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【Zatsu】真の芸術を語ろう

芸術の才能・能力って常に変化していくよね。刺激もしくは無刺激によって、磨かれたり衰えたり、とにかくどんどん変化していく。

かつての自分の才能を振り返ると、われながら感心することってあるでしょ? たとえば、よくあげられるのは「こども時代に描いた絵」とかね。こどもがよく太陽を緑色に塗っていたりする。で、大人が感心して「こどもの自由な発想はすばらしい」とか持ち上げる。でも、大人が同じことをやっても評価されなかったりする。

まったく同じ作品でだよ。緑色の太陽がギラギラ輝いている絵。それでも作者の年齢によって評価されたりされなかったりっていう現実がある。ってことは、それは作品そのものを純粋に評価しているわけじゃないんだよな。そこには「大人は常識を持って、理にかなった作品を作るべき」っていう前提があって、それに合致していないものは基本的に評価が下がるんだ。
逆にこどもは当然ながら社会常識なんてまだ備わってない。だから常識はずれの絵を描く。それをさして「(常識に左右されない)自由な発想だ」と持ち上げる。
あたりまえじゃねぇか。なに言っていやがる。

実はこどもには太陽が緑色に見えているのかもしれない。正確にいえば、網膜には黄色に映っている太陽も、未成熟な脳ではうまく処理できず、緑色と認識しているのかもしれない。とすれば、緑色の太陽の絵は単なるリアリズムなんだけど、そういう意味で評価されるわけじゃないもんね。

でも、たしかに大人の世界に浸かってると常識から外れることが難しくなってくるってのは間違いない。自分のこども時代を振り返っても、当時はもっと自由な発想ができたように思う。
いつだったか、ひさしぶりに自宅へ帰ったとき、高校1年の美術の授業で初めて作成した彫刻がでてきた。それは驚くほどリアルな「足の裏」の浮き彫りだった。おれはかつての自分の才能に誇りを感じたね。だって、高校で最初の美術作品が、足の裏の浮き彫りだよ。どういう発想だよ、おれ。これは案の定、先生にまったく評価されなかった。

同じ年の夏休み。おれは起死回生を狙って、自由課題作品を仕上げた。
まず、白い風船と極細マジックでリアル目玉を作成し、土台に固定。
次に、洗濯用のゴム手袋に詰め物をして人差し指だけを伸ばした状態にし、その指を風船目玉に押し付けて固定。
タイトル「刺しちゃった」。製作所要時間、30分。
おれは震えた。芸術キタ。
「ンゴォーールッ」って叫びたいほどオレとしては会心の作品だったわけだが、全員作品展示の際、先生になるべく目立たない場所へひっそりと置かれた……。

どうしてもおれの芸術を評価しようとしない先生だったけれど、ひとつだけ評価してくれた作品がある。それは版画で、いくつもの惑星が宇宙を漂っている構図だった。
中央のいちばん大きな惑星はシャボン玉みたいに透けていて、なかでは血管の浮き出た胎児がこちらを見つめている。
この版画に先生は異常な興味を示したんですよ。
――あ、(察し)。
要するにこの先生、ある種ヘンタイだったんですな。自分で作っといてなんですが。

でも、これを評価するなら足の裏とか目玉も評価してくれよ。感性鈍いんじゃねぇか? おれが美術教師だったら、一緒になって笑うと思うけどね。もちろん、ひとしきり笑ったあとで「フザケルナッ」って怒るとも思いますが。

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