感動は『させる』ものではなく『する』もの
私は小さいころからテレビが好きで、姉の影響か、ドラマをよく観ていました。
テレビドラマなどを見ていると、平凡な日常を描くドラマはほとんどなく、さまざまな事件や人間ドラマ、感動が描かれている。
私たちはそのようなドラマを見ていると『私もあんな風になりたい』『感動を与えたい』と思うようになる。
それは自然なことだ。
しかし、それを教育現場で悪用する輩がいる。
さまざまな説明会で、過去の生徒の受験勉強の話をして、色をつけて話したり、感動させるフレーズを付け足して話したり、あの手この手で感動させようとする。
その結果どうなるか。
それを聞いた子どもたちはその説明会の話(ストーリー)に出てくる主人公のように子どもたちも『人を感動させたい』と思い、結果よりプロセスを大事にするようになり、さまざまな『頑張りアピールパフォーマンス』に走ってしまう。
周りの大人に関しても同じだ。
自分の生徒を感動させたいと思い、『長時間働く俺ってかっこいい』をアピールしたり、わざと苦労して、大変さを最大限にアピールしたりする。
そして、純粋な子どもたちはこのような大人の茶番に騙されてしまうのである。
それよりも、感動させようと働くのではなく、子どもたちに『結果』を残してあげようと必死になって働けばそれだけ十分だと私は思う。
そんな大人の姿を見て、心を動かされる子もいるだろうし、一方で心を動かされない子もいると思うが、それはそれでよし。
ドラマを観ていると『感動』とは派手なもののように感じるがそれは、大きな間違いで、地味にコツコツ『結果を残そうと頑張っている人』にこそ、感動は自然と生まれてくるのものである。
私たち教育現場にいる講師は、『感動』を人工的に生み出そうとするのではなく、ただただ大人は子どもたちの『結果』を出そうと毎日必死になればよいだけ。
無理やり『感動』を求めて日常を過ごさないことが真の『感動』を生む
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