書いたけど、投稿しないまま握りしめていてもいいんだ。
西加奈子さんの「くもをさがす」を読んだあと、祖父の葬式のことを書いた。
祖父の葬式はちょっと変わっていて、「おじいちゃんとお別れをする会」という名前で執り行われ、手作りのBGMが流れ、黄色いバラが献花として並べられた。
日差しのよく届く、あたたかな会だった。
祖父は癌で亡くなった。
だから、「くもをさがす」で描かれた、西加奈子さんの癌の始まりから終わりまでの物語が、祖父の生き様と重なった。
その祖父のことを急にすべて思い出したので、忘れないうちに記事に書き起こしたかった。
でも、投稿していない。
なぜか、投稿する気にならなかった。
「投稿しなくていいか」いう思いは、日に日に強まり、下書き一覧に鎮座したその記事が目に留まるたび、削除しようか悩むほどだった。
でもなんだか削除もできない。
祖父の死について、一から十まで書き記したそれは、もはやその記事自体が思い出の一部のように思えてしまって。
消してしまえば、只でさえ少ない祖父との記憶すらも、薄れていってしまうような気がしてできなかった。
記事は今でも、下書きに居座っている。
この、「書いたけど投稿していない」ことに対して、ずっと「もったいない」と感じてきた。
せっかく書いたのに、時間の無駄だったな。
完成したのに誰にも読まれないんだから、この記事は無意味だったな。
結果的に投稿しないものを、時間をかけて書いたなんて、もったいない過ごし方をして損したな。
そんなふうに考えてしまうと、下書き一覧に並ぶ未投稿の記事たちが、恨めしく思えてくる。
時間を返せ、そう睨みつけたくなる。
やっぱり「せっかくだし」、投稿してしまおうか。
でも、手は止まる。
「使わないともったいないから」とか、「せっかく書いたんだし」とか、そういうのって必要だろうか。
だって、わたしは「書いた」のだから。
書きたいことを、書き切った。
未投稿の記事たちは、それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、わたしの書きたいことが言葉になって、詰まっているだけのただの箱だ。
投稿すれば、その箱の中身をたくさんの人が見てくれる。
そして、「すてきな中身だね」と褒めてくださり、時には声をかけてくださる。
でも、それは「書き切った」に加えてプラスされるnote独自の要素であり、まずは自分の思いの丈を書くことそのものが、わたし自身のやりたいことだ。
書き切ることができたんだったら、投稿しないまま握りしめておいても、何の問題もないはずだ。
今ハマっている、くどうれいんさんの「日記の練習」にも、同じ気持ちをあらわす一文を発見。
そうそう。
2000字、3000字と書ききっても、「べつに見せたい気持ちじゃない」となるの、よく分かる。
その日の夜、たっぷり時間をかけて書いたとしても、読み返して「べつにいいか」と思ったり、書き切ったことに満足したりする。
でも、それでいいんだ。
その時間を「書いて」過ごせたから、それでいい。
その時間は、わたしの心にたしかに何かを与えてくれたはずだし、投稿されないままの記事たちも、今は出番じゃないだけかも。
それに、「もったいないから」って、晒したくない部分まで探す必要はないし、それで代わりの記事が書けなくて毎日投稿が途切れたって何の問題もない。
書いた記事が、「使える」とか「使えない」とかじゃないんだ。
もったいないから、無駄になるから、損するから。
そんな言葉を並べながら、noteを続けていきたくない。
書けた「記事」よりも、書いた「時間」を大切にしたい。
くどうれいんさんの、書いて消されたその2000字よりも、書いて消したというその一文で、下書きたちを恨む気持ちが、すーっと空気に消えていった。
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