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【映画評】クリストファー・ノーラン監督『インセプション』(Inception, 2010)

 キング・ヴィダーの『摩天楼』(1949)におけるのと同様、本作でも「アーキテクト」と呼ばれる存在が「ピュア・クリエーション(純粋創造)」を目指す過程で「パラサイト」を引き合いに出す。ただし、両作における「パラサイト」の位置付けは異なっている。
 『摩天楼』で、それは建築家に代表される天才的エリート(選民)にたかる「寄生者」、つまり一般大衆のことであったが——ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の生活』(2019)でもそうだ――、本作では大資本家たるホストの脳(潜在意識)を一度捉えたら最後、決して離さない「伴食者(パラサイト)」=「アイディア」のことである。そして「アーキテクト」とは、そのアイディアの「インセプション(取り入れ)」を可能にすべく夢世界(都市)の設計をする者なのである。
 1940年代の「選民に切り捨てられる存在」としてのパラサイトから、2010年代における「選民が捨て切れない妄念」としてのそれへ。その間にアーキテクトの変質——建築家から資本家へ――もまたあったに違いないのだが、さて。

【補遺】本作の終盤、エディット・ピアフの “Non, je ne regrette rien” (邦語タイトルは『水に流して』)が男に夢からの覚醒を促す。これは妻役のマリオン・コティヤールが先頃ピアフを演じたことへの目配せというばかりではあるまい。「私は何も後悔しない。0から出直すの」というこの歌こそが男の決意その物と化すのだ。
 もう一つ、考えてみたいのはノーランの作品における重力についてである。そこで重力は「狂気」あるいは「死」へと登場人物たちを誘う力であり、また同時に世界を統べる唯一の基準である。それは『インターステラー』(2014)で最大限に活性化されることになるだろう。


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