家は牢獄か、天国か。
自分の家なのに、「牢獄」のようにかんじるときがある。
大学生のころ、自分の部屋は「天国」だった。
誰にも邪魔されずに好きなことができる。
だらしないかっこうで、足を放り出して、床でポテチ食べても、文句ひとつ言われない。
高校生までの自室は、たびたび親という侵入者におびやかされていたので、大学で手に入れた自分だけの空間は、より「自由」が際立った。
しかし、今。
わたしには、部屋がない。
家族が集うダイニングにしか椅子もテーブルもなく、家族の服が押し込まれたクローゼットの隅に、本や文房具を積んでいる。
自分だけのテリトリーも、不可侵の場所も、どこにもない。
トイレや風呂すら、ひとりになれない。
子どもというのは、いつでもどこでもついてきて、わたしの安らぎを邪魔しにくるのだから。
‥わが子を邪魔だなんて。
わたしは悪魔だ、と反省する。
そんなふうに落ち込んだとしても、ひとりで塞ぎ込む場所はない。
ふらりと車で出ていくことも許されないし、寝る時の布団にもぐりこんでも、隣の息子がのたうち回るような寝返りで、何度もおそいかかってきて、気が気じゃない。
逃げ場のなさ。
まさに、「牢獄」だ。
でも、さすがにわたしも友達に「家が牢獄」とは言えない。
「なんてこと言うんだ」と引かれそうだし、もっとひどい環境のなかで踏ん張っているママもいるかもしれない。
そうおもうと、こんな毎日に鬱々してばかりで、堪え性のない自分にがっかりする。
ひとりになりたい。
ひとりになりたい。
この家から出て、ひとり車を走らせ、朝日に輝く丘を眺めたり、オープン仕立てのパン屋に寄ったり、時間を気にせず本屋さんを歩き回ったり、目をつむってコーヒーを飲んだりしたい。
わたしにとって、「ひとりになること」は、前向きに生きていくのに必要なことだ。
だから、エネルギーが切れてもなお「ひとりになれない」この状況は、心身に悪影響。
ときどき、決壊しそうになる。
◇◇◇
__と、ここまでぐだぐだ書いておきながら、「そこまで言う?」とも自問するわたしもいる。
そうは言っても、こうして書くことができるくらいなんだから。
まだまだいけるでしょ。
そういうポジティブ風なわたしも、頭の端によくあらわれる。
この「ポジティブわたし」は、ちょっとチャラい。
発言も軽くて、深みがない。
でも、重く沈みそうになる「ネガティブわたし」の首根っこをガシッとつかんで、沼からむりやり引っ張り出してくれる。
おい!沈むな!
考え込まず、とにかく動け!
落ち込んでるくらいなら、今どうすればよくなるか、考えろ!
こんなふうに叱咤してくる「ポジティブわたし」に励まされ、わたしは渋々と本心を探し回る。
ほんとうは、どうしたいのか。
いま、何をしたら満たされそうか。
ないものはない。
でも、がんばれば手に入りそうなものならば、思いきってやってみよう。
そんなふうに考えて、このネガティブな地獄を抜け出している。
今日は、次男を託児にあずけた。
ほんとうは、そこでひとりになって、回復するはずだったけど。
長男が風邪をひいて、計画は無効に。
それでも預けて、次男との距離をとる。
たった2時間でも、完全なひとりになれなくても、すこし肩の荷が降りた。
夜ご飯も買ってきた。
惣菜と弁当。
もうなにも作らなくていいと思えるように。
これでひとつ、日中のタスクが消えた。
掃除も、てきとうにおもちゃを蹴飛ばして、ルンバを起動する。
長男の相手だけはなるべく一生懸命やって、そうこうしているあいだに託児は終了。
げそげその顔のまま、車を走らせる。
ところが、おもわぬことが起きる。
帰宅中の車で、長男も次男も寝たのだ。
無事、家に運ぶこともでき、束の間の「ひとり」を手に入れる。
これは、神様からのプレゼントだ。
最初はそうおもって、いそいそ紅茶を淹れて、本を読みはじめる。
しかし、静かな部屋で本を読んでいると、ふと子どもたちの寝息が聞こえた。
すー‥、すー‥。
ふー‥、ふー‥。
静かな長男の寝息。
鼻詰まり気味の次男の寝息。
その瞬間、この「ひとり」の時間は、神様がくれたんじゃなくて、この子たちがくれたんだ、と気がつく。
すると、急に彼らが愛おしくなる。
こんなかわいいわが子と暮らせるなんて、この家は「天国」のようだとおもう。
家は、牢獄にも、天国にもなる。
明日もまた、牢獄と天国を行ったり来たりしながら、わたしは子どもたちと遊び、ごはんをつくり、本を読んで、眠るんだろう。
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