておいてね」
「こんな状態のやつを放置してか、人の心が無いね。のんきに外出する気が知れないよ」
「うるさいわね、もういいわよ。夕食なんて食べなけりゃいいわ」
「うぜえな!早くいけよ。その派手な服で男でもひっかけてろ」
「それはあんまりひどいよ!」

その日の晩は夢を見た。そこでは、自分は、透明の姿のままでステージに立っていた。正確に言えば、立たされていた。誰かに強制されて、スポットライトの真ん中で大勢の観客の前に姿を晒していた。

「筋肉質だな、なかなかいいじゃないか」
「ちょっと短足じゃない?」
「私はもうちょっと顔はスマートな方が良いわ。大きすぎる。」
「遠すぎるな、もっとよく見せてくれないか」

観客は思い思いの感想を述べては、互いの意見の相違について口論していた。自分には見えないその体が、彼らには見えている。それは多分、自分の体ではない。一体そんなもの、どこにあるというんだ。だんだんと腹立たしくなってきて、このままでいいはずがない、訴えなければならないという気がしてきた。
ここから出してくれ!僕はもう行かなきゃいけないんだ!

「大丈夫?起きてる??」
夢から覚めると、ドアの外から声を掛けられていた。
妹の声と、両親の声、さらに誰かもう一人、知らない男の声が聞こえた。

「×××君、今、ちょっと大丈夫かな?私は、カウンセラーをやってます、佐藤と言います」

カウンセラー?いったい誰がそんなものを呼んだのだろう。そんなものは必要ない。俺を勝手に決めつけるな。勝手に俺を見下すな。

「いいかな?ちょっとお邪魔するよ」

ドアが開きかける。その瞬間にこちらからドアを押し開けて、廊下に飛び出した。
目の前には、両親と妹、見知らぬカウンセラーの男がいた。ドアのすぐ前に立っていたのか、妹はつきとばされたような恰好でいた。その姿を見ていると、なぜだかイライラしてきた。
「余計なことするな!さっさと消えろ」

この家に居ることはできない、そう思ったら、呆然と一階の玄関に降りていた。そのままサンダルをひっかけてドアを出ていく。後ろに無言の視線を感じ、一歩、二歩と早足になる。その視線から逃れようと、道路に沿って走り出した。とにかく遠くへ走った。走りながら自分の今までの行動を恥じた。俺はいつもいつも不平ばかり零す。自分が上手くいかないのはまわりのせいだと訴えて、不遇な身の上だと家族を責め立てていた。そんな自分自身が一番嫌いだった。

気がつくと公園にいた。人はまばらで、敷地が広く感じられた。園内を見渡した後、足が自然に池の方へと向かった。
縁にしゃがんで底を覗きこむ。池の水は完全な透明とはいかず少し濁っていたが、自分の輪郭を写すには十分だった。そこには自分の見慣れた顔が映っていた。水面が暗いせいもあって精彩に欠いたが、まあこんなものだろうと思う、いつもの自分の顔が見えた。

「逃げてはダメじゃないですか」

ここまで彼を追いかけてきたカウンセラーは、ようやく捕まえられたと意気込みながら声をかけた。

振り返って彼の目を見た瞬間、僕は今まで自分を見つめてきた他の多くの人たちと同じものをそこに見出し、思わず後じさりした。
足が滑って、声の出る間もなく宙に投げ出されるのが分かった。

水面に映った像は、瞬く間に地上の人影を受け入れて暗く曖昧な影となった。そして、深い水の底へと小さく小さくなりながら消えていった。


/初めて小説というのを書いたので稚拙で恥ずかしく思います。読んでくださった方々に感謝します。
2024/02/04


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