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「遊び心」という余裕を忘れずにいたい。



長男と「お話作り」をするのは楽しい。


noteにもいくつか投稿している。
忘れてしまうのは、あまりに惜しくて。

寝る前や、ふとした隙間時間に、他愛のないひとことから始まる「お話作ろ」の合図。
いっしょにアイディアを出しながら、手探りでお話を膨らませるのはおもしろい。

4歳の長男から飛び出すアイディアは、わたしではとうてい思いつかない。
とてつもなく純度が高くて、子どもらしいアイデアやひとこと。
それらをなるべくそのまま残しつつ、ストーリーとして展開させていくのが、わたしの役割だ。

特別な道具も場所もいらない。
いつでもどこでも楽しめる「お話作り」は、最近わたしがいちばん心から楽しめる、長男との遊びなのだ。
この時間だけは、しぜんと笑顔になれる。



「お話作り」をしていると、父のことを思い出す。
父は、読み聞かせもお話作りもたいしてうまくはなかったが、それでもよく話をしてくれた。

読み聞かせは、いつも抑揚のない低い声だった。
もともと仏頂面で、絵本を楽しむような人間には見えない。
たどたどしい上に、よく間違える。

それでも、決して途中でやめたりしなかった。
最後まで、何度でも読んでくれる父の読み聞かせには、子どもながらに愛情を感じていた。

お話作りも、ほんのたまにしてくれた。
といっても、筋もオチもめちゃくちゃで、なにを言ってるんだかよく分からない話も多かった。
でも、それすらおかしくて笑えた。

けっきょくわたしは、父がわたしのしたいことに乗ってくれたこと自体が、嬉しかったのだろう。
父は、わたしがどんなに変なことを言っても、「それはおかしい」なんて大人の顔して指摘してくることはなかった。
だから、父が好きだった。


父には、「遊び心」があったな、とおもう。
それは、お話作りのテキトーな内容もそうだし、他でいうと、たとえばタコさんウインナーを作ってくれたりとか、粘土でかわいいブタさんの作り方を教えてくれたりとか。

無愛想でボソボソした声の父が、真顔でタコさんウインナーを皿に並べるのが、なんとも滑稽で、愛おしい。
お茶目な振る舞いをしながらも、そこには「子どもを喜ばせてやろう」という優しさを常に感じた。
父には、遊び心を加える「余裕」があったのだろう。

それは、母がしんどい部分を補ってくれていたからこその、余裕だともいえる。
その点、母はいつもピリピリしていたし、そんな母の気持ちは、自分が母になってようやく理解できる。


でも、そんな母としてのしんどさも分かりつつ、やっぱり父のような「遊び心」を忘れずにいたいと感じている。

子どもの目線でいっしょになって楽しむ。
子どもの世界に、自分も飛び込む。
おかしなことを言っても、否定せずにそのまま受け取る。
子どもの発言も、やりたいことも、全部「その子らしさ」として認める。


うちの長男にしてやれることといえば。
たとえば、子どもらしい発言をそのまま受け取って、いっしょにお話作りを楽しむこと。
いつものオムライスを、ちょっと一手間加えてドクターイエローにしてやること。
手が汚れる粘土も楽しむし、ときには裸足で砂場だってしちゃうこと。

そういうことを、大切にしたい。
そんな母で、親で、大人でありたい。

余裕がないとできない。
余裕はすぐに枯渇する。
だから、いつもはできない。
でも、せめてひとつくらいは。



そんなことを考えながら、今日も長男のあべこべで、可笑しい物語を、うんうんと頷いて聞いてやる。
今日は「雲やさん」というお話ができた。
今度、記事にまとめよう。

こんなかわいいことを言うのも、今だけだ。
そう思うと、彼の生み出したたったひとつの物語ですら、忘れるのが惜しくてたまらなくなる。

だから書いて、noteに残す。
いつかのわたしが読むために。

長男にも、大きくなったら読んで聞かせてやろうかしら。
これ、君が考えたお話なんやで、って。

きっと、恥ずかしがって、にやにや笑って、それでもうんと喜ぶだろう。


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