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古代、神奈川県の大山にやってきた徐福・秦氏① ~富士山王朝序章~

・神奈川県の丹沢山系は秦族・徐福ゆかりの地

最近、超古代、富士山のふもとにあったという、富士山文明について調べています。富士山のふもとに高天原(たかまがはら)という王国があり、今から約2300年前、秦(中国)からやってきた方士・徐福(じょふく)が、富士山麓にたどり着き、富士山王朝の一員となったという逸話があります。
徐福は秦の始皇帝から、不老長寿の薬を探し出すよう命令され、見つからなければ(秦に)帰ってきてはならない、と言われ、不老長寿の薬が見つからなかった徐福ら500人一行は、そのまま日本に帰化したそうです。

「方士」とは神仙の術を行う者。富士山に渡来した徐福は、富士山王朝のお姫さまと結婚し、約10人の子供を授かり、その子孫は日本中に旅立っていきました。徐福の渡来伝説がある場所が、日本に20か所ほどあるのは、徐福の子孫たちが、富士山から降臨したから。
徐福たちは、初めて渡来した場所で、まず大きな山に登りそこから景色を見下ろし、住みやすそうな場所を選び移り住んでいきました。

東京からほど近い丹沢山系の大山のふもとの、秦野市や伊勢原市では、「徐福が乳牛の飼育を教え、チーズの作り方を教えた」との伝承や、さまざまな徐福伝承が残っています。
丹沢という地名自体が、徐福から来ていると言われ、丹沢の「丹」は『朱、辰砂(たんしゃ)』で、水銀のほか、鉱物を意味し、中医学で鎮静薬などの薬をさすことがあります。
水銀は現代では猛毒ですが、古代の中国では聖なる薬と信じられていました。始皇帝は不老不死の薬として、水銀を飲み50歳で死去します。

また、「丹薬(たんやく)」は不老不死の霊薬を意味します。そして「沢」は渓谷の渓流。「丹沢」という地名には、徐福たちが不老不死の薬を探し求めた由来が隠されていました。

徐福ら秦氏は、富士山から丹沢のふもとの地域に住み、酒造りや酪農、農耕といった大陸の技術を、渡来した地域に伝えたそうです。
古語で神奈川県をさす「相模(さがみ)」も、「山の神」や「農耕神」をさし、徐福が「農耕」を教えたとの逸話が残っていることから、「サガミ(相模)」は徐福をさすとの説があります。

私はこれまで、富士山王朝を信じていませんでした。ですが縄文に興味を持ち、縄文ゆかりの地を訪ね歩くうち、神奈川県の大山に興味を持ちました。そして大山のふもとに、秦氏や富士山王朝の伝承が残っていることに気づき、同時に古代から、秦氏が日本を裏から支え、国づくりをしていった歴史も知ることとなりました。


・神奈川県の霊山・大山  ~縄文と富士山王朝ゆかりの地~

江戸時代、神奈川県の大山は国家鎮守の霊山として崇敬を集め、『大山詣で(もうで)』として、関東一円から、参拝者が訪れるパワースポットでした。大山の起源は古く、縄文期から聖山として信仰され、この大山を御神体をする、神奈川県比々多神社の境内や付近からは、勾玉工房や、ストーンサークルなど、1万年近く昔の縄文時代にさかのぼる遺物が、見つかっています。

大山は、地元では「大山阿夫利(あふり)山」と呼ばれています。大山は雨が多いので、「雨降り(あめふり)山」がなまったとされますが、一説にはアイヌ語の「アンヌプリ」から来ているとも?!
アイヌ語の「アン」は「そこにある」と言う意味。そして「ヌプリ」は「山」。なのでアイヌ語で「大山・阿夫利(アンヌプリ)山」は、「そこにある大きな(偉大な)山?」をさすのかな?と思います。
アイヌ語は、縄文を色濃く残す、縄文直系の言語。はるか昔、大山のふもとに縄文人たちが住み、平和に暮らしていたのかもしれません。

(※この大山はのちの古墳時代、富士川をはさんで、富士山王朝とヤマト王権の戦いがあった際に重要な役割を果たします。その後、現在の天皇家とは異なる、別の正統!?な血統を持つ皇家が誕生します。そしてそれこそが、富士山王朝が封印された理由でした。これはのちの「封印された富士山王朝の謎」で書く予定。富士山王朝は深淵に満ちているので、少しずつ書いていきたいです。)



・日本にやってきた秦氏たち ~大山のふもとの出雲族と秦族~

大山のふもとに秦野(はだの)という町がありますが、これは名前の通り、古代、中国(秦)からやってきた人々が開拓した場所。

富士山王朝は、秦氏と出雲族とも関係が深いです。富士山の南のほうに伊豆半島がありますが、この「伊豆(いず)」という地名は、古来この地にやってきた出雲族の「出雲(いずも)」が由来。 

出雲族は、大陸からやってきた秦氏を受け入れるなど、縄文系でありながら、渡来系でもあった氏族。近年、ある(大学の)研究機関が、出雲地方の人たちのDNAを採取して調べたところ、『出雲の人たちのDNAは、韓国や中国の人のDNA率は少なく、縄文系DNAが多い』という結果でした。出雲は地理的にも朝鮮半島や中国に近く、歴史的にも古代から大陸と関わりが深かったので、渡来系DNAも多いのではないか?という予想を反し、「出雲の人たちは縄文系DNA率が高い」ということで、歴史好きの間で話題になりました。

そして秦野駅のすぐ近くに、出雲神社と、白笹(しろささ)稲荷神社がとなりあって鎮座しています。出雲神社が出雲族の氏神で、白笹稲荷神社は秦氏の氏神。
初めて秦野を訪れた際、古代、大山を含む丹沢山系に移り住んだ出雲族・秦族の歴史が、そっくりそのまま現代の秦野市にスピリチャル的に受け継がれていることに、少し驚きました。

秦野駅近くにある白笹稲荷神社は、関東三大稲荷の一社の一つ。そして、秦氏が氏神としてまつった「稲荷神」は、五穀豊穣(作物が良く実ること)と農耕の神。日本の五円玉硬貨には稲の模様が書かれており、稲荷神の紋章とよく似ています。



・日本に帰化した秦氏 

「秦氏」は、「秦」滅亡後、日本に渡来した人々をさしますが、それだけではなく、中近東の「ヘブライ系民族」も意味します。いわば(有色人種の)秦氏と、中近東のヘブライ系(白人含む)の両方が、秦氏。
ヘブライ語に似た日本語はたくさんあり、その一つが「トリイ」。「トリイ」はヘブライ語で「門」をさし、神社の鳥居がヘブライ語で「門」。
ヘブライ語を調べていると、日本語と似た単語が多くて、ドキっします。

ちなみに韓国で、「秦」という言葉は、「海」や「よそ者」をさし、秦の滅亡後、優秀な頭脳を持つ秦氏は朝鮮に滞在していましたが、永住はできなかった様子。

秦氏は先端の巨大な船に乗り、日本にやってきました。秦氏は大陸でたくさんの戦争をくぐり抜けただけあって、鋭利な武器を持ち、争いに長けた人も多くいました。出雲族は秦氏との融合後、「争い」という概念を持つようになったと言われています。

秦野駅は、小田急小田原線で新宿から、快速急行で一時間ちょっと。秦野駅から近い場所に古墳公園があり、秦野周辺には、桜土手古墳をはじめ、秦氏ゆかりの古墳があるそうです。



・秦氏の苗字は現代の日本に多い?!~秦氏の子孫たち~

そして、先祖が秦氏と言われる名前ですが、

「羽田、畑、波田、八田、半田、(山や川をつけて)畑川、畑中、畠山、広畑、幡野、秦野、そして服部、羽島、林、神保、宋、田村、小松、大蔵、三林、小宅、本間、高尾、原、常、井手、四国の長宗我部氏、九州の島津氏」など。

これらすべて、秦氏の子孫たちの苗字です。
そして三井財閥と、住友財閥も、秦氏の子孫。
ちょっと前に、銀行同士の合併で「三井住友銀行」ができましたが、こちらも秦氏たちによる、連合?とみることができます。

三井住友海上火災保険株式会社は、2001年10月に、三井海上火災保険(株)と住友海上火災保険(株)の合併により誕生しましたが、2006年2月、この合同会社の共同最高経営責任者(CEO)の会長に就任したのは、「秦喜秋」という名前の方。お名前からして、秦氏直系!
三井財閥と住友財閥が、秦氏直系というのは案外、本当かもしれません。

また稲荷神社は日本中にあります。
稲荷神を主祭神として祀るのは、全国で2970の神社。そして境内社や合同祭祀ではなんと33200社。さらに屋敷神や個人、企業で祭られていたり、路地や山野の小さい祠で祀られている稲荷社を含めると、膨大な稲荷社が日本に存在します。

この膨大な稲荷社の数は、古代から、秦氏が全国に散らばっていったことを示し、同時に、秦氏に帰順した氏族が、秦氏の氏神である「稲荷社」を祀ったことからも来ています。
そして現代でも、稲荷社に五穀豊穣や商売繁盛を願い、会社や自宅に祀る人は後を絶ちません。

それにしても秦氏由来の苗字は多く、日本にはたくさんの秦氏の子孫がいることに驚きました。。
秦氏系の神社は京都に多く、平安初期、桓武天皇が京都に平安京を造営した際も、秦氏は、暴れ川だった桂川の治水を成功させ、同時に経済面でも、平安京づくりの大きなスポンサーとして活躍しました。
桓武天皇はたくさんの渡来人を重用しました。
桓武天皇の27人の后妃のうち、渡来系豪族出身の妃は「百済王氏が3人、坂上氏が2人、百済氏が1人」と、全部で6人の渡来系の妃を娶り、渡来系を大切にした天皇でした。

ちなみに上皇にあたる平成天皇は在位中、韓国との国交において「平安時代の桓武天皇の生母は、朝鮮半島にあった百済(くだら)出身」と公言され、天皇と朝鮮半島の結びつきの深さについて言明したことはメディアで取り上げられ、大きな話題になりました。


私が縄文に興味を持って気づいたのは、縄文はただの古代ではなく現代につながる日本人のルーツ。そして秦氏は目立たないながらも、古代から現在まで、政治のフィクサー(黒幕)として、財閥や大企業として日本を動かし、スピリチャル面でも、影響を与えているのかな?と感じます。



・富士山王朝に合流した秦氏・徐福たち

約2000年前、死期を悟った秦の始皇帝は不老長寿の薬を求め、徐福に探させます。徐福が旅に出て、たどりついたのが日本。徐福が日本に渡来した伝承が残っている場所は、三重県熊野や福岡県八女市、さらに佐賀や京都など。そしてここ富士山麓もその一つ。
徐福たち秦氏は富士山王朝に迎えられます。そして徐福はこれまで3つの神代文字で書かれてきた「富士山王朝」の歴史を漢字で記します。それが「宮下文書」と呼ばれる古い文献。
正史では宮下文書は偽物とされていますが、富士山麓には宮下文書ゆかりの場所や古代の氏族の苗字が多く残っています。



・パワースポット寒川神社は富士山王朝と関わりがあった?!

パワースポットとして名高い、寒川(さむかわ)神社は、この大山からほど近い場所にあります。寒川とは古語で「泉がわく」という意味。
もともと丹沢山系は古代から、秦氏や出雲族が移り住んだ場所。さらに延歴19年(800年)の富士山大噴火により、富士山麓に住んでいた秦氏や出雲族は住み家を失い、寒川神社周辺に次々と移住します。そして噴火で失われた富士王朝系神社のかわりに創建したのが、寒川神社と伝えられています。

富士山王朝はこれまで2回封印されています。一度目の封印はヤマトタケル。二度目の封印は、平安期の坂上田村麻呂将軍によるもの。

寒川神社の寒川(さむかわ)は、富士山麓の高天原(たかまがはら)王国に流れていた寒川という名前が起源。この寒川神社は、富士山文明と関わりがあり、それゆえのパワースポットでした。

次回は、『謎多き寒川神社のご祭神と天文学(陰陽師)』がテーマです。長くなったので続きますね。






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