「想像すること」の深さの具合
「う、う、」と、上の方を指差す次男。
1歳の彼は、いま、空前の指差しブームだ。
最近はよく、天井を指差し、何か言いたそうにする。
「う、う、う」しか言わないが、顔が明らかに何か言いたそうなので、こっちもそれを理解しようと必死になる。
でもよく分からない。
「電気?電気かなー?電気ついてるねえ」
天井に埋め込まれた電気が並ぶのを指差しているように見えてそう返すと、にこにこ嬉しそうに体を揺らす。
そうかそうか。
電気か。
・・・電気、かな?
本当に、電気のことなのだろうか。
もしかしたら、お化けでも見えていて、私がそれを「電気」と言うもんだから、電気という名のお化けを見つめて、にこにこしているだけかもしれない。
その真偽は、本人にしか分からない。
その子の見えているものは、その子にしか分からない。
だから、親は「想像する」しかない。
この「想像する」ということについて。
『さみしい夜にはペンを持て』の古賀史健さんは、こう書いておられる。
記事のなかでは、若者が老いや病を理解するには、うんと自分に引き寄せて考える力=想像力が必要であると例を出されている。
若者にとって、老いも病も遠いからだ。
でも老人にとっては、老いも病も身近なものだ。
だから、これに対する想像力は、あまり必要ないといえる。
冒頭の、子どもの話も、おんなじだ。
言葉は拙く、深く考えられないようにみえる子どもたちでも、ちゃんと自分の考えを持っている。自分の世界を持っている。
親はそれに気づき、子どもの行動、目線、発言、過去の経験、あらゆることを総動員して、子どもの目線の先を「想像する」。
子どもの見ているであろう世界を、自分の方に「引き寄せる」のだ。
そして、その気持ちに寄り添い、言いたいことをくみ取り、代わりに言葉にしてやる。
「ああ、電気だね。電気がついていて、おもしろいんだね。」
それが、親であるわたしのできること。
子どもの世界を自分に引き寄せて考えることは、自身の幼少期を思い返せば、そんなに難しいことではない気もする。
いや、どうだろう。
自分と我が子は、似て非なる存在。
子どもの言いたいことすべてを完璧に「想像する」ことなんて、やはりできないのかもしれ
ない。
想像は、どれだけ自分に近づけられるか。
つまり自分とは遠いことほど、そう易々とは想像できない。
私にとっては、能登半島を襲った地震もそうだ。
被災したことのないわたしに、現地でたいへんな思いをされている人たちの心境を「想像すること」は、容易ではない。
家を失い、家族の安否が不明であることが、どれほど心をいためるのか。
あまりに自分と遠くて、まるで想像もつかない。
自分に引き寄せて考えすぎると、辛くなる。
だからって、考えるのをやめていいのだろうか。
被災された方の置かれた状況や心境を、想像しなくていいのだろうか。
自分の心を守るためには、ある程度離れたところにいることも必要だ。
それでもやはり、「自分には関係のないことだ」と、のうのうと過ごすことはしたくない気がする。
わたしが被災地のことをどれだけ考えても、それだけでは何も変わらないのだけど。
おなじ国で辛いことがあったからといって、わたしまで楽しい気持ちを見失っても仕方ないのだけど。
揺さぶられすぎず、突き放しすぎず。
思い詰めず、見つめすぎず。
難しい。
引き寄せて考える。
その深さの具合が、どうにもわたしには難しい。
ちなみに、「ほぼ日」で有名な糸井重里さんの「今日のダーリン」。
恐れながら、おんなじ気持ちです。
糸井重里さんですら、今このとき、書く手が何度も止まるというのだから。
わたしのこの気持ちも、認めていいよね。
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