【創作長編小説】謎姫、世界を救うっ! 第15話
第15話 戦える者は、もう
黒い川に映った月が、激しく揺れる。
ざざざ、と音を立てながら、水面が盛り上がっていく。
驚く陽菜の視線の先、川の中から大きななにかが現れようとしていた。
魔族だ……! 魔族が、来たんだ……!
大きな影。滴り落ちる大量の水から見えてきたのは、小さな頭部に光る大きな二つの目、そして極端に首が長く肩幅のない、流線型の姿の奇妙な怪物――。
「この地の清らかな水よ、異界からの穢れた魂を封じ給え……!」
ミショアが、叫んでいた。そしてその瞬間、ミショアの手には光る長い杖が握られていた。
今のは、呪文……? ミショアさんは、呪文で戦える人なんだ……!
陽菜は、即座に理解した。ミショアが叫ぶと同時に、激しく川の水がうねり、暴れ出した。
オオオオオ……!
魔族が、叫ぶ。苦しそうにもがく怪物の口は大きく下方に裂け、顎が崩れ落ちてしまったのではないかと思われるほどだった。
陽菜の足は、震えていた。恐怖心と必死に戦い、悲鳴を必死にこらえていた。
怖い……!
思い出す、蜘蛛のような顔の怪物。あのときは必死で、驚きのほうが大きかった。それが、そのとき感じるべき恐怖が、今になって陽菜の心を襲う。
少し前の異形の怪物と接した恐怖と生命の危機への恐怖、そして現在出現している怪物に対する恐れ。
陽菜の目から、気付けば涙がこぼれ落ちていた。
「バーレッド、それはいかん!」
突然耳に飛び込んできた、バーレッドを制する時雨の声。そちらに目をやると、怪物に向かって爆弾のようなものを投げようとしたバーレッドを、時雨が止めているようだった。
「あまり大きな音を立てると、騒ぎになってしまう」
時雨は、手に槍を持っていた。バーレッドは素直にうなずき、剣を手にする。そして、ほぼ同時に二人は川へ向かって駆け出した。
時雨……、バーレッド……!
ミショアの呪文だけでは、怪物を倒すことはできないようだった。
そうだ、明照……!
陽菜はハッとし、カバンから突き出た明照の柄を握ろうと手を伸ばす――。
「陽菜!」
九郎が、陽菜の肩を掴んでいた。
「く、九郎……?」
声が、震えてしまっていた。口の中が乾き、自分の鼓動が耳に届くようだった。
「陽菜。こっちへ」
九郎は陽菜の腕を取り、走り出す。九郎は皆や川岸から、陽菜を引き離そうとしていた。
え、逃げるの……?
背後から、ミショアの呪文を唱える声が聞こえる。激しい水音。金属音。時雨やバーレッドの、戦う音。
皆、得体のしれない恐ろしい敵に立ち向かっている――。
「九郎……!」
自分たちだけ逃げるのか、九郎の名を呼ぶ陽菜の声に、思わず非難の色が混じる。
堤防の階段の下まで来ていた。そこでようやく九郎は止まり、振り返る。
「陽菜」
陽菜を見つめる九郎の瞳は――、まるで陽菜を心配するような優しいものだった。
「どうして、どうして、九郎――」
世界を救え、と言った九郎。それなのに敵を目の前にして、九郎は陽菜と共に敵から遠ざかっている。
「陽菜。大丈夫か」
大丈夫……? どうして大丈夫って、私に訊くの……?
なにもしていない。襲われてもいない。なぜ案じる言葉をかけてきたのか、疑問に思う。
「今にも、倒れそうだった」
え……。
改めて、ハッとする陽菜。九郎は、言葉を続けた。
「今はまだ、自分の身を護ることさえできないだろう。恐怖心から、判断能力も運動能力も低下していると思う。当面は、魔族から距離を取るべきだ」
「でも――!」
足の震え、手の震えは止まらなかった。反論しようとしたが、体はずっと悲鳴を上げ続けていた。
「すまない。本当なら――、陽菜は……。しっかりと護衛の者たちによって、大切に守られるべき存在なのに――」
九郎は無念そうに唇を噛みしめ――、うなだれた。
九郎……?
「私たちしかいないんだ。戦える者は、もう――」
九郎の握りしめた拳は、震えていた。
川の流れが、動きを縛る。
ミショア殿が送ってくれる魔法により、ずいぶん戦いやすくなっている。しかし、この川の中の戦い、なかなかにやりにくい……!
時雨は、腰まで冷たい水に浸かりながら、肩で息をしていた。
水圧、水の流れ。ミショアの魔法で、それらの状況はずいぶん緩和されているのを感じる。逆に、魔族のほうは、ミショアの魔法で大幅に動きを封じられているようだった。
オオオオオ……!
口を大きく開けた魔族。黒い口の奥が、オレンジ色に光る。
「ちっ……」
炎のようなエネルギーが、魔族の口から放たれた。それは、まるで勢いよく飛び出した炎の柱のようだった。舌打ちし、時雨は迫る炎の柱をかわした。夜の闇の向こう、炎が飛んで行く。
「時雨っ、大丈夫かっ」
魔族を挟んだ反対側から、バーレッドの声が聞こえる。バーレッドも無事なようだ。
「バーレッド、無事じゃ! おぬしも、気をつけよ――」
いきなり、視界から魔族が消えた。素早く、水中に体を沈めたのだ。
ミショア殿の魔法の中の、この素早い動き――! 魔法の援護がなければ、やつはどれほどの素早い動きを――!
時雨も急ぎ川に潜る。少し進んだだけで、一気に水深が増していた。
長く黒い影。流線型の姿の魔族は、思った以上に大きく、長い腕を体にぴったり沿わせ、人間のように二本ある足を閉じ、巨大な魚のように身をくねらせ泳いでいた。
バーレッド!
水中でバーレッドの姿も認めた。バーレッドは、剣を魔族に突き立てようとする。しかし――。
剣を、弾いた……! 硬い鱗があるのか!
魔族の皮膚は、バーレッドの剣を弾いていた。魔族が、大きな口を開ける。バーレッドに向け――。
まずい! 炎による攻撃をする気だ……!
時雨は、槍を振り上げた。鋭く、突く。渾身の力を込めて。
硬い……!
鱗が阻み、槍の先が滑る。それでも、時雨は歯を食いしばり、一層力を込めた。魔族の体の向きを、少しでもバーレッドからずらすように。
バーレッド……!
時雨が、息をのんだその瞬間。なぜか、時雨の目の前に、バーレッドの顔があった。
え!?
いつの間に、と驚くと同時に安堵する時雨。そして、バーレッドの腕が胸元にきた、と気付くやいなや、バーレッドに前から抱えられる形になる。
バーレッド、無事だった――!
時雨に状況を理解させる時間も与えず、バーレッドは、有無を言わさず時雨を抱えるようにしたまま、川の流れる方向に従いつつ力強く泳いでいた。
時雨はバーレッドと共に、川の流れに乗り、魔族からぐんぐん離れる――。
ドン……!
鈍い、大きな音。ハッとしそちらを見る時雨。魔族の体が――、ばらばらに飛び散っていた。
バーレッド、もしや――。
水面に、顔を出す。ぷはっ、と息を吐き出し、顔を見合わす時雨とバーレッド。
バーレッドは濡れた前髪をかき上げてから――、胸を張って親指を突き出した。
「炎を出そうとやつが大口を開けた瞬間、口の中に爆弾を放り投げてやった。水の中、体の中の爆発なら、でかい音にはならない。騒ぎには、ならないだろ?」
「バーレッド……。無茶をする――」
時雨は首を振り――、それから笑みを浮かべた。
「まったく……! おぬしには驚かされる」
「無茶は、お互い様だろ」
月の光の下、共に笑う。
川の流れは、なにごともなかったかのような穏やかなリズムを奏でる。
二人は、疲れた重い体を支え合い、岸辺に上がる。せっかく陽菜に買ってもらったばかりの新しい服から、盛大に雫が流れ落ち続けていた。
濡れた服の裾をひっぱり、ため息をつくバーレッド。
「あーあ。色男が、台無しだな」
「どこに色があるというのじゃ。おぬしに」
つまらぬことを言い、小突き合う。
「よかった――! 時雨様、バーレッド……!」
ミショアの輝く笑顔が、二人を迎えてくれていた。
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