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「きょうだい児」は、死ぬまで我慢しなくちゃいけないのか?

「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」
下に弟や妹がいる人なら、多かれ少なかれこの言葉に苦しめられた経験があるはずだ。

私にとってもこの言葉は、非常に特別な意味をもつ。
空気を読み、遠慮を覚え、手のかからない「いい子」だと大人に褒められることが、幼い私のすべてだった。家族は私に甘え、私は甘えることが苦手な人間に育った。

私の3つ下の弟は、知的障害者だ。

短編映画『ふたり〜あなたという光〜』公開記念 
障害者の兄弟姉妹「きょうだい児」の視点

『ふたり~あなたという光~』という短編映画が、2月に公開される。

この作品の主人公は、「障害者のきょうだい」である。「障害を持つ人々」ではなく、その障害を抱える人とともに育ってきた健常者、「きょうだい児」の物語だ。筆者もこの映画の制作にあたってのクラウドファンディングに参加した。人生で初めてのクラウドファンディングであった。

「きょうだい児」。
障害者のきょうだい。


いきなりそう言われて、ピンとくる人がどれほどいるだろう。
この映画を面白そう、と思う人がどれだけいるだろう。
なんせ地味だ。めちゃくちゃ地味すぎる。

だって障害を持つ当事者ならまだしも、どうしてその兄弟姉妹を扱った作品が制作されるのだろうか。多くの人がそう思っている。まったく想像がつかない。

障害を抱える人とともに育ってきた、健常者が、どんな生活を送っているのか。
「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」
冒頭あげたこの一言に、すべてが集約されていると私は思う。大人になって結婚してもまだ私は、弟の今後に係る様々な場面で、その言葉を突き付けられている。人によってはこれを、呪いだと受け取る人もいるだろう。

24時間テレビで感動を呼ぶ(皮肉です)彼らの陰で、葛藤し日々を生き抜いてきたバイプレーヤーたちに、今回こうしてスポットライトが当たることを、私はとても嬉しく思っている。

私もまた、きょうだい児の一人だからだ。

前置きすると、この記事は、障害を憎むためのものではない。
それどころか、私にとって障害は非常に身近なものである。自分が明日なったとしてもおかしくないと思っているし、なんならかぎりなくグレーゾーンなステータスだってある。

障害を持とうが持つまいが、人間の魂の高潔さはそんなものには左右されない。私はそれを、誰でもない障害をもつ弟から学んだ。

話を戻す。この映画の公開にあわせて、障害者のきょうだいである「きょうだい児」について、当事者の視点から「きょうだい児」をテーマにnoteを書いてみることにした。

誰だって、障害者になる可能性がある。だからこそ、その障害者の側で、時に自分の子どもらしささえ放り出して、家族のために、きょうだいのために頑張ろうとしている存在がいることを知ってもらいたい。

地味な世界で生き延びてきた人たちのために、あなたの時間を少しだけ分けてください。

そもそも「きょうだい児」ってなに?

明星大学で障害学をご専門にされている吉川教授によると、きょうだい児について、下記のような説明がなされている。

”きょうだい児” は障害のある兄弟姉妹と一緒に生活しているために1人の子どもとしてのニーズが無いものとされてしまい、普通の子供としての普通の発達を認めてもらえない・サポートをしてもらえないことが多く、それが生きていく上での困難に直結してしまいます。

統計によれば、人口の約1割が障害者である社会で、きょうだい児も、同数程度いるのではないかと言われている。

障害を抱える人とともに育つきょうだい児は、ときに「小さな大人」とも例えられる。障害者のケアに奔走する家族は次第に、子どもでありながらも健常者である兄弟姉妹を小さな大人として認識し始める。同じく障害者の兄弟姉妹へのケアを期待されたり、大人と同じような行動・思考を求められるようになる。

幼少期に必要な人格形成の手順を踏めず、大人になっても認知が偏ったまま、他人に許容されることで自分の存在意義を見出そうとするアダルトチルドレン(「機能不全」家族で育って大人になった人)になってしまうケースも多い

私も人に甘えることが苦手で、自分ひとりで仕事を抱え込んで迷惑をかける、人の顔色ばかりをうかがってしまうなどの癖がある。反抗期も来ず、ろくな怒り方も知らないまま、大人になってしまったなあという惜しい気持ちがある。私も盗んだバイクで走り出し、深夜の校舎の窓ガラスを割ってまわりながら、怒りの加減を学んでおきたかった。

きょうだい児に関係性の深いアダルトチルドレンの5分類を挙げておこう。
あくまで程度の問題なので、役割が変化することや、複合的に併せ持っている人も十分いると捉えておいてほしい。

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私はここでいうところの「道化師」と「世話役」が5:5の「おちゃらけカウンセラーブレンド」だが、そこにいきつくまでに、長い我慢の時期があった。

我慢すれば褒められるけど

私が小学校低学年くらいのとき、外出先でよく、弟が予定外の出来事にパニックを起こし泣き喚くことが度々あった。彼は自閉傾向があり、いきなりのことに臨機応変に対応するのが苦手だ。

母は混乱し、どうしたらいいかわからずアタフタしている。そして、私は私で、その側の売店でアイスクリームが食べたい。さて、私の我儘の付け入る隙がどこにあるのだろうか。そこで食い下がるガッツもなく、私は我慢する。あとでベソをかいて自分の気持ちを打ち明けると、「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい。皆大変なんだから」と叱られる。

弟が私の所有物に興味を持って壊してしまえば「大切なものは目の付くところに置かないの。お姉ちゃんなんだから」と言われ、友達が家に遊びに来た時、相手にしてもらいたくて弟が乱入してくるのも「お友達が来るのが嬉しいのよ。お姉ちゃんなんだから、一緒に遊びなさい」と言われる。

私はいまや、その言葉が大嫌いだ。
だからなんだよ。
こちとら姉である前にひとりの人間やってんだぞ、好きにさせろや。

そんなふうにグレることすら知らない幼き私は、どうしたものかなと、ない頭をひねった。そして、路線を変更することにした。

我慢したのちにそれを報告して、
「偉いね、いい子だね」と褒められることにした
のだ。

家族は弟に理解のある、そして手のかからない姉を喜んで歓迎した。余裕のないなりに、家族も私のことを見てくれていた。親戚の集まりで「弟思いのいいお姉ちゃんね」という社交辞令が飛び出すことを、誰よりも待ち望んでいた。

しかし、今思えばそれは、かなりの悪手だったと思う。

汚い話で恐縮だが、うんこと一緒だ。便意を我慢してばかりいると、便意を脳に伝える神経が徐々に鈍っていき、「便意があるのにない」という恐ろしい体質になってしまうらしい。私は次第に、我儘は叶わない、だから我慢すればいい。そしてあとで褒められて「もと」をとればいいじゃないかと、そう思うようになった。

そうしたら、私にある変化が訪れた。
毎日、寝る前に涙が止まらなくなってしまったのだ。
泣きつかれて眠ることが多くなった。ドラマで「自分に酔っている」という表現を知って、自分の置かれた状況を冷静に分析することもできず、私は悲劇のお姫様ごっこをしているにすぎないんだとさらに自分を追い込んだ。よく病気にならなかったな、と思う。

子どもが子どもとしていられる場所とか気持ちを吐き出す場所があるということはとても大切で、小さいときからケアしておかないと思春期に精神疾患を発症したりします。

我慢すれば、うんこをため続ければ、どうなってしまうのか。
きょうだい児における、精神疾患発症率について、まだ明確な統計はとられていない。きょうだい児という概念が確立し、ケアが必要だと叫ばれるようになってきたのは本当にここ最近のことである。

これを読んでいるあなたが、うんこをずっと我慢し続けることはできないように、気持ちのやり場を失ったきょうだい児は、ときに様々な形で、そのはけ口を模索し、奮闘している。その人の努力や根性や気合でどうにかなる問題ではない。どうか、弱い人間だと一蹴されないことを願う。

きょうだい児の持つ心の永久凍土

小学校時代、姉である私の生活は、葛藤に満ちたものだった。弟は私と同じ学校に入り、特殊学級に所属していた。

障害のあるひとにはやさしくしなきゃならない、という覚えたての道徳と、家族を悲しませたくない思いと、自分の気持ちに板挟みになった。学校で差別され、からかわれたりする弟の姿を前に、味方になってやれない罪悪感で毎日が苦しかった。

大人になってもなお、老後の彼とのかかわり方をどうすべきか、悩みはつきなかった。冒頭述べた呪いの言葉のように、「お姉ちゃんなんだから、弟の面倒みるのが当たりまえ」、「弟を見捨てるなんてひどい姉だ」と、つねに誰かから言われているような気がしていたし、なんなら死ぬまで「お姉ちゃんなんだから」と言われるんだなあ、と諦めていた。

社会人になって結婚を意識するようになってからは、結婚相手は弟を認めてくれるだろうか、という懸念事項が追加され、私の心の永久凍土は、どこかずっと心配と不安と罪悪感を抱えていた。

映画でも、この部分をかなり掘り下げられるようなので、どのように描かれるのか、非常に興味がある。

照らされるふたりの未来

そんな私の永久凍土が少しずつ溶け始めるきっかけとなったのが、福祉施設での経験だった。大学卒業後、地元の社会福祉法人で働きはじめ、グループホームで自立して暮らす知的障害の入居者に出会った。

そこで支援員をしながら、彼らと彼らの家族の関わり方について学んだ。なにより、知的障害をもつ入居者の人々が自立することに誇りをもち、日々と格闘しながら、入居者仲間やスタッフ、そして家族とよい関係性を築いていることが、私を大いに救った。

私と弟は、ふたりきりじゃない。
私も弟も、望めばそうなれるのだ。
どうするかは、世間の目が決めるんじゃなく、私と弟の当事者間で決める。
家族だからこうしなくてはならない、ということはない。むしろ家族だからこそ、いい距離感でいることを、望んでもいい。

もちろん、できないこともある。
だから、福祉のなかで、ふたりで、できることを探ればいい。
福祉は、すべての人のために開かれているものであることを、身をもって実感した。

ありきたりかもしれないが、私の脳裏にはいまだに、泣きながら弟の手を無理やりひいて帰った、ふたりぼっちの通学路の風景が焼き付いてしまっているのだ。

おわりに

きょうだい児という自分に対して、今更何かしてほしいということもない。可哀そうだと思われたいわけじゃないし、障害者を糾弾してほしいなんてまったく思わないし、誰彼かまわず大切にしてほしいだなんて馬鹿なことも思わない。

これから子供を産み育てたいと思う人、障害のある人、障害者の家族、友達……これから障害をもつ可能性のあるすべての人に、シンプルに、知ってもらいたい

映画『ふたり~あなたという光~』、クラウドファンディングに参加していない方も、誰でも参加できるオンライン上映会(チケットは1,000円~)があるそうなので、興味がある方はぜひチェックしてみてほしい。

私も2月12日のクラウドファンディングのリターン鑑賞会に参加する予定だ。

弟よ、これからお互いの人生、
罪悪感をもつことなく、イーブンに、やりあおうじゃん。

障害があってもなくても関係なく、人として、ときに福祉を利用して、最高にいい関係をつくろうよ。

そう思いを寄せたところで、映画を楽しみに待つことにする。

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