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実らないアラフォー人生

1983年、双子の姉として私は産まれました。

三歳になり、ネフローゼという病気になり幼少期はほとんど病院にいる記憶しかありません。

夜中に注射をされたり、血管が見つからずなんども針を刺されたりで病院がすごく嫌になり、病院での私は一言も喋れない子供になりました。
体もホルモン剤でむくみが酷く、細かった体は3倍くらいに膨らみました。
走り回ることもできず、小学校時代は殆ど体育を見学。もちろん、泳ぐことも、走ることも、跳び箱、縄跳び、鉄棒、ありとあらゆる運動能力がつかずに今に至ります。
それでも登下校は家が近かったのもあり自分の足で行きました。行きは、信号のところで待っている、緑のおばさん(交通指導員)にお話をして学校へいき、帰りは帰り道にいる近所の家のワンちゃんに給食で持ち帰ったコッペパンをほぼ毎日あげてからかえる。
体型は薬でおおきかったのですが、超がつくほど少食だった私。しかもパンが大の苦手。牛乳も苦手。毎日持ち帰っていました。

中学まで治療をしていましたが、親の必死の食事療養の成果で寛解の状態になりました。今現在も再発することなく生活ができるようになりました。

高校へは、試験を受けるのが面倒で推薦で、志望校一校だけ受けて簡単に合格しましたが、滑り止めで色んな人が来る学校ということもあり、寛解で病状が落ち着いて痩せてはいたけど、足に肉割れがあったりと、昔から変わった性格のせいか、いじめに会いました。それと同時に彼氏もできた私は、学校をサボるようになりました。
夜中にでかけたりもするようになりました。
今まで病院ばかりだった私には、色んな世界を見せてくれる彼氏との時間が楽しくて仕方ありませんでした。
いじめられててもいずれ見返してやろう!という思いと、彼の支えもありなんとか高校を卒業し、調理の専門学校に進みました。1年間かよい卒業し、いざ卒業という時、ちょうど氷河期世代の私は履歴書を100通以上も出したのですが正社員としてはどこにも入れず、パートでケーキ屋さんで働くことに。
いつまでたっても正社員にはなれず、だんだんこのままでいいのかなって思っていた時に1度目の結婚を、デキ婚という形ですることになりました。

しかし、何故か彼はすぐには籍を入れてくれず、産まれて2ヶ月ほどしてようやく渋々入籍しましたが、結局あの時無理に籍を入れることはなかったんだなと後におもうのです。
モラハラ傾向の彼と言うことに気がついたのは2人目が産まれてからでした。
出産直後の私に家を買うのに、契約をしてこいといってくるのです。引っ越しも全て私に任せ、自分は体だけ新居にいく。
我慢も長く続くわけがなく2人目が8ヶ月のとき、別居を、一歳になる少し前に離婚は成立しました。
面会交流のたびに、私の養育の仕方が悪いから親権をやはりじぶんによこせと毎度言ってきたり、児相をよばれたり、住居を教えてないのに、突然家まで押しかけてきたり、引っ越してもやってきた時にもう無理だと思い、実家から離れた違う土地へ逃げるようにして引っ越しました。

しばらくして再婚をしました。3人目も妊娠し、今度こそ幸せに暮らせるとおもったのに、今回も結婚してから、借金があり、貯金もなく、仕事もせずな生活をしていたことが判明するのです。

建築関係の仕事を、個人事業主としてやっていた彼は、もちろん自分で仕事を探さないと無収入。私と再婚してからまったく働かなくなりました。
私の貯金をあてにしていました。
 
再婚して3ヶ月で1度目の離婚危機。私の我慢が限界を迎え働かないことに納得できず口論になりました。
話し合った結果、1度チャンスをくれということで出産を控えていたこともあり了承しました。

最初の一年は頑張っていました。その途中コロナ禍の到来で仕事が全くなくなりました。

とにかくアルバイトでも何でもいいから働いて欲しかったけど言い訳をしてまた働かなくなりました。子供の保育園が決まったこともあり、私はパートにではじめたのにです。
タバコも酒もやめずに、そこを問い詰めると、やめられない!無理だ!と逆ギレをしてくるのです。嗜好品だけで月に5万消えていました。もちろん私の貯金からです。

そこから今まで働いたり働かなかったりを繰り返し、嗜好品で浪費を繰り返し4人目を産んだばかりの私の貯金をガッポリ消費する生活をしていますが、その話をしてもなんとも思っていない。
 
それどころか、自分の連れ子の嘘つき馬鹿息子が、私名義の携帯電話を持ち逃げしたまま返にも来ず、支払いなどの返済もしてこず逃げて生活保護をうけていて、その手助けをしているんじゃないかというくらい怪しい行動をしている。 

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