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「カネの切れ目は縁の切れ目」の正体を暴きます_[書評]発達障害サバイバルガイド

小学生時代、飼っていたジュウシマツを、見殺しにした。
理由は、病院に連れていくだけのお金が家になかったから。何日も泣いて暮らした。とにかく必死で世話をし、傍らで彼女を見守った。

この寒波で、路肩のすずめがぼわっと羽を膨らませて、暖をとっている。「ふくら雀」と呼ばれる冬の風物詩が体を寄せ合っている微笑ましい姿は、昔飼っていたつがいのジュウシマツのそれに重なって、思い出してしまう。

今の私なら絶対にそんなことはさせないのに、病院に連れていくだけのお金さえあればと、いまでも思う。そのとき私はただの非力な小学生だった。

そんなこんなで今回は、私たち人生の使いっぱしりであり、かたや一生の奴隷でもあるカネの話をしてみようと思った。

私たちの生活の前提にあるもの

カネの切れ目は縁の切れ目という熟語がある。
皆さんは、この熟語を、どう捉えているだろうか。

金(かね)の切れ目が縁の切れ目 
金銭で成り立っている関係は、金がなくなれば終わるということ。

こう言っているが、大なり小なり金銭が絡まない関係なんて、この世に存在しない。遠くの誰かに会いにいけば交通費もかかるし、話をするなら喫茶店に入るし、弾んでくれば居酒屋にも行く。相手の家に行くにもコンビニで買い物をして何か買っていき献上するのが、家に上がらせてもらうものの礼儀ってもんだろう。

先日、『発達障害サバイバルガイド』著:借金玉 を読んだ。

事業で失敗し、多額の借金を抱えたADHD当事者の著者が、衣食住のあらゆる場面において待ち受ける生きづらさを、どのようにして乗り越えてきたか、その試行錯誤のすえに選び抜かれたライフハックの粋が詰まっている。

「発達障害じゃないから、自分にこの本は必要じゃない」と敬遠するのは非常にもったいない。そうかどうかの線引きなんて非常に曖昧だし、だれしもが性格の一部にその要素を持ち合わせ、自分とそれ以外との摩擦=生きづらさを、どこかで感じている。

Hack44で、カネがないことによって人間関係がどう変わっていくか、借金玉さんは自分の経験を交え、こう語っている。

人は(金がないということを理由に)関係性という大きな可能性の根源を失っていくのです。お金がない。それだけのことが、人を孤立に向かわせる力場を避けがたく発生させる。

なにげなく消費している自分の意志は、社会というフィルターを通すとき、カネのかたちに変わるのだと思った。カネがなければ、関係性は緩やかに閉じていき、自分もそれに抗う術を持てないまま、社会性は狭まり徐々に孤立していく。

閉じていく縁が何をもたらすか

父の古くからの友人に、Kさんという方がいる。父と同い年の彼は、人間関係のもつれがきっかけで酒に呑まれ、飲酒運転で高卒から勤め上げてきた職を失い、患った鬱で規則正しく働くことすらままならず、いまも生活保護を受けながら、独りで暮らしているらしい。

私も幼いころたまに遊んでもらったことがある。記憶は薄いが、穏やかで、長話が得意な父の言葉を遮らずに笑ってずっと聞いてくれている、とても優しい人だった。

そんなKさんから先日、なぜか母の携帯のほうに連絡が来たらしい。本当に久しぶりの連絡に驚きながら、近況を報告しあったあと、母は久しぶりにKさんを家へ来ないかと誘った。

「たまには顔をみせてよ、旦那も会いたがってるよ」
「うん。ありがとう」

歯切れのいい返事ではなかった。父には連絡すらしていないという。
同い年の父に会えば、厭でも自分の現在が浮き彫りになるからねと、母はあっけらかんと笑ったが、かえってしけた空気になった。

父は仕事に精を出し、それなりの評価を受け、家族を養っている。そこに対面すれば、「どうしていつの間に自分はこうなってしまったのか」と自分を責め、下手すれば大切な友人を嫉妬や後悔に巻き込んで、間違った感情の対象にしてしまう。それが、何よりも怖いのかもしれない。

彼は、友人への言葉すら失って、ただ静かに、静かに、暮らしているのだ。

これが「関係性が閉じる」ということであり、「カネの切れ目が縁の切れ目」の本当の正体だと私は思う。こうなる可能性を、誰もが持っていることを、絶対に忘れちゃならない。

のうのうと生きている私が、Kさんに直接かけられる言葉なんて正直ない。

でも、生きていてほしいと願う。
あなたの幸せを祈る人がいることを、信じていて欲しいと思う。

カネの本当の価値とはなにか

私たちは、自分の存在にはじまり、食べたいもの・会いたい人・読みたい本・行きたい場所と、大小様々な自分の意志を叶えるため、カネを自分の意志の表れとして使用する。

私はあれが欲しい、
私はあの人に会いたい、
私はあの本が読みたい、
私はあの景色を見てみたい、
私はここにいたい。

これまで、どんなカネの使い方をしてきただろう。

正直に観念すると、死んだジュウシマツが夢枕に立つ機会があれば、叱られてしまうような他愛もないもののほうが多いかもしれないなあ、と思う。漫画の同じ巻を何冊も揃えてしまうし、スーパーにいけば必要なものを忘れ、余計なものばかり買って帰る。

しかし、重要なカネの使い道のひとつを、彼らが教えてくれたことは忘れていない。カネは人生のすべてではない。だが、カネによって回避できる悲劇が、この世には一定数ある。

悲劇に対して自分の意志を表明する力を持つ。その覚悟は、ときにカネのかたちをしている。

当時の無力な私へカネの偉大さを知らしめ、命を散らしていった彼らの面影とともに、私は、大人になった。あのとき、忍び寄る病気に真っ向から挑んで「絶対に病気を治してあげるから」と紙幣を握り締め獣医に駆け込めたら。心のなかの錆びついたゲージには現在も、かけがえのない思い出と無力感が同居している。

その価値は、逆に世界中のカネを持ち出したとしても、絶対に描きだせないものだ。それだけは、わかっているから。今度は絶対に、間違えないと、この場を借りて彼らに約束する。

私の意志がカネの形となって、社会を巡る。まるで人懐こい小鳥のように。誰かの懐に入り、誰かの遣いとしてまた社会に飛び立っていき、誰かが困ったときには、寄り添い温めあう。

とんだ遠回りをしてしまったが、紹介した1冊は、健常者でもなんでも関係なく、生活のあらゆる場面で「どうして人と同じように出来ないんだ」と苦しい経験をしたことがある人なら、気軽に一度開いてみてほしいと思う。

もし、この記事を読んでカネの使い方を改めてみようと思ってくれた人がいたらならば、いい話がある。ジュウシマツを飼い始めろ、とは言わないし、元手は千円ちょっとあればいい。

まずは、この本を買ってみる。
君にとっても悪い話じゃないはずだ。


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