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10年勤めた会社を辞めて独立した理由〜2

ブラック家族経営、さりながら…

カリスマ社長との運命的な出会いを経て、非常に幸福な形でスタートした私の呉服屋キャリアであったが、入社してすぐ、この店が現代的な意味で「従業員に優しい」「ホワイトな」企業では無いことに気づかされる。
…正確に言えば、ある程度予想が的中していたことを目の当たりにする。誰の得にもならないので細かくは言及を避けるが、江戸時代のオープンからこの方、つい20年ばかり前まで150年ほどの間、一つの家の中で家族と、番頭さんとお手伝いさんくらいの規模感で切り盛りされてきた店である。形の上で株式会社化し、従業員数が10人ほどになったとは言え、上場企業並みのガバナビリティが発揮されていよう筈がない。

社長と社長夫人の絶対的な権力の下、朝令暮改は日常茶飯事、人事考課は気分次第、男尊女卑はこの業界全体に根強いが、従業員は常に創業家の顔色を伺い、その機嫌を取りながら日々の糧を得ることに終始し、上司が部下を教育することもない(※会社としての社員教育の枠組みが考慮されていない)。会社がどういう方向に進むべきか、その為にどのような施策を講じるべきか、思ったことが口に出せる環境になく、議論が生まれる余地もない。ただただ「悪目立ちしないように、言われたことだけをやる(やっているように装う)」人間ばかりが生き残る集団である。

ことに組織として致命的であると私の目に映ったのは、年次が上の社員が後輩の社員を教育することなく、時には後輩をダシにして自分の利益を求めたり、後輩を盾にして経営者からの叱責を逃れたりしようとする、責任感と信頼関係の希薄さ、であった。
新しく入社した者は誰を信用すれば良いか分からず、何を目指せば良いのか分からず、自身のキャリアビジョンを描けずに失望して退職していく。私が勤めた10年間で、実に14人もの人間が入社し、15名が退職して行った。
(もっとも、この状況は特別なものではなく、日本中に割とありふれた光景なのではないかとも推測している)

それでも私は仕事に打ち込むことが出来た。社長への恩返しが一番の理由だったが、彼の「良いもの(自分が良いと思うもの)を作りたい」という熱意に偽りがなく、そのための努力を惜しむということが無く、寝食を問わずいついかなる時も仕事と会社の事を思い続けたその精神力に敬愛の念を抱いていたからだ。

もちろん彼は完璧な人格者では到底なかった。自分勝手で気分屋で、苦手な事は他人任せなのに文句だけは大きな声で主張するような性格だったし、好き嫌いが激しく人を見る目にも偏りがあったし、物事を進めるアプローチに歪な部分があっても、ほとんど人の意見に耳を貸そうとはしなかった。
私自身も、あまりに独善的で偏見に満ち溢れた言い分に対して、クビを覚悟で声を荒げて食ってかかったこともある。ただ、それでも「自ら退職する」という選択肢を取ろうとは思わなかった。

結局は、面接の時に投げかけられたあの一言が、私の勤労意欲を支え続けた。

社長の闘病と看護、そして…

私が入社するより随分前に、社長は大きな血液の病気に罹り、急死に一生を得た。骨髄移植により奇跡的に一命を取り留めたその後は、以前にも増して真摯に仕事に打ち込むようになったとのことだが、昔のことは知らないので聞いた以上のことは分からない。

さらに私の入社2年目の年に咽頭下部に癌が見つかり、手術のため入院することになった。そしてまたその数年後に再発し、治療のため患部周辺は根こそぎ切除され、人工声帯と胃瘻による生活を余儀なくされた。最後には舌癌の急速な進行によって彼は生涯の幕を下ろすこととなったのだが、その5〜6年の間、断続的な入院生活によって店と病院を行き来しながら仕事を続けていた。

今にして思えば、私たち周囲の人間より遥かに、自分の死期が近いことを感じていたのだろう。入院生活が長引くにつれ、より仕事の上がりを急かすように、また話の結論を急ぐようになっていった気がする。私は商品の制作現場を統括するようなポジションで仕事をしていたので、仕掛かり中の反物を病室に持ち込み、ベッドの上で広げて進捗を説明し、次の指示を受けることが日常となった。途中で食事や点滴の為に入室して来た看護師さんたちの目にはどう映っただろうか。

彼には待つことが出来なかった。最後の舌癌が発見された入院の時、友人でもある現代美術家からの依頼を受けて大きなプロジェクト用の作品制作に取り掛かっている最中であった。昼夜を問わず私のLINEには進捗を問うメッセージが届き、辛抱堪らずテレビ電話をかけて来ても、人工声帯で思うように声が出せないので結局画面越しに筆談したり、客観的には随分と滑稽なやり取りをしていたと思うが、その頃には私も十分に事態を深刻に捉えるようになっていた。
高齢と度重なる手術や入院生活によって視力も衰え、麻酔によるせん妄も加わっていたのか、病室から送られてくるLINEのメッセージは日本語が不明瞭で、時には全く解読出来ないひらがなだらけの文章もあり、私も返事に難儀したものだが、不思議と意思疎通は出来たように思う。

健康な時から常に、彼が何を考え、次に何を求めているのか、可能な限り彼を理解するよう努め、いつも彼の頭の中を覗き込むようにして言葉のキャッチボールを重ねていた経験の賜物で、私は病室から遠隔操作されながら、彼に代わって制作を進めることが出来た。

納期に間に合うか危ぶまれながらどうにかこうにか完成し、コロナ禍に新しくオープンしたコンベンションホールの柿落とし公演に、作品は無事に飾られ、舞台に花を添えることが出来た。彼自身はその出来栄えを直接に確認する事は出来なかったが、依頼者からの満足の意も受け、大いに喜んでいたのが思い出される。

最後の大仕事を終えて安心したのか、その翌月、あっさりとこの世に別れを告げ、彼は旅立っていった。

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