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革命の天使:第四章 クラパム・コモンの屋敷

 アーノルドとコルストンは二十分ほど歩いてボロアパートの玄関に辿り着いた。道中で寄り道などをしなかったのは、自らの運命との闘いを長く続けたいならば出費をできるだけ抑える必要があると、貯金がどんどん減っていく中で嫌というほど確信していたからである。
 二人が汚くて悪臭のする階段を上がっていると、コルストンが言った。

「ふぅ! まったく、君は科学界の英雄だな。こんなごみ溜めで二、三年も暮らしながら、夢を諦めずに貧相なパンと魚で飢えをしのいでいたなんて」

「この辺の安宿に比べれば、ここは宮殿だよ」とアーノルドは笑って応じた。「絶望的なことに、進歩の歩みはここみたいなロンドンの半分を置き去りにしたんだ。十年前には川のこちら側には何千人もの立派な一般人が住んでいたのに、今ではその栄光も陰って、人々が離れていくのと同時に汚いものが集まってしまった。悪徳や貧困、悲惨というのが、南ロンドンに自然と引き寄せられているようにね。なぜだかわからないけど、そうなってしまうんだ。さてと、これが僕の粗末な研究室の扉だ」

 彼はそう言いながら鍵穴に鍵を差し込み、ドアを開けて、連れに入るように促した。アーノルドの不安は、大切な模型がそのままの形で置かれているのを見るのと同時に解消され、彼はすぐにそれをコルストンの前に持ち出した。
 コルストンはこの奇跡のような機械技術を駆使し、驚くべき創意工夫を凝らして作られた模型を見て、表現できないほどの喜びを覚えた。アーノルドが機構や外装の様々な部分を彼に見せて説明した後、ついにエンジンを作動させると、飛行船は床から優雅に立ち上がり、係留紐によって引っ張られながら広い円を描いて部屋の天井を航行し始めた。
 彼は数分間、不思議そうに黙ってそれを見つめ、目で追いかけ、それから自分を虜にしている感情の波を必死に押し殺した声で言った。

「この上ない科学の奇跡だ! こんな飛行船が数隻でもあれば、ほんの一か月で全世界を征服できるぞ!」
「まあ、それも難しくはないかもね。どんな軍隊も艦隊も、こんな飛行船が二隻か三隻ぐらい上空を飛んでいれば、十二時間と存在できないだろうし」とアーノルドは答えた。

 試運転が終わると、アーノルドは片づけに取りかかり、模型を一部分解して梱包した。彼がそれを古い海水箱にしまっている間に、コルストンがソブリン金貨を十枚数えてテーブルの上に並べた。
 その金貨の音を聞いて、アーノルドは顔を上げて言った。

「どういうつもりだい? 今の窮地を脱するには一ソブリンあれば充分だ。それで、仮に今夜、条件について話をするにしても、支払いはその後でいいはずだ」

「〈ブラザーフッド〉はそういうケチな真似はしない」というのが、その返事だった。「今のところ、君と〈ブラザーフッド〉の関係はビジネス的なものだ。であるならば、この発明の試運転に立ち会うという特権に対して十ポンドを支払うというのは、非常に妥当な金額といえるだろう。とにかくだ、これは君の今までの苦労の代償として渡すようにと命じられたものだから、そのまま受け取ってくれていい――ビジネス的な取引の一環としてね」

「そいつはいいね」とアーノルドは海水箱を閉じて鍵をかけながら言った。「もし君が十ポンドの価値があると考えているなら、それは僕にとっても好都合だしね。……ようし、それじゃ君がちょっと留守番してこの家の守護神を見守っていてくれるなら、僕は家賃を払うために馬車を拾いに行くよ」

 三十分後、彼の僅かな、しかしながら貴重な財産は四輪馬車に積み込まれ、アーノルドは労苦と夢想、苦しみと失望の時間を過ごした薄暗い部屋と永遠の別れを告げた。
 昼前には、コルストンが彼のために用意した建物内にある自分の部屋に無事に落ち着いた。
 午後には、その他の買い物をする中で、より便利な模型用のケースを購入し、この中に模型の構造を説明する図面と書類を詰め込んで夜の旅に備えた。
 夕方六時にはコルストンの部屋で食事をし、七時ちょうどに彼の使用人が馬車が来たことを告げた。それから十分もしない内に、二人は最新式の豪華な屋根付き馬車に乗り、貴重なケースを膝の上に置いて、エンバンクメントをウェストミンスター橋に向かって走っていた。

「これは快適な馬車だね」と百ヤードほど進んだところでアーノルドは言った。「ところで、この御者はどうやって行き先を知ったんだい? どこにいくのか行き先を聞かれなかったけど」

「その必要はないんだ」というのがその答えだった。「この馬車は、ロンドンの他の馬車と同様に〈ブラザーフッド〉に属していて、運転している男は〈アウター・サークル〉の一人だ。御者という存在は、我々に所属している者の中で、もっとも有用なスパイなんだ。敵の秘密の多くが彼らからもたらされたもので、テロリストが運転している馬車で待ち合わせ場所に向かう秘密警察の捜査官だって多いんだぜ。要するに、旅先で交わされた言葉をすべて聞いているんだよ」

「一体どうやって?」

「運転席には屋根に接続した電話機が設置されている。運転手はコートの中にある送信機のワイヤーをボタンで留めて、送信機の本体を耳の近くに持っていくだけで、馬車内の囁き声まで聞き取ることができるんだ。例えば、今、我々の馬車を運転している男は、ロシア大使館の従業員のようなもので、ある週のある夜のある時間帯というような形で出勤している。我々の馬車はロンドンのどの業者よりも馬がよく、設備がよく、運転がうまいから、とくに若い外交員の間で人気がある。秘密の任務やデートのために、ほとんどいつも彼らに雇われているってわけだ。今夜は我らの同志が御者を請け負ってくれているが、本来であれば敵が少なからず驚くような仕事を果たしてくれる。そもそもエインズワース警部を最初に疑ったのは、とある馬車で彼が発したいくつかの不用意な発言がきっかけだったんだぜ」

「敵の動きを知るには、素晴らしいシステムだと思うよ」とアーノルドは言ったが、その自分が今まさに、文明世界のすべての首都に鋭い目と用意周到な手段を持つ、この恐ろしい組織の支配下に置かれているという事実を、不快に思わないわけではなかった。
「でもさ、どうやって裏切りから身を守るんだい? ヨーロッパのすべての政府が、この恐怖の組織の謎を解明するために、湯水のように金を費やしていることはよく知られている。君の部下の全員が潔白であるはずがないだろう?」

「実際、裏切り者はいないんだ。我々の行動を包んでいる謎がそうさせる。もちろん、過去に裏切り者は何人もいたよ。でも、二十四時間以内に処刑を免れた裏切り者は一人もいなかったから、残りの者にとって賄賂は魅力的じゃなくなったんだ」

 このような会話で時間が過ぎていった。馬車は川を渡り、ケニントン・ロードとクラパム・ロードを通り、クラパム・コモンまで快調に進んでいった。やがて馬車は公園に面して建っている立派な邸宅の馬車留めに入り、大きな漆喰造りの屋根付き玄関の前に停車した。
「ここだ!」とコルストンが興奮気味に叫ぶと、やがて馬車のドアが自動的に開いた。彼は先に降り、アーノルドは模型ケースを手に抱えて、彼の後に続いた。運転手は何も言わずに馬を道路に走らせ、街に向かって走り去った。
 階段を上がると玄関のドアが開いたので、二人は中に入った。

「スミスさんは御在宅ですか?」
「はい、お客様。お待ちしておりました。どうぞ、客間でお待ちください」

 ドアを開けた、イブニングドレス姿の髭のない、申し分ない使用人の男がそう答え、二人はすぐに電飾が施された綺麗な部屋に通された。
 使用人がドアを閉めると、コルストンが言った。

「さてと、今、君は陰謀家の巣窟にいるというわけだ。ヨーロッパ中の国々が血眼になって探しているにも関わらず、なんの成果も上げられないテロリストたちの本部そのものにいる。私はよくよく考えていたよ。この無害そうな屋敷の真の姿を知ったなら、クラパム・コモンの堅苦しい住人たちはどう思うのだろうか、とね。クラパム・ロードで地震が起きようとも、ここの発見以上に大きな反響を呼ぶとは思えんね。そして今――」とその口調が急に深刻な調子になって彼は続けた。「数分後には、君はテロリストの〈インナー・サークル〉――つまり、実質的にヨーロッパの運命を握っている者たちの面前に出向くことになる。彼らが君に何を望んでいるのかは、はっきりわかっているはずだ。もし、我々が話したことをよく考えて受け入れられないのであれば、私が話したことを一切口外しないという名誉ある約束をすれば、この仕事から手を引くことも完全に自由だ」

「そんなことをするつもりは毛頭ないよ」とアーノルドは答えた。「ここに来るまでに僕が出した条件はすでに知っているはずだろう。もし、それを受け入れてくれれば、君の〈ブラザーフッド〉は僕以上に忠実な信者を持つことはないだろう。もし受け入れられなければ、僕に関する限りは、この仕事は単に終了するだけだ。君たちの秘密は、僕が会員の宣誓をするのと同じぐらい安全さ」

「そうこなくっちゃな!」とコルストンは答えた。「まさに私が期待していた通りのことを言ってくれたな。さて、それでは少しだけ話を聞いてくれないかな。これから数分間、何を見たり聞いたりしても、発言を求められるまでは何も言わないでくれ。私は最初に必要なことをすべて話す。質問はしないでくれ。しかしながら、奇妙に思えるようなことは、やがて説明されるだろうからな――そう信じて待っていてくれ。君の軽率な行動一つで、根拠のない危険な疑惑を持たれるかもしれない。発言を求められたら、少しも恐れることなく、私にしたのと同じように率直に自分の考えを話してくれればいい」

「そんなことを心配する必要はないよ」とアーノルドは答えた。「僕は慎重さに関しては充分に分別があるし、大胆不敵というには充分に自暴自棄・・・・であることは間違いない。昨夜考えていたような運命より、もっと悪いことは起こらないさ」

 彼が話をやめると、ドアをノックする音がした。ドアが開き、使用人が再び現れ、ごくありふれた言い方で続けた。

「スミス様がお会いになるのを喜んでおられましたよ、皆さま。ご案内いたしますが、準備はよろしいでしょうか?」

 二人が使用人の後を追って広間に出ると、アーノルドが驚いたことに彼は奥の階段を降りて行った。どうやら屋敷の地下に通じているらしい。
 使用人は二人に先立って地下に降りると、石炭貯蔵庫の入り口のような、壁に埋め込まれている扉の前で立ち止まった。その扉を片手の指の腹でノックし、もう片方の手で壁紙の下に隠されていた電鈴のボタンを押すという奇妙な方法で合図した。少し離れたところで微かに電鈴が鳴り、それが鳴り終わると、使用人はコルストンに向けて唐突に言った。

「――『Das Wort ist Freiheit』」

 アーノルドはドイツ語を知っていたので、これが『言葉は自由である』という意味であることは充分にわかったが、なぜ外国語で話されなければならないのか、彼には少なからず不思議だった。
 そんなことを考えている内に、まるでバネが外れたかのように扉が開いた。彼の目の前には、四つの電気式アーク灯で照らされた細長い通路があり、もう一方の端は扉で閉じられていて、マガジン・ライフルで武装した歩哨が警備していた。
 アーノルドはコルストンの後を追って通路を進み、歩哨の十数フィート以内に来た時、ライフルの銃口を『用意』されたコルストンと歩哨との間で、次のような奇妙な対話が続いた。

「Quien va?(何者だ?)」
「Zwei Freunde der Bruderschaft(〈ブラザーフッド〉の友人二人さ)」
「Por la libertad?(自由のためか?)」
「Für Freiheit über alles!(自由こそが至上のものだ)」
「同志よ、通るがいい」

 その言葉が発せられると、ライフルが接地し、歩哨は通路の壁際に下がった。
 それと同時、ドアの向こうで別のベルが鳴り響き、ドア自体がもう一つのベルと同じように開いた。二人が通り抜けると、その扉は一瞬にして閉じられ、二人は真っ暗闇の中に取り残された。
 コルストンはアーノルドの腕を掴んで自分の方に引き寄せると、そっと耳打ちした。

「この合言葉の仕組みをどう思う?」
「知っている人じゃなければ、突破するのはかなり難しいと思うよ。どうして別々の言語なんだい?」
「保証を二重にするために、〈インナー・サークル〉のメンバーは全員、ヨーロッパの四つの言語に通じていなければならない。そのため、二つの言語がどのようなものであるかは、家に入る前には私でさえも知らない。もし私が『スミスさん』ではなく、『ブラウンさん』と頼んでいたら、応接室から先には進めなかっただろうね。フットマンがドイツ語で『自由』と告げた時に、私は歩哨の質問にドイツ語で答えなければならないと思っていた。もし、彼の言葉を理解できなかったり、ドイツ語以外の言葉で答えたりしていたら、彼は何も言わずに我々を撃ち殺し、その後で我々がどうなったのかは誰も知ることができなかっただろうね。君はこの条件からは免除されている。なぜなら、君は常に私と一緒に来ることになるだろうからね。実際、君に対しては私も責任があるし」

「で、でたらめなことを言って通り抜けられる可能性はないんだろうね……」とアーノルドは思わず身震いしながら返した。「誰か試したことはあるのかい?」

「ああ、一度ね。十二カ月ほど前に少し話題になった『クラパムの謎』の原因である、二人の紳士の失踪事件だ。彼らはフランス軍の中でも、もっとも賢い軍事探偵で、この家の正体を突き止めた唯一の二人だった。今、彼らは君が立っている床の下に埋まっているよ」

 その言葉は冷酷で融通の利かない冷たさでもって語られ、凍てつく空気のようにアーノルドを襲った。彼は震え上がり、返事をしようとしたが、コルストンが再び彼の腕を掴み、慌てて言った。

「さあ! 我々は今から中に入る。私が言ったことを思い出して、誰かがそうするように言うまで、二度と口を利くんじゃないぞ」

 彼がそう言うと暗い部屋の壁の扉が開き、暗がりに慣れた彼らの目に、柔らかな光の洪水が流れ込んできた。
 その瞬間、向かいの部屋からロシア語で男の声がした。

「そこに立っているのは誰だね?」
「モーリス・コルストンと『天空の支配者』ですよ」とコルストンが同じ言語で答えた。
「歓迎するよ」という返事があるのと同時、コルストンはアーノルドの腕を掴んで、彼を部屋の中に連れて行った。


――つづく

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