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50年前に起きた内ゲバ殺人事件を描いた『彼は早稲田で死んだ』を読む

1972年11月、早稲田大学の構内で学生がリンチに遭い、命を落とした。非業の死を遂げたのは二年生の川口大三郎君、川口君を死に追いやったのは早稲田大学を支配する新左翼セクト、革マル派である。
『彼は早稲田で死んだ』は川口君事件とこの事件を機に湧き上がったさまざまな運動の顛末を描いたものである。著者の樋田穀は運動の一つを主導した人物。

樋田氏は1972年、早稲田大学に入学し、革マル派の暴力支配を目の当たりにする。そして、敵対するもの、意見を異にするものに対して容赦なく暴力を行使する革マル派と、そんな彼らを野放しにしている早稲田大学に憤りを覚える。そして、11月に発生した川口君事件を機に、「革マル派による暴力支配からの解放」の運動を立ち上げる。
この時は、多くの学生が「革マル派による暴力支配からの解放」の戦いに決起した。戦いの方法はさまざまで、革マル派に対抗して武装するものもいれば、革マル派と敵対関係にあるセクトと連合を組むものもいた。しかし、樋田氏は武装も、セクトとの連合も否定し、ガンディーのような非武装・無抵抗の戦いを進める。不寛容な革マル派に対しては寛容の精神で戦わなければならない。樋田氏はそう考えたのだ。

この戦いの舞台が1972年から1973年であることは示唆的である。1972年は『仁義なき戦い』が週刊誌で連載された年、1973年は映画化された年だ。樋田氏は「非暴力・寛容」を訴えたわけだが、彼が求めたのは「仁義ある大学」であり、「仁義ある学生運動」だったのだろう。1960年代の末、新左翼セクトや全共闘がめちゃくちゃにした早稲田大学に、彼は再び仁義の火を灯そうとしたのである。

しかし、時代は戻らなかった。共に立ち上がった仲間の多くも、「樋田はなに眠たいこと言っとるんやー」と武装の道に進み、「総長を拉致して団交」という仁義もへったくれもない戦いに突き進んでいく。そして、それに合わせて革マル派の暴力もエスカレートし、その中で樋田氏もテロに遭う。

さて、以上は早稲田大学の話だが、私の通っていた法政大学も暴力の行使を躊躇しないセクトに支配されていた。そのセクトとは中核派である。中核派と革マル派は壮絶な内ゲバを繰り返していたが、この本を読むと、早稲田で革マル派がやっていたことも、法政で中核派がやっていたことと同じだったことがよくわかる。セクトを用心棒として使い、学生運動を抑えるという大学当局の姿勢もまったく同じ。私はページをめくるたびに既視感に襲われた。
法政大学でもテロ事件はしょっちゅう起きていた。その中でも、1978年、1983年、1988年、1994年に起きたテロ事件は「全学を揺るがした大事件」としてさまざまな形で記録が残っている。
1994年の事件には私も深く関わっている。テロの被害にあったのは私が所属していた団体の後輩、集団リンチを指揮した中核派の人間も私の友人だった。

『彼は早稲田で死んだ』には当時、革マル派の暴力支配の象徴であった大岩という人物が登場する。「スローライフ」を提唱する社会思想家の辻信一である。
樋田氏は大岩に「なんで、あんなことを」「なんで、あんなことに」と説明を求める。しかし、大岩は「理屈で説明したら、それは嘘になると思う」「いくら因果関係を説明できたとしてもそれは後付け」としか答えない。樋田氏はそんな大岩の態度に苛立つ。
が、私はこう思った。テロリストの心情とはこういうものなのだろうと。
暴力とは、考え抜いて結論を出して行使するようなものではない。あれは、考えることを中断して行使するもの、気がついた時には行使しているもので、動機は後で刑事が考えるものなのだ。
だから、大岩は誠実に答えている。私はそう思った。しかし、非暴力の樋田氏にはピンとこなかったのだろう。

「なんで、あんなことを」「なんで、あんなことに」
1994年にテロ事件を起こした人間と会ったら、私もそう聞くだろう。厳しく問い詰めるはずだ。この30年、私は心のどこかで、ずっとその機会を待っていた。
が、この本を読んで、答えはわかった。なんで、あんなことになったのか、なんで、あんなことをやったのか、彼女にもわからないのだろう。

こちらは法政大学を舞台にした内ゲバ小説です。



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