「コメント」からしか、得られないものがある。
コメントをもらうと、やっぱり嬉しい。
自分の言葉で、ていねいに綴ってくださったのが伝わってくると、勇気を出して投稿してよかった、とおもう。
わたしは、なかなかコメントをしない。
記事を読んだあと「あ!コメントしたい、これ言いたい」とおもうときはある。
でも、大体タイミングが悪くて、読むのに精一杯のまま、終わることが多い。
記事を読んで、感想を抱くだけなら、書き手には何も伝わらない。
でも、コメントするとなると、書き手に「なにかしら」が伝わってしまう。
となると、適当なことは書けないし。
わたしの思いをなるべく正確に伝えたい、という欲も出てきてしまって、コメントへのハードルは、どんどん上がる。
そもそもコメントをしなければ、そんな葛藤すら伝わらないのだけど。
個人の葛藤を、そのまま伝えてもよいものか?
わたしたちはそんな関係なのか?
などと思い悩んでしまい、けっきょくコメントしないままになる。
悔しい、とおもうときもある。
そんなわたしなので、わたしの記事にわざわざコメントをくださった方には、ほんとうにありがたい気持ちになる。
知らない方からだと、二度見するほど。
特にうれしいのは、「同じ気持ちです」と言っていただいたとき。
わたしはどの記事でも、投稿寸前まで「こんなことを思っているのは、自分だけでは」と自信がない。
だから、投稿したあと、「同じ気持ちになったことがあります」とか「似たようなこと考えます」と言われると、この問題や感情を抱えているのは、わたしだけじゃなかったんだ、と安心する。
それに、コメントをもらって初めて、気づくこともある。
以前、月末に投稿している日記に、千縁さんが「コーヒーのように、苦味の美味しい文章でした」と、コメントをくださった。
そのときの言葉が、いまでもじわじわとわたしの根底を支えている。
ああ。
そんなふうに言われると、しっくりくるのか。
そんな言葉が、欲しかったのか。
自分のことなのに、他者からの言葉で新たに気づくことができる。
いままでも、多くの方が褒めてくださったり、あたたかい言葉をかけてくださったりして、そのたびに胸があたたまった。
クスッと笑えますね。
ほっこりしますね。
正直な気持ちが伝わってきました。
どの感想も、ほんとうに嬉しい。
でも、なんとなく、自分にはふさわしくないような気がしていた。
カッコつけすぎている、というか。
いいところだけ見せてるような気分で、申し訳なくなるような。
でも、「コーヒーの苦味のような」と言われたとき、「それ!」と指をならすように、感情がはじけた。
わたしが言いたいことは、それ!
わたしが出したい「わたし」って、そんな感じ!
自分の黒い部分もまるっと肯定してもらえたような気持ちになった。
わたしだけでは、思いつかなかった言葉だ。
他者からのコメントのおかげで、わたしは「わたし」を発見したのだ。
◇◇◇
最近、「しずかなインターネット」をはじめた。
「note」よりも、もっと他愛のない戯言を吐き出したいときや、記事として成立させる前の「書く練習場」としてつかっている。
見られていない、心地よさがある。
「それなら、携帯のメモでいいじゃん」とおもっていたのだが、やっぱり自分の手元の携帯の中だけで完結させるのとはちがって、社会とはつながっている感覚がある。
「見られていないけど、見られる可能性もある」という温度感もちょうどいい。
でも、コメント機能はない。
そうおもうと、はじめから「しずかなインターネット」だけをしていたのでは、こんなに「書くこと」を続けられなかっただろうな、とおもう。
コメントやスキなどの反応、ほかの方の記事の紹介など、「他人の存在」からしか得られないことはある。
それが多すぎるとしんどいけど。
ときどき、お声をかけていただくことによって、「わたしって、わたしが思っているよりも、けっこういいんちゃう」と思えたりする。
他者の言葉にビクビクしているわたしも、やっぱり誰かに励まされている。
「note」をしていると、もうすこし他人を信じてみても大丈夫かも、なんて思えたりするから、やめられない。
いつも、コメントやスキ、ご紹介など、みなさん、ありがとうございます。
「んー」「あー」と悩むときもあるけれど、まだしばらく「note」を続けようとおもいます。
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