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その1こころえる ③  時空の自覚 今此処に居る?

数年前に参拝した和歌山県の宇賀部神社の境内に掲げられていた、掲示板に心惹かれた、わたくし。

済んでしまったことをぐずぐずと悔いて過去に囚われている間は、自分の意識は過去に存在している。長々その状態にいると、生産性も低く、第一楽しくない。

そして、まだ起こってもいないことをアレコレと夢想し、不安の渦に巻き込まれて未来に怯えるのも、時間もエネルギーも無駄遣いな気がする。もし将来に備える方法をいくつか思い付き、手立てするのが可能ならば、それらを適切に実行した後は「天にお任せ」と放念するのが精神的に健全だ。完全に安心なんて、不可能だから。

となれば、ただ「今に意識を合わせる」ことが大事であり、限りある人生で自分を存分にドライブできるのだと教わった気がした。そうすれば「ストレス解消」になると、明快に教えていただけた、ありがたい参拝となった。

心身揃えて時間の概念で言うところの「今」に置くことの重要さは、人生の総仕上げに差し掛かっているわたくしには、重要課題。

併せて、空間的な概念においても、「心此処に在らず」のような状態に陥らないようにと思うのだ。これは身を修める、大学という中国の古典に書かれている言葉だそう。自分を十分に生きるためには、心の在り方を調え、五感が受け取るものをしっかりと意識することが大事と、わたくしは受け止めている。↓

もちろん、君子ではないので四六時中「集中」は難しそう。ただ、どうでもよいよそ事に気を取られたまま日々を過ごすことにならぬようにしたいくらいで、いいのかもしれない。

そこで、今回の心得るは、↓の3の意味の「会得している」である。

「心得る」とは コトバンクによると、
物事事情や意味するところをよく理解する。のみこむ。わきまえる。「扱いを―・えている」
事情をよく理解したうえで引き受ける。承知する。「―・えました。おまかせください」
たしなみがある。会得している。茶道少しは―・えている」
気をつける。用心する。
「ころび落ちぬやう―・えて炭を積むべきなり」〈徒然・二一三〉

の意味を有する言葉である。

時間は「今」、空間は「此処」に自分の意識を設定するように、心がけること。そうするうちに、段々と自分の通常になるといい。「今」や「此処」が大きな負荷になるとき、それを緩和しようとつい「目をそらし」、現実逃避しそうになる。でも、それがデフォルトになってしまうと、具合が悪い。

もし、そんな息が詰まるような状況に陥ったら、わたくしは、この絵本↓を開こうと思う。ヨシタケシンスケさんの作品は、まじめに生きるアレコレに取り組むヒントを楽しく与えてくれる

ちょっとくすっと笑えたら、心のエネルギーチャージもできるだろう。そうなれば、厳しい「今」「此処」にも自分を据直して、両目を見開き、耳を澄まして、現実を確りと受け止めて進む勇気が出る気がする。

生き迷うのは、誰にでもあること。けれども、自分を大切にすることを手放さず、「自分勝手」「わがまま」の誹りにも負けずに進めば、この国特有の同調バイアスなる、お互いに空気を読むという名の我慢大会(そんな大会にエントリーした覚えもないけれど)から降りることもできる。

還暦迎えるまで生き延びた末、こんな考えを持って、どうにか「今」「此処」に自分を落ち着かせるようと心得られるのは有難い。

もしも、同調バイアスに長く巻かれ続けていると、自分だけでは物足りず、他人様にまで参加を募ってしまいそうだ。そのうえ、ことの罪深さにも気づかないほど感覚が鈍磨して、まさに「見えども見えず、聞けども聞こえず」の深みに、はまっていくかもしれない。

還暦を越えれば、加齢の苦労もいろいろと出来するだろう。それでも、「今と此処にある自分」であり続けてこそ、充実という名の「しあわせ」が得られるのではないか。

そんなことを妄想しているタイミングで、最近友人間で話題の、ネドじゅんさんの脳の使い方、働きの記事は大変に参考になった。↓ 精神論ではない、身体論としてのアプローチもあってこそ、バランスが良い生き方上手になれると思う。

「今、此処で生きる」には、自分の脳のどちらが優位かが大きなポイントだという指摘は、新鮮で明快だ。脳という器官が優位性を左右で競り合っていると想像すると、自分を幸せにする脳の使い方を心得ることも、これからのテーマ。ネドじゅんさんのおかげで、またひとつ新しい目標が増えた。

未知の愉しさがまだまだたくさん詰まっているこの世。物心ともに今此処を極められたら、ワクワクするほどにご機嫌なアラカンになれるだろう。

夏の朝 送り出されて 紅芙蓉

最後までお読み下さり、ありがとうございます。感恩戴徳。


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