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またまた、最近読んだ本をふりかえる。


前回、読んだ本について、ふりかえったとき。

「読書記録」は、1冊の本をひとつの記事で紹介するより、いくつかをならべて浅く扱うほうが、気楽に書けることを思い知った。

1冊を2000字程度でまとめようとすると、深い理解が求められる。
そこまでの読み込みができていないとき、その本を読んだ事実は永遠にアウトプットされず、いつのまにか記憶から消え去る。

浅くてもいいじゃない。
とりあえず、読んだら「note」に書こう。

というわけで、先月から昨日までに読んだ本たちを、浅く薄く紹介する。
本の内容紹介というよりも、わたしとその本との「出会い」や、心にのこった文の引用が多い。
その本にまつわる、わたしの「物語」の記録とでもいえばいいのだろうか。

・村上春樹『風の歌を聴け』


「村上春樹を読むなら、いましかない」。

島田潤一郎の『長い読書』にある、『風の歌を聴け』に出会ったときの物語を読んだあと、わたしは「村上春樹を読む」と決心した。

どうせなら、島田さんとおなじスタートにしよう。
そうおもって、夫の本棚から『風の歌を聴け』を借りてきた。


村上春樹の長編を、読んだことはなかった。
教科書に載っていた『レキシントンの幽霊』や、立ち読みした『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭、あと夫に借りた短編集『東京奇譚集』くらい。

特別惹かれたわけではないが、世界でこれだけ名の知れた作品なのだ。
わたしの人生で、「読みたい」とおもうのはきっと、今しかない。

「いまさら、村上春樹を読む?」という気持ちもあった。
世間知らずで恥ずかしいような、もう手遅れのような気分にもなる。

しかし、それもまた島田潤一郎さんが、べつの著書で背中を押してくれた。

ツルゲーネフも、村上春樹も、漱石さえもあたらしい。
読みなれた読書からすれば、彼らは懐かしい作家以外のなにもでもないかもしれないが、その名前を知らない読者にとっては、彼らはいつでも新しい作家だ。

島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』、p.167


わたしにとっては、村上春樹は「あたらしい」。
それなら、いまさら村上春樹のデビュー作を読んだって、いいはずだ。

そうおもって読み進め、読んだあと、なにも掴めなかった。
村上春樹の文章は、一字一句追わないといけないような気持ちに駆られ、読了には、時間がかかった。

それなのに。
おかしいな。

わたしには、「村上春樹を読んだんだ」という事実だけが、溜まった。
でも、内容の感想が浮かんでこないのである。
読み込めていない、理解できていない、流し読みしてしまったのだろうか。
今書けることは、このくらいだ。ぬう。

◇◇◇

・島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』

上記で引用した、島田潤一郎の『古くてあたらしい仕事』。
これはもう、何度もわたしの記事に登場する島田潤一郎さんの代表作。

ひとりで出版社を営む島田さんの言葉を、この本からもたくさん受け取ることができた。
ここには、まだ取り上げていなかった言葉たちを引用しておく。

ぼくは、一対一の手紙のような本をつくりたいとおもう。

同書、p.90

「わたしだったら買わないけれど、お客さんは喜ぶかもしれない」というような商品は、たいてい下らないものだとおもう。

同書、p.130


・鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』


これもまた、島田潤一郎さんがきっかけとなる。
島田さんの本に、宮崎駿の「企画は半径三メートル以内にある」という言葉が紹介されており、そのもとの本も読んでみたいとおもって、取り寄せた。

ジブリ好きのわたしにとって、こんなにおもしろい本はない。
『もののけ姫』『千と千尋』『ハウル』。
作品の裏話が出てくるたびに、わたしは立ち止まって、にやにやした。


鈴木さんの考え方も、おもしろい。
宮崎駿や高畑勲との出会い方、関係の築き方には、鈴木敏夫さんのお人柄や考え方、価値観が大いに影響しているとわかる。

整理したりまとめたりすると現場から離れてしまう、どこかでそう感じているからです。
だから、やってきたことを覚えていようと思わない。忘れてしまったほうがいいと思っていて、ときには忘れる努力さえする。
(中略)
終わったものは終わったものであり、いま動いているこの瞬間が大事である、ということなんです。

同書、p.1

映画づくりというものは航海に出た船と同じで、照る日だけじゃない、雨の日、嵐の日がある。その船に乗っているのがスタッフで、航海の行く末、つまりこのお話の結末がどうなるかわからない、そのスリルとサスペンスを監督以下全員が味わうことが、映画をおもしろくし、その映画にとってある幸運をもたらす。

同書、p.70

作品たちは、最初に「結末」が決まっていないという話もおもしろかった。
わたしが「note」を書くときとおなじだ。
結論が分からなくても、書き進めながらゴールを探る、あの感覚。
ジブリと同じなんて恐れ多いが、この本を読んだことで、ますますジブリが好きになった。

◇◇◇

・高橋順子(選・鑑賞解説)『永遠の詩➁ 茨木のり子』

「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」

その詩に出会ったのは、大学院時代。
図書館の二階、だれも近寄らない暗い本棚に、分厚い詩の本があった。
おそらく、だれも借りたことのないような、古い背表紙。
本棚から出すと、ホコりっぽくて、表紙が汚れでザラザラとしていた。

なにげなくひらいて、パラパラとめくる。
ふと、茨木のり子の『自分の感受性くらい』という詩が飛び込んでくる。
ハッとした。
あの衝撃。

当時、教員採用試験の勉強に疲れて、鬱々としていたわたしは、この詩にぶっ叩かれた。
忘れてはならないとおもい、とっさに携帯で写真を撮る。
そのあと、べつのところに書き写しながら、「これは、わたしの座右の詩にしよう」と誓った。


この本では、ほかにも多くの突き刺さるような詩に出会えた。
『わたしが一番きれいだったとき』
『ぎらりと光るダイヤのような日』
『落ちこぼれ』
『時代おくれ』

本の後半は、相愛の夫をおもう詩が続く。
亡くなってしまった夫への気持ち。
読むのがしんどくて、目を背けながら、ちらちらと読んだ。
相愛の夫が、じぶんの夫と重なり、茨木のり子さんが自分と重なったら、もう悲しくてだめだった。

急がなくてはなりません
静かに
急がなくてはなりません
感情を整えて
あなたのもとへ
急がなくてはなりません
あなたのかたわらで眠ること
ふたたび目覚めない眠りを眠ること
それがわたくしたちの成就です
辿る目的地のある ありがたさ
ゆっくりと
急いでいます

茨木のり子 『急がなくては』


◇◇◇

まだ、読みかけの本もある。
岡田尊司の『母という病』はあとすこし。
それから、村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、今夜にでも読了予定。

つぎに読みたい本も決まっていて、棚には恩田陸や谷川俊太郎のエッセイ、向田邦子、ショウペンハウエルも待っている。

どれを読むか、まだわからない。
そのとき、そこから「どれにしようか」と選ぶ時間も、読書の楽しみのひとつなのだ。

つぎは、なにを読もうかな。

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